『今夜はひとりぼっちかい?』高橋源一郎 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇』高橋源一郎 講談社

 

 

 

 

 

 

「文学史そのものを小説にする「日本文学盛衰史」の次なるテーマは「戦後文学」。誰にも読まれなくなった難物を、ロックンロールやパンク、ラップにのせ、ブログやtwitter、YouTubeまで使って揉みほぐす。そんなある日、タカハシさんは「戦災」に遭う…。前作の興奮をふたたび」Amazon商品説明より

 

 

 

今年は日本の小説をぜんぜん読んでない!ということに気がついて、半分くらい読んでどこかにいっていた本書を発掘し、読み終えた。もうじき今年も終わる、いろいろさくさくやっていかないと間に合わないので、この記事もあっさり目に書くが、久しぶりの高橋源一郎である。

 

高橋源一郎から受けた影響は非常に大きい。なんというか、もともとよく本を読んでいたぼくが、一段階レベルが上がった、もしくはひとつ深い層にもぐりこむことができた、もっとも重要なきっかけなのである。いろいろなところで書いているのでくわしくは記さないが、22歳くらいまでのぼくは、よく小説を書いて文芸誌の新人賞に投稿していた。それまでのぼくもそうとうに本を読んではいたが、いまとは選ぶものがぜんぜんちがったし、広く読んでいるようで、じつはけっこう偏っていたのだとおもう。凝り性なので、村上春樹とか島田荘司とか、そういう好きな作家はとことん読んでいったが、たとえば書店でそこに並んで置かれている講談社文庫の村上龍を手に取ったかというと、そういうことはなかったわけである。

いま考えても当時のぼくは、読み手としても書き手としてもとても未熟だった。小説はいちどだけ、一次選考を通ったことがあるのみで、じぶんの能力を疑うことのない傲慢さのぼくも、しばらくして「あれ、なんかおかしいな」と気がつくわけである。そうして、もっといろいろなものを読まなければならない、特に小説の構造について考えたようなもの、端的に批評を読まなければいけない、さらに、批評をやっていかなければいけない、というふうになった。そのすべてを満たすものが、読んだものすべてについて公開するというブログであった。「誰が読んでも不思議はない」という条件は、文章に強い緊張をほどこす。ブログをはじめたことは、結果としてはよかったとはおもう。が、それと同時にぼくは小説が書けなくなってしまった。厳密にいえば書けるが、ひとに見せることはできなくなってしまった。なぜなら、なにを書いても幼稚なものにおもえ、じぶんがバカみたいにおもえるようになってしまったからである。また、以前までの読書スピードも失われた。なぜなら、「誰が読むかわからない」以上、適当な批評は書けないからである(書いてるけど)。そしてぼくは乱読もできなくなった。かわりに、精読ができるようにはなったのだが。

そういう時期に出会ったのが高橋源一郎である。たしかブログをはじめるちょっと前くらいに、パソコンをもっていなかったぼくが、携帯で村上春樹のなにかを調べていて、同時に高橋源一郎を紹介しているサイトにでくわしたのだ。あれがどなたのブログだったのか、いま調べてももはやわからないが、あのようにただ「熱量」を通してその良さを伝えることができるのは、批評ではないかもしれないが、本の紹介者としては理想であると、いまでもおもう。

 

そうして手にした『さようなら、ギャングたち』の衝撃である。それまでのぼくは、基本的に「物語」を求めて小説を読んでいたようにおもう。それは別にまちがってはいないのだが、小説にはこういうありよう、すなわち「リリシズム」というものがあるのだということを、そのときにはじめて理解したのだ。村上春樹の文章もぼくは好きだった。おもえばその時点で、その兆しはあった。だから、そのなかに「詩」を拾ってもよかったはずだが、そうはならなかった。そして、村上春樹と高橋源一郎のデビュー作はじっさいけっこう似ているのである。ぜんぜんちがうけど、なんか後味が近いのだ。しかし、春樹を通じてそういうふうに感じたことはなかった。こういうパラダイムシフトは、独学ではなかなか訪れにくいものなのだ。

(げんに高橋源一郎は内田樹との対談で、春樹のデビュー作『風の歌を聴け』を群像本誌で目にし、じぶんと同じことをやろうとしているやつがいると勘付いて、すぐ読むのをやめたと語っている)

そこから、とにかく小説が、文学が大好きな高橋源一郎を読み進めていき、その小説、また語り口に影響を受けながら、加えてそこで紹介される無数の小説家たちともはじめて出会うことになった。ぼくはそれまで「けっこう本を知っているほう」だと自認していたわけだが、高橋源一郎がたとえば『一億三千万人のための小説教室』で紹介する小説家・作品のほとんどを、ぼくは知らないか、読んだことがなかった。あんなに心地よい「じぶんがまだまだだ」感はそうない。田中小実昌なんかもそのとき知って好きになった。そこから一気に視野が広がり、同時に「じぶんはまだまだだ」感も維持している。

 

 

 

 

 

そうした方向性で影響を受けたもうひとつの傑作が、『日本文学盛衰史』である。これは、二葉亭四迷の言文一致からはじまる、明治時代の作家たちの苦闘を描いた小説だ。もちろん、高橋源一郎のことなので、歴史的事実を調査のうえ記したという本ではない。「小説」である。「露骨なる描写」の果てに田山花袋がAVの撮影に参加したりする「小説」である(田山花袋ら明治の作家も、多くは名前を知っているのみで、このときからはじめて読むようになった)。本書はいちおうその続編ということになる。今度は「戦後文学」である。

 

 

 

 

 

 

だが、たんに高橋源一郎らしく特殊であるばかりでなく、本書はある意味では失敗している。というのは、なかばで、東日本大震災が起こるのだ。そこまでの流れは、いつもの調子で、なにが描かれてるのかよくわからないまま重要なものごとが進行していく感覚で、小林秀雄が大岡昇平とツイッターで話したり、唐突にラップがはじまったり、小説家が小説として書く批評としてはいつも最高峰なのだが、石坂洋次郎が読み解かれたり、ちょっといじわるに響くかもしれないが、「最近の高橋源一郎」という感じだ。それが、なかばで文字通り強く揺さぶられ、作中の語でいえば「ずれた」のである。ぼくは、これを失敗とはおもわないが、以前の大傑作『日本文学盛衰史』の続編ということなのであれば、ちょっとちがうものになっているとはいえるとおもう。だが、この「ずれた」あとの文章は、とてもすばらしい。というのは、ただの古参ファンみたいだが、なにか『さようなら、ギャングたち』や『ジョン・レノン対火星人』のときのような、切羽詰った果てにようやく出てきた言葉を震える手で並べている感じがあるのだ。げんに、そうだった。東日本大震災のあのときの日本は、たしかにそうだったのである。卒業式が自粛された明治学院大学で有志によって行われた「卒業式みたいなもの」でのスピーチで、高橋源一郎はこういっている。

 

 

 

「『正しい』という理由で、なにかをするべきではありません。『正しさ』への同調圧力によって、『正しい』ことをするべきではありません。あなたが、心の底からやろうと思うことが、結果として、『正しさ』と合致する、それでいいのです」285頁

 

 

前後に伸びている小説としての文章は、緊張感と迷いに満ちており、たしかに「昔」のようでもある。しかしそうではないのだろう。心の底から出てくるものが「正しい」ものであるために、わたしたちは内面の彫琢を、要するに勉強を続けなければならないだろう。だがそういう現実とは別に、若者にはこのような言葉が必要だ。こういう意味では、やはり似ているようで「昔」とはちがう。

 

 

 

 

 

 

 

 

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