今週のバキ道/第113話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第113話/緊急事態(アクシデント)

 

 

 

 

光成邸でジャックと宿禰が遭遇、今夜行われる試合前に両者はぶつかりあうことになる。

流れとしては喧嘩に近い。いまから始めてもいいというジャックに、宿禰はそうであるなら勝手に襲いかかってくれば、みたいなことをいう。ところが、ジャックは意外にも「人目」が欲しいと述べたのだ。これを拾った宿禰がジャックを挑発、怒ったのでもないだろうが、喧嘩を買うようなかたちでジャックが拳を繰り出した。宿禰はこれを額で受け止め、強烈な張り手。だがジャックはこれをくらうと同時に、渋川剛気のアキレス腱を奪ったときのように、宿禰の左小指を噛み切ったのである。

 

ジャックはおそろしい笑顔とともに、くちのなかから宿禰の小指を出してみせる。宿禰はなにしろ嚙みつきという行為のリアリティに衝撃を受けているようだ。先週、噛み切ったもの、もぎとったものがくっつくのかな・・・などと心配していたぼくは愚か者である。ジャックはそれを舌にのせなおし、感触をたしかめながら咀嚼しだしたのである。嚙みつきを実行するジャックならなんでもないことのようだが、これまでのジャックは噛みついて切り離した相手の身体はすべて吐き出していたようにおもう。「食べる」のはピクルを除くとバキ世界では初のことだ。

まず舌のうえで転がしているのか、ワインでも批評するように、ジャックが大きさと肉付きを評価する。常人の足の親指くらいあると。そりゃすごいな・・・。続けて、バキボキ噛み始める。動物の背骨ごとくらうジャックならふつうのことだ。だが、そのジャックが骨の触感をも評価する。建築資材のようだと。

いやいや、なにを冷静に堪能してるんだよということで、光成が「何食ってるんじゃああ」という、「だよね」なリアクションをとる。「野見宿禰の小指」は、たしかに、独歩の正拳ばりの価値があるよね。こうなってもしかたないかな。光成は、基本的になにも考えてないが、それが読者ポジションとしていい具合に白紙になるということなのかな。

 

小指は力士の命、という光成の語を受けて、命だか魂だか知らないが、手を出されたら嚙むだけだみたいなことをジャックはいう。嚙道の「本能」だと。いや、嚙むのはともかく食ってしまっていることをいってるんですけど・・・。

 

険しい表情の光成が、「試合は出来んぞ」という。宿禰が大怪我を負ってしまったからという意味だとおもうが、光成の不興を買ったからというふうに見えなくもない。しかしジャックも宿禰も笑みを浮かべている。地下闘技場での決着は当人どうしが決めるもの、だとするなら出場も当人が決めるべきだと。つまり、宿禰はどうおもってるかなということだ。

宿禰は落ち着いたものだ。今夜たたかうふたりが同じ家にいるのだから、これくらいの緊急事態(アクシデント)は自然だと、そして、ハンデにもちょうどいい。光成は大きくためいきをついて受け容れるほかない。かくして、満員の観客の前に、しっかり実況つきのいつもの試合が開始するのだった。

 

 

 

つづく。

 

 

 

宿禰は嚙みつきのリアリティに衝撃を受けているようではあるが、といって精神的にダメージがあるようでもない。さすがというか、たんにびっくりした、くらいの感じだ。

ひとまずは事実の確認として、小指を失った宿禰は実力的にどうなるだろう。「ハンデ」というからには、たぶん多少は減殺されてしまうものとおもわれるが、決定的なのかどうかということだ。もちろん、この試合においては、まず痛みがまだ残っているだろうし、これまであったものがなくなっているわけだから、そうとうに不自由になるだろうとはおもわれる。だが、重要なのはなぜ小指が力士にとってそれほど重要だったのかということだ。それは、廻しに指をかけて投げるとき、最後に残っている指だったからではないかとおもわれる。要するに、ここでいわれている小指の価値は、小指固有のものなのではなくて、「手の、親指の反対端にある指」ということにおいてなのである。前回みたように、力士が関与する場面で「小指」は非常に大きな意味をもつ。が、それは本質的なものではなく、経験的なものだったのである。

とするなら、くりかえすようにこれまでとはちがったかたちになるので修練は必要になるが、それが薬指になるというだけで、宿禰はほとんど問題なくたたかうかもしれない。もちろんこれは、「100メートルを10秒で走れるのなら1000メートルは100秒で走れる」みたいなことを言ってるも同然であって、空論というやつだが、しかしここで語られているのは宿禰なので、そのくらいの空論は現実にしてしまいそうだ。

 

闘技場で向き合うふたりは爽やかな表情であるという。このときの表情はあまりあてにならないというか、バキとジャックみたいに、兄弟がはじめて互いの存在を了解した喜びの笑顔のままぶん殴りあいはじめた例もあり、なにも示していない可能性もあるが、直観的にはじっさい爽やかな気分でいるのであろうとおもわれる。要は、なんのわだかまりもなく、ただたんじゅんな強さ比べができそうであるという期待感だ。ここには、大相撲と古代相撲の確執はないし、試合前のトラブルで相手がどういう人物であるか理解しているということもある。これまでのぼくの考えでは、宿禰にとってジャック戦は勇次郎に敗れたところから地続きである。宿禰は勇次郎にあっさり敗北したことで、世界の広さを痛感した。じっさいには、勇次郎は非常に特殊な人間なので、「上には上がいる」のような評価軸を持ち込むことはできず、この表現は適切でもないが、実はこれはその前後の、勇次郎におけるじぶん以外は雌であるというあの仮説と関連している。勇次郎によって手篭めにされた男は、のちに探検家となって、じしんの雄性を証明しようとしている。それは、そのときにじぶんのなかの雌を感じてしまったからだ。しかしこれは、ある種の比喩であると考えたほうがよいだろう。ここでいわれる雌とはつまり、「じぶんは範馬勇次郎ではないのだ」ということなのである。だからこれは、より厳密にいえば、「勇次郎のみが雄である」ということなのだ。しかし、そのような対称性というか非対称性というか、人類の二分法を、ひとは基本的に性別しかもっていない。今後この価値観は揺らいでいくはずだが、ひとまずはこれまでの人類はそうだったわけである。そして、勇次郎に敗れたものは、このくっきりとした分化のラインを感じてしまう。もちろん、探検家においては「手篭めにされた」という直接的経験がそれを補うことになるが、そのライン、勇次郎と非勇次郎を分ける線を知覚したとき、ひとは無意識に性別をあてはめてしまうのではないだろうか。

宿禰は手篭めにされたわけではないが、この分化のラインを痛感しはした。それが「世界は広い」というあの感想に結びつく。そしてなにをするかというと、女の子と遊ぶのである。そうすることで、探検家がその勇気で雄を証明しようとしたように、ホモソーシャルにおいて男性がホモフォビアからグループで女遊びをしようとするように、「そうではない」ということを示そうとするのだ。この次の日が、現在なのである。

対するジャックはというと、直接女性を例にあげて嚙みつきの普遍性を唱える異端児だ。くりかえしみてきたように、噛道が「道」となりえたのは、偶然もあるだろうし、ジャックじしんにはそのつもりはないかもしれない。彼も根本的にじしんの強さのみを求めるファイターであることは疑いない。だが、とにもかくにも確立された「体系」は、「人目」を求める。体系とは、誰もがコミット可能な道具のことだからだ。これも前回見たように、大相撲と似た流れであることはたしかだが、大相撲と同じ道をたどるかというと、そうはおもえない。だが宿禰はそう受け取らないだろうというはなしだ。それは、ある種の軟弱さのようにもみえるかもしれない。しかも、その技術ときたら「女」によって象徴されるような噛みつきなのだ。勇次郎に敗れてじしんの雌性を否定したい宿禰は、ここに同族嫌悪的なものを感じる可能性がある。いま、じぶんがつきつけられ、首を振って忘れようとしていることを、相手は喜々として見せつけてきているわけなのだ。

 

ところがふたりは爽やかな表情で向き合う。ここの、というか今回のポイントは、むろんジャックが食いちぎった指を「食べた」ことである。なんでもないことのようだが、さっきも書いたように、ジャックがこれまで食いちぎった相手の部位を飲み込んだことはなかったはずだ。わざわざカニバリズムなどということばを用いるまでもなく、そこには明らかに超えてはならない一線がある。

 

興味深いのは、光成が「何食ってんだ」と、極めて凡庸なつっこみをするのに対し、手を出されたら嚙むのは当たり前だみたいなことをいっている点だ。光成は「食った」ことをいっている。もちろん噛み千切ったことも責めているし、だからこそ試合はナシだみたいなことにもなるのだが、食って、咀嚼して飲み込んだことが、ここでは論点なのだ。だが、ジャックは微妙にかみ合わない応答である。ここからは、ジャックにとって「嚙む」ことと「食う」ことのあいだに区別が、距離がないことが読み取れるかもしれない。ふつうの人間が「嚙む」ことと「食う」ことのあいだに距離がないのは自然なことだが、ジャックがたたかいのなかで噛みつくときはそうではなかった。ひとが、なにかを噛み、くちに含む状況というのは、ほぼまちがいなく「食う」ときである。この原則から、これまでのジャックの嚙みつきは除かれていたのだ。つまり、嚙道より前のジャックは、嚙みつきを上手く利用してたたかいながらも、それはあくまで非日常だったのである。その底を流れる原則としては、「嚙んだら食うのは当たり前」だったのだ。だからこそ、ふつうの人間にとっての「嚙む」とはことなる「嚙む」、つまり戦闘用のバイティングを行うときに、そこから「食う」は分離されたのだ。しかし、普遍化された嚙道においてはもはや嚙みつきは「日常」である。パンを嚙んだら当然それを食うように、噛んだ以上、それを食うのは自然なことなのだ。

 

そう考えると、多くのファイターたちが嚙みつきを「見落とし」てきたのは、無意識にタブーを回避していからなのかもしれないともおもわれてくる。嚙みつきを自然なこととして日常に落とし込めば、千切った肉片を飲み込むことも日常になる。殺人、近親相姦と並んでタブーとされるのが人肉食、カニバリズムである。反抗期に異性の親を遠ざけようとするように、ファイターたちは、どこかでこの結果を理解していて、いろいろと理由をつけて、嚙みつきに真剣に取り組むことを避けていたのかもしれない。

しかしながら、なぜかジャックからは、ピクルが烈の足をくわえたときのような絶望感が感じられない。たぶん、それがきわめて技巧的に、機械的に、ものの道理のようにして行われているからだろう。腹が減っているとか、おいしそうにみえたからとか、そういう欲求があったわけではないのだ。映画に出てくるプロの殺し屋が血のにおいを感じさせないように、ジャックはクールにこれを行った。だから、なにかそれほど重大なことをしたというふうに見えないのである。

 

 

 

↓バキ道12巻 来年1月7日発売予定

 

 

 

 

 

 

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