今週の九条の大罪/第40審 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第40審/消費の産物⑬

 

 

 

 

笠置雫編、「消費の産物」最終話です。

 

この事件の発端に(本人はあまりその自覚はないようだが)かかわり、そのうえこの手の専門家ともいえる亀岡と飲み明かすことで認められた九条が、しずくと裁判にのぞむ。

とはいえ、裁判そのものの風景は描かれない。ニュース越しに、懲役3年の実刑判決、という結果が伝わる。軽度の知的障害と適応障害で心神耗弱状態であったことが認められ、被害者の中谷修斗が原因でもあったということになったのだ。なったというか、事実そうなのだが。しずくじしんも死んで償いたいということをくちにしていたことから、反省が感じられたということもあるらしい。なんか、反省というとちょっとちがうが、これは九条に対してもいっていたことだ。もちろん遺族は納得していない。

 

九条がときどき烏丸ときている屋上みたいなところに亀岡と三人でいる。実刑3年はかなり驚きの数字のようだ。だが、しずくの問題そのものは解決していない。まず、過去はこれからずっと背負うことになる。そこに烏丸は、このまましずくが変わらないなら、また修斗のような人間を好きになってしまうかもと付け加える。

いっしょにしゃがみこんで亀岡が修斗について語る。修斗にかんしてはこれまで誰も(ぼくも)分析してこなかったので、かなり新鮮な描写だ。修斗は一見すると自分大好き自己中人間である。だが亀岡は、決して自分が好きなわけではないと、語る。好きじゃないから、愛せないから、守ろうとするのだと。

亀岡の表情や口調は同情的なものだ。というのは、亀岡じしんにもそういう面はあるからだ。じぶんのすべてを肯定することはできない。それどころか、否定したくなることのほうが人生では多い。そのときに、ひとは拠り所を求める。

 

 

「誰もが自分の生命力と時間を消費してる。

 

買っても買ってもまだ足らなくて、

不安や孤独から目を逸らす口当たりのいい商品をまた買わされる。

 

一瞬の輝きと引き換えに、

本来の生き方を絶望の中で見失って苦しんでいる」

 

 

 

九条が落ち着いた様子の雫と面会している。すぐに刑務所には行かず、1、2ヶ月はここの拘置所で過ごすことになるようだ。3年は長いかもしれないがそのときにはまだ雫は22歳ですねと、九条はたぶんなぐさめるつもりでいう。だが、いまなにもよりかかれるものがないしずくは、だからなんなのだというのだろうという感じだ。3年たって、外に出て、どうしたらいいのか?

 

 

「1日1日、日常を愛おしいと思えたら、

それが貴方の居場所です。

 

どんな場所にいようと心を満たすことは出来る」

 

 

 

いいセリフだなあ。九条から出てきたというのがまたいいな。

九条は、いつか娘の誕生日に贈りたいとおもっている本、星の王子さまなどを雫に差し入れる。つまり、娘に接するような気持ちでいるということだ。

奪われるのでなく、与えられる人間になれるまで、寄り添うと九条は約束する。もし行く場所がないなら、そのときはじぶんの事務所にくればいいとまでいうのだった。

 

 

 

つづく。

 

 

 

しずくに「家」ができたわけである。ほんとうに、3年後、九条が雫を雇うのかどうかというのは、この時点ではあまり重要ではない。そのようにくちにして安心させることが、もっとも重要なのだ。息子のことを心配する母親が、「なにかあったらお母さんにいいなさい」と言うことが、たとえば10億円の借金を背負ったとしても、それはお母さんがなんとかするということを意味しないのと同じことである。重要なことは、隣に立って、同じ方向を向いて、同じものを見ること、そういうひと、場所があると当人が感じられることなのだ。

しかし、ともあれ、これはまったく、弁護士としての約束ではない。第三者的には、感情移入しすぎだというはなしになるだろう。だが九条は、しずくに象徴的なものを見ている。これは亀岡の影響もあるだろう。というのは、個人に象徴をみるのは批評の仕事だからだ。亀岡は、システムに挑戦する。たほうで九条は、依頼人に寄り添う。たまたまめぐりあった雫をなんとか救えずに、どうして世の中が変えられるだろうかと、こんな気持ちなのだ。

逆にいえば、思想家・活動家としての亀岡は、個別の現象にかんしてはあまり分析的には深入りしない。それだからこそ、しずくのAVにかんして(戦略的なものであったとはいえ)おせっかいをすることができる。個別の事情を超えて、総体的な傾向を読み取って批評的に行動するものしか、革命を起こすことはできない。依頼人のはなしをよく聞く、つまり依頼人の物語を分析的に(批判的にではない)読み解くことを旨とする九条は、亀岡とは正反対ということになるが、同時におそらく、あの影の対比で示されたように、じぶんの欠落部分として、そうした視点を感じ、影響を受けているのかもしれない。雫を女性差別、弱者のアイコンとみるとき、しずくの個別の事情は捨象される。それは九条の目指すところではない。しかしながら、そういう「傾向」があることは、亀岡を通じて感じ取ることができた。そのときに、じぶんはこの目の前にいる依頼人に対してなにができるか。その結果が、今回の九条の逸脱であろうとおもわれる。

 

ひとが「家」をもつというのはどういうことだろうか、あるいは言い換えて、「家」をもたないとはどういうことか。「こういうことだよ」というのが今回のおはなしだったわけだが、もう少し散文的にいうと、「家」は「存在」をなにか別のものに言い換えなくてもよい場所、ということになるだろうか。くりかえすように、ここまで九条がしずくに肩入れするのは、亀岡の影響がかなりあるとおもわれる。といっても、亀岡のようになるということなのではなく、どちらかといえばバタフライ効果的なものではないかとおもわれる。

亀岡は、前回の対話を通じて、九条を(少しは)認めるようになった。それも、弁護士としての実力を、また人間としての品格を認めるようになったとか、そういうはなしではない。しずくにかんして、これは九条に任せても大丈夫そうだというふうに納得したのである。どうしてそうなったのかというと、亀岡じしんのトラウマ的経験である「妹」が、九条によって引き出されたからである。亀岡は「妹」を回避するように人格を形成することでいまに至っている。こうした迂回ぶぶん、「ドーナツの穴」のことをトラウマという。痛みを伴う経験に基づくトラウマは、抑圧されると、悪夢や病気など、別の姿に変形して回帰することになる。これを解消するには、「迂回している」ということを自覚すること、その内容を語ることが必要になる。だがトラウマは、それを思い出さずに済むように人格ごと編みなおす効果を呼ぶものであるから、それを語ることも現実にはできない。そのときに対話者が必要になる。前回それは九条が担ったわけだ。

そうして、いまのじぶんが成形された根本の物語についておそらく初めて語ることで、亀岡はある種の解放感を覚えたはずである。そうであるなら、彼はしずくの抱える地獄も解除することができるかもしれない。この「対話」の手つきじたいが、亀岡には欠けているものでもあるだろう。それを、この男はもっている。だから、九条しかこの件は任せられないというはなしになる。亀岡は前回、「笠置雫さんを救えるの あなただけよ」という言い方をしている。なんとでもとれる言い方だが、これはたんに裁判のことだけをいっているのではないようにおもわれる。「救う」には、刑期を短くするとかいうことに加えて、じぶんがそうされたように、誰ともわかちあうことのできない固有の地獄をオープンにさせるという意味も、おそらくあったのである。

これからも亀岡は、いままで通りの活動家としてアクティブに働いていくだろう。しかしそれは、九条とのかかわりで少し変容しているのである。行為じたいいはおそらく変わらない。だが、彼女にはもう動機が見えている。じぶんがどうしてそこまで性産業にこだわるのか、理解できている。このことが、批評的な態度にひとさじの文学性を加えるのである。これが、当の九条を前にして出てきているのが、今回の一連の感傷的なセリフだろうと考えられる。

同じことが、九条にも起きているのだ。九条はただカウンセリングの仕事をしているのではない。亀岡に対しては、思いがけずその「動機」を引き出してしまった、という感覚が強いのではないかとおもわれる。するとどうなるかというと、鉄の意志に駆動される融通のきかない「活動」が、ときには身体的な衝動にしたがった自然の摂理のように見えるようになるのである。少なくとも、そういう場合がある。この経験が、彼に「笠置雫」と、女性差別のアイコンとしての「しずく」を淡く結びつけさせるのだ。だからといって彼は批評的態度に転向したりはしない。できることといえば、「依頼人のはなしをよく聞く」ことだけだ。そのうえで、彼もまた変容している。ただ裁判を目的として対話するだけではなく、その先まで、弁護士的には明らかに逸脱したかたちで関与しようとしてしまう衝動が、そのようにして生じたのである。

 

では九条はどのようにしてしずくに関与すべきなのか。それが「家」だ。これは、亀岡がしずくばかりか修斗にまで感情移入していっていることと関係がある。彼女じしんが、「ありえたわたし」である「妹」を否定するために、「強い弁護士」を演じている。「拠り所」とは、それがないと倒れてしまうようなもののことだ。「家」は、「拠り所」がないときのある存在が、それでもそこに存在していることを許される場所のことなのだ。

亀岡のばあいには、その拠り所は、要するに社会的価値とか、使命感とか、そういうものになるだろう。かたちはさまざまである。「なんでもないもの」であることが許されるのは「家」だけだとして、もし「家」がなければ、ひとはなにかでなければ存在することができない。そのために、空洞にもおもえる自己を、さまざまな方法で読み換えて、他者と意味が共有できる「なにか」にする。タイトルにもなっている「消費」はそういうことでもある。亀岡のようにいえば、無為にすぎさる時間と費やされる生命力で、じぶんをプライシングし、モノを買い、社会的価値をまとう。「消費の産物」冒頭あたりで考えたが、しずくが泊まっていた、また修斗殺害の現場ともなったムーちゃんの部屋は、非常に「モノ」が多かった。彼女たちの身体には無数のタトゥーと傷跡が刻まれている。これらすべてもまた「消費の産物」なのだ。といって、これらは別に珍しいものごとではない。誰だってそうなのだ。そのときにちょっと引っ張ってきたのが、エドガー・アラン・ポーである。ポーは、世界最初の推理小説といわれる「モルグ街の殺人」の作者だが、同時に怪奇小説の名手でもあった。なぜかというと、特に「家具」を経由したときの両者の創作上の思考法は根本的に等しいからである。ヴィクトリア朝時代のインテリアは、大量生産のはじまりによって、「モノ」が氾濫していたところに特長がある。家主たちは競ってそこにじしんを表現していった。家具は、家主のふるまいを縁取るように構成され、やがて気配を宿すようになる。家主のいない部屋をみた名探偵は、人間がいなくても、そこにあった出来事を推理することができる。同時に、怪奇的な世界では、そこにいないもの、つまり幽霊が、読み取られることになるのだ。

 

歴史的にはどうだかわからないが、おそらく、まずモノの氾濫がある。だが、そこに至るまでに、どんなものも商品になる、根付けが可能であるとする資本主義的思考の定着がある。あるいは、これらは同時に起こったのかもしれない。むろん、そこには「自己」も含まれているだろう。そうして、ひとはじしんの価値を外部におくようになった。内面の高尚さを求めるものはもはやいちぶの変わり者や宗教者のみであり、どんな場合も、ひとは「外部からほどこされる価値」から逃れることができなくなっている。亀岡は「強い弁護士」という仮面を社会的価値としてまとうことで「妹」から逃れてきた。しずくは、からっぽ(という自覚)の自己をとりつくろうためにムーちゃんとい同じくモノを身につけ、それでも満たされない自己肯定への反動に応えるかたちで修斗があらわれた。そしてその修斗もまた、かたちばかりの「イケメン」のなりを維持し、金を集めることで「なにか」であろうとする。修斗にかんしては亀岡の推測だが、そうはいっても、これは多かれ少なかれ現代人にはいえることだろう。特に修斗のようなタイプの人間の過剰さはたしかにそういうものを感じさせる。しかし、「金」は「わたし」ではない。「わたし」がなんなのかは、どんなにあたまのいい哲学者も解き明かせない。個人主義は、いわゆる「素のわたし」を想定するし、分人主義は、それを幻想として、個々のペルソナの集合体が「わたし」だと考える。だが少なくとも、お金を、モノを、いくら積み上げても、それが「わたし」になることはない。これがたんに徒労感ですめばよいほうだろう。そういうむなしさを、現代人は平日深夜にブログ更新の手をふと止めて感じるものである。だが、あまりにもその拠り所にたよりすぎてしまったら、それが失われてしまったとき、悲劇的な転倒をすることは避けられない。それが修斗の事件だったわけだ。

 

ではどうすればよいのかというと、くりかえしになるが、「家」なのである。おもえばしずくはそもそも物体としての「家」をもたなかった。実家はあったが、あんなものはないも同然である。居心地のいいムーちゃんの家は、モノにあふれた資本主義的空間だ。「家」でひとは、どのような売り物ももつことがない。他者からの評価を待つ社会的価値や、人気が出るとか出ないとかいう次元で語られるAV女優としての身体も、不要である。これが、九条のいっている「奪われる」のではなく「与えられる」人間に、ということの意味だ。評価がくだされる、値段がつけられるということは、それが別のなにかと交換可能であるということだ。弱いものは、それらが「商品」である以上、奪われることから逃れられないだろう。これを回避するために、ひとつには「強くなる」ということがある。だが、九条はそういう提案をしない。「弱いから奪われる」は真理だろう。しかしそもそも、奪われるのはじぶんを無価値と信じて外部的なものさしでプライシングされた「モノ」で身体を覆っているからである。九条はまた、日常の愛おしさに価値をみるようにもいっている。ある1日が「素晴らしい」と感じられるのは、通常、「昨日とちがうとき」である。それも人生では大切なことだ。だが、昨日とちがわない「なんでもない1日」を愛おしくおもえるのであれば、明日もそうすることができるだろう。それは「モノ」を経由しない「なんでもないわたし」を肯定させるはずだ。そのとき、しずくはひとに「与えられる」ようになるのである。

 

 

新シリーズは6号開始ということなので、来年。九条の大罪は今回が今年最後だったわけですね。おもしろかったしフェミニズム的にはもう少し読み込みたいぶぶんもあるので、余裕があったらまとめ記事でも書きますが、たぶん書くとしても来年になっちゃうかな・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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