金剛禅門徒の少林寺拳法修行記 -12ページ目

金剛禅門徒の少林寺拳法修行記

金剛禅門徒としての自覚を促すべく旧タイトル「練習日記(仮)」からタイトルを変更しました。

内容は変わりません。

よろしくお願いします。

大学のトレーニングルームに行ってサンドバッグを叩いてきました。


今通っている道場は胴突の練習もない(あったとしても高校生とかとやるなら手加減が必要ですし)ので、実質当てる練習はほとんど出来ていない状態でして・・・



やっぱりひさしぶりに叩くと、サンドバッグを重く感じるは拳が腫れるは大変ですね。なまっていることこの上ない。


今、拳が水ぶくれ(?)みたいにぶよぶよになっています。


昔は結構拳も鍛えていたはずなのに、このていたらく。今後は継続的にサンドバッグを叩きに行こうかな。

でも時間がそんなにないなぁ。

やはり社会人が少林寺を続けるのはいろいろと難しい。

今日は道場の練習で中学生と演武をしてみました。


勿論即席で作った演武で、大会がどうとか言うものではありません。


僕自身は大会とかはそんなに好きじゃないというか、嫌いではないけど、大会のために練習の主軸を演武にシフトするのは納得いかない、という感じです。


でも、指導のための演武は好きですね。


何を指導する(伝える)かということを考えて、構成を考え、それを一緒にやっていく中で適時ポイントを伝えていく、という意味では演武はとても良いツールだと考えてます。(先に演武を考えて、そこからよい動きをするために、ということで伝えるべきことが見つかる、という逆の発想もありですね。)


今回は、間合いの取り方、連攻撃と単攻撃の相手へのプレッシャーの違い、次を意識した体捌き(運歩)、を中心に、ちょっと進んだ話としては、相手の攻撃しやすいようにこちらが動いて攻撃を誘う(そして投げる)といったところを中心に教えたつもりです。うん、盛りだくさん。欲張りすぎ。



中学生や高校生とこういった意味合いで演武をするのはいいですね。正直楽しいです。


こちらもいつまでも指導できるように、教えるばかりではなく、成長していかないと!と焦る、というよりはいい意味での向上心も湧いてくるってもんです。


まぁ何より中学生が楽しそうに練習してくれたのが良かった。

部活の少林寺拳法部にいるととにもかくにも昇段が早いです。


いちおう正規のルールでは初段を取るのには1級取得から2ヶ月、二段は10ヶ月、三段は14ヶ月経過していないと昇段できないことになっています。


しかし特別ルールがあって、(たしか)本山合宿に行けばこの期間を1ヶ月間縮められるとか・・・

(記憶が曖昧なので間違えているかもしれません)


この記憶が確かだとして、1回生(茶帯)、2回生(初段)と2回本山に行けば、14ヶ月必要な三段を12ヶ月で取れる、ということでみな一年で三段をとっているものと認識しています。

(多分に曖昧な記憶・確信のない情報ですので、どなたか詳しい方がいらっしゃいましたら教えてください。)


言いたいことは、部活に属していると一年ごとに段が一つずつ上がっていくという事実です。


これは開祖が作為的に行ったものであると認識しています。


開祖は大学で行う少林寺拳法というものに対する(上下関係の?)配慮から、

「一年目は茶帯、二年目は初段、三年目は二段で、4年目の幹部で三段(当時の赤卍)じゃ」と言っているのを

昔の会報で読んだ記憶があります。


確かに一年間の成長の記録と言いますか、序列と言いますか、便利は便利なんですが・・・


でもまだ自分の段に満足いっていないにもかかわらず、昇段せねばならない雰囲気があり、昇段しないことが

後輩への示しのつかなさにもつながってしまうという風潮もあるのかなと。


(だったら自分の満足の行くほど練習して自信を持って昇段できるようになれ、というのも一つですが、かなり高いハードルを設定したがる自分にとってはちょっと三段レベルに満足できるのはなかなか至難の業です。正直まだ満足していませんし・・・)


特に三段、この段は僕にとって特別です。

中拳士参段、揶揄して言われるは「中途半端な拳士、参段」。

多くの拳士がこの段のときに、何もかもがわかった風になり、慢心を覚える段とも言われています。

というか何を隠そう僕がそうでした。


今でもうぬぼれ具合は収まっていないかもしれませんが、だからこそ、この段であるうちにそれなりのものを身につけて、「うぬぼれでない自信」を身につけてから四段に上がりたい。


剛法は力まず、それでいて効く攻撃をできるように。どんな状態からでも最低限の受けが出来るように。

柔法は相手の重心のコントロールをきっちりできるように(これは難しいですけども。。。)

乱捕りでは他派の人ら(少なくとも黒帯以前)の人とは対等以上に戦えるように(←目標低いですね。でも正直少林寺内での帯と乱捕りの強さの相関は他派と比べて如何に弱いことか・・・これが悲しい。)


少なくともこれぐらいは出来るようになって四段にあがりたいなぁ。

難しいかなぁ。


最近昔のように技について考える時間が増えてきました。


とはいえ、現状ではまだ「昔考えたことを思い出す」という程度のことですが。。。



昔はよく自分の手首や、その他の関節をいろいろといじってみては、「こうひねられたらこう動く」とか、「このように掴まれた場合、このような反応が起きる」とか、病気のように研究していました。

(周りの人からみたらちょっと恐い人かもしれません。)


右手で左手を掴んでは寄抜の練習、など一日に1000回ぐらいはやっていたように思えます。


で、術科の練習では上記性質を元に、「自分がこうであるなら、きっと相手も同じだろう。つまり相手が動きやすいように技を掛けると云々」といって、技をいろいろとアレンジと言うか、研究してました。


ながらくそのときのことを忘れていましたが、当時の僕は『体の構造(動きの性質?)の分だけ技がある』と思っていたように思えます。


時間が十分にあり、ともに学ぶ仲間がいて、更に情熱も豊かであったあの頃の考え。

なるべく忘れずにいたいものです。

たいそうなタイトルですが、別に大したことではないです。。。。


後輩に技を教えるときに、どうやって教えるのか、また、現在は日常的に教えることの出来ない環境なので、

どうしたら後輩自信が考えて術科の研鑽をすることが出来るか。切り口は?良し悪しの判断は?

研鑽の結果世間一般で言われているものと乖離しているものになりそうな場合は?


等々、一言で「術課の練習」といっても中身はいろいろあるのかな、と。


先生・先輩の言ったことを純粋に信用してそれに近づけるのも一つだとは思うのですけどね。

先生は最近あまりやる気なさそうですし、僕自身も修行中の身であり、現在伝えられる技も研鑽途中の

ものです。そして早く僕を超えて欲しいという思いもあるので、後輩各人のオリジナリティが欲しいわけです。


そのためには独自に研鑽をしないと。


その上で教わった内容と同じ結果になったら最高ですね。先生・先輩の技の理解が深まり、かつ自分の独自の

理論的裏づけも出来る。その状態で反復練習をし、体に馴染めば一番良い形だと思います。


では研究した結果、「教わった形よりもこっちのほうがいいんじゃね?だって○○だし。」みたいな結論になったら・・・

これは先輩に質問し、疑問点をぶつけ、2人ですりあわせをし、技のメリデメなどを考えながらよりより形に落とし込むということになると思います。先輩には教えた技が何故そのようにするべきなのか、という考えがあるはずですし、後輩も『だって○○だし』という理由がある。話し合う土台が出来ているわけです。すばらしい。


ひょっとしたらどちらも良い点があり、好みの問題だということに落ち着くかもしれません。それはそれで引き出しが増えるのでいいでしょう。後輩の指摘が先輩の盲点だった点を突いていて、技が変わることもあるかもしれません。これは純粋に成長ですよね。


・・・先輩に理由付けがまったくなく、しかも後輩の意見をくみ上げる態度がなければ全部無理ですけど。



んで、技の研究方法として、こんなことを伝えました。

『方向・位置・角度・タイミング等を分析する』

『自分の動作が相手に対してどのような影響を与えているかを分析する』

『より効率の良い力の出し方が出来る体の使い方を分析する』


全部一般的かな、と思うんですけどね。


方向・位置・角度・タイミングは人間はどのような条件がどういう順序(タイミング)でそろうと倒れるか、と言った

話ですね。

おじぎ・状態のひねり・前のめりの三つが(これはどの順序でも)そろうと相手は転ぶ、とか、肩甲骨が

挙上した状態で(その手を自分が掴んでおり)、挙上している肩甲骨と反対側の足の方にその手を落として行って

やると腰がまがり、体勢が崩れるとか、逆に肩甲骨が下がっている状態では同じ方向の足の方に手を落としてやると体勢が崩れるとかそういった話です。


2つ目の相手に与える影響ですが、これは力の伝わり方の分析と言ったほうがいいのかな?

実際に自分が相手を動かそうとしたときに、自分が相手の(例えば)手首をこうひねると相手はこう動く、とか

そういった話です。


で、ここで大事なのは、伝播の効率性を高めることです。


手首を正しくひねると最も有効に相手に力が伝播し、10の力が10(てこによっては20とか)伝わるとしたとき、

どうも10のうち8しか伝わらないということがあるかと思います。


2のムダがある。

技の掛け始めにちょっと角度がぶれていたりだとかするとこういうことは多く起きるかと思います。


わかりにくいと思うので、例示しますと、閂を取るときに手首を曲げすぎた状態から掛けると、はじめ手首をすりつぶすような感覚になり、(痛いは痛いですが)相手が耐えやすいというか、「ググググ」っとはじめに停滞があり、そのあと相手が動き出すような感じになるかと思います。この始めの「ググググ」という状態が無駄な部分だと思っています。適格な角度に直し、自分の技の掛け始めと相手の掛かり出しが一致するようにしたいものです。


3つめ、効率的な力の生み出し方。


2つ目が相手目線だとしたら3つ目は自分目線です。

まぁ書くのもメンドクなってきて、ただでさえわかりにくいことばかりごちゃごちゃ書いているので割愛します。


後輩に教えたのはもっと簡単なノリで教えたかと思うんですけど文章にしようとすると硬くなるし、意味不明にもなるし、まったくもってわからないですね。


失敗です。




今日は少林寺拳法の道場がある日でした。


練習内容は、諸手巻抜・両手上膊抜・両手送小手より送固・打押受蹴・外押受突・逆転身蹴と演武練習を(時間外に)少々。


諸手巻抜の体捌きが大学時代と違ってとても大きいのが上記の技の中では特筆すべき点でしょうか。


あ、あと送小手も親指を無理に攻めるのではなく、極めるだけ極めてあとは体捌きをすれば相手は自ずと倒れる、というのも新しかったです。


まぁ練習内容はともかく、練習後に道場の仲間と話をしていて、こんな話になりました。


『先生の技を記録に残しておかなければ。』



そうなんですよね。


名前に『道』の付く開祖の高弟がいらっしゃって、多くの先生方はその流れを汲む方で、よく言う言葉として

「技を見ればお里が知れる」みたいなことが言われたりもします。


浅薄ながらもなんとなーく、それとなーく、「あ、この先生は○○先生のお弟子さんかな?」とわかることが僕にもあります。


でも今の先生はそのようなどの技とも違う(気がする)。

なのにとてもオーソドックスにかけはる。


どうやら虚実を使っているらしいのですけども・・・よくわかりません。


転籍して間もない頃に「○○君(僕)はがんばって練習してきたみたいだけど、どうやら虚実の練習はあまりしてこなかったみたいだね」といわれたのが記憶に残っています。


普通の技を普通に掛けられているのにその効き方が普通じゃないんです。


正直道場の中でだれもその技を告げていない状態と言っても過言ではないでしょう。


そして先生もお世辞にも若いとはいえない御年なので、先生の技を映像に残そうという話が出てきた次第です。



とりあえずは僕のビデオカメラで撮らせていただいて、それを編集して道場生に回付出来たら良いかなと。



まだ先生の許可もいただいてませんけども。。。


何はともあれこれで家での研究もよりはかどりそうです。


早く物にしなければ。。。

教えてきた内容はこんな感じです。なるべくソフトに。


・小手投


どうも右手をで決める瞬間だけが小手投げとおもう風潮があるようです。


とりあえずそれだと掛からないし相手の前で自分ばっかり動いていて相手が待っている状態はおかしいし、そもそも危険だよね?ということを話した後、左手の受けから右手を掛けるまでの間の崩しを教えてきました。


悪い癖の内容としては相手の手を相手に近づけすぎて相手の体勢が元に戻る&安定するということでしょうか。


小手投げは掛け方がたくさんあって教える側としても何を教えようか悩むんですが、なるべくもとの形から変わらないようにしたつもりです。。。



・押小手、小手巻返


技を一括りにする怠惰をお許しください。


コの字型の技は肩・肘・手首の三点で規定される平面の中で技を掛け続けるということ、技の中でいかに「崩しの位置」にスムーズに相手を追いやるかという方法を教えてきたつもりです。


最初の事項はマストだと思うので(下手に上記平面に対して垂直に掛けようとすると肘を痛めるため)、これだけは強く教えてきました。


逆小手に関して、ポピュラーな方法で言えば小手抜のあと腰を切返して小手を押し込み(基準線)上記平面を水平にしてかけるものだと思いますが、うちの大学では、小手抜きのときからやや縦回転でぬき、平面が垂直の状態でそのまま技を掛けます。(小手抜きから逆小手という技の流れを見るといささか不思議な方法ですが、腰の切返しがないぶん一動作で掛けられるという利点があります。関西では意外とポピュラーな方法のようです。)


後輩はこの逆小手の縦回転のイメージが強く、押小手・小手巻返でも相手の体勢に関わらず最終的には縦回転の力を加えようとしている向きがありました。


なのでそこを修正&練習方法の提示


・受けの方法


「受けを教えてください」という無邪気な質問が来たので「どんな受けがしたい?」と聞き返しました。

1:柔らかい受け

2:弾き飛ばすような受け

3:演武での綺麗な受け(何それって感じですが)


もちろん他にもたくさんあるとは思いますが。。。。

後輩曰く演武でやってて痛くなく、それでいて受けの形が綺麗な受けとのことでした。

要は演武用の受けを痛くないように、とのことでした。むしろ一番難しい(笑)


これはちょっと答えをはぐらかしてしまったような気がします。


しっかり受けられていれば演武でも問題ないと思うのですが、審判によっては「手首が活きていない!減点!」ということがあるのでしょうか?その点よくわからないのですが・・・


とりあえず受けは自分と相手の接触点となる部分から一つ以上はなれた関節に力を入れると「がちっと」ぶつかるのは軽減されること、受けの角度、あとふわっとした受けをするにはドリブルするような感覚が何気に近いというようなことをつらつら言ってきました。


「つらつら」というのは要は受けについての思うところを雑多に言って来ただけで結局後輩の求めるものに近い形のものは提示できずに終わったということに他なりません。まだまだ力量不足ですね。


2月は仕事もちょっと落ち着いている(はず)ので、部活にちょくちょく顔を出したいと考えています。


後輩がんばれ。

さて、前の内容の続きです。


まず前提として(良し悪しは別として)大学少林寺拳法部という性質上、5年も経てば多かれ少なかれ技の形は微妙に変化するものと考えています。


そもそも少林寺拳法という一つの武道の中で技が変わる?どういうことだ?


という疑問がありますが、先生によって技が微妙に、ときには大きく違うなんてことはもはや常識です。

技の掛け方が違うというとどうしても「あの先生の技は間違えている」というような話になりがちですが、まぁそういう点はいったんおいておいて、それぞれに多少の独自性があると思うわけです。


大学少林寺拳法部というのもまずは顧問という一本柱があり、この中心軸から大きく外れるということはないものの、実際の練習において指導的立場を担う幹部の考え方によって多少なりとも技は変化していく、と、功考えているわけです。よく言えばその代ごとの独自性。悪く言えば伝言ゲームがあるわけです。


そうして、5年も経てば良くも悪くも技が変わる、ということになると思うわけです。(部外者からみれば○○大学はこういう技の掛け方をする、というような性質は変わっていなかったとしても部内者からみると小さな違いが目に付くというべきでしょうか)


僕はこれで良いと思っています。


僕自身はかなり技にはこだわりがあって、学生拳士なりにだいぶマニアックに練習・研究してきたという気持ちがあり、直接の後輩には半ば押し付ける形で技を教えてきましたが、その結果起こったことは代が進むに連れての技の形骸化、伝言ゲームだったように思えます。


幸い、後輩にも技について独自に考えてくれる人間がいて、僕が教えたのとは別の形で、でもちゃんとかかる技を考え、後輩に伝えようとしているしていました。


ここで重要なのは大学少林寺拳法部というものは、代の移り変わりが激しい分、どのようなもの(技でも伝統でも)「伝言ゲーム」の脅威にさらされる危険をはらんでいるということです。


つまりどんなものでも代を経て形骸化していく。


そんな中、何かを残そうとしたときに最も有効な方法は何かと考えたら、それは「良いものとは何か考え、それを研究するスタンス」を定着させることなのかな、と思うわけです。


後輩がいろいろと考えた上で切り捨てられるぐらいの技ならそもそもダメな技だったと思うしかないでしょう。

というか何も考えずに形だけ真似されて(実際には真似もできずに)形骸化していくぐらいなら吟味の上捨てられた方がまだ幸せですし。


ということで、今回後輩に聞かれたときにまず「君はどういう技をしたいと思っているの?」という発問から始め、後輩のニーズを聞き出し、その上で「こういう意味で良い技」という認識をすり合わせた上で教えるよう心がけたつもりです。




古参の先生方から見られると、「技が変わっていくのは仕方ない」という今回のスタンスはお叱りの対象となってしまうかもしれませんが。。。


前提だけでだいぶ長くなってしまった・・・・いかんいかん。

仕事もひと段落し、いささか平穏を取り戻してきたので大学の部活にOBとして顔を出してきました。


OBと言ってももうほんとに古いOBになってしまったものです。

現役の皆様とは一緒に練習したことがない(現役時代がかぶっていない)わけで、下手をしたら

「あなた誰ですか?」っていう状態なわけですね。こわいこわい。


でもまぁなかなか痛い性格というか、特異なキャラというか、自己主張がつよいというか、とりあえずまだ現役の子達は僕のことを先輩として認識してくれているようです。ありがたや。


僕は自分らの代からみて、例えるならば一個下はライバル、二個下は弟、三個下は子供というように思っています。もっとも一個下で本当にライバルになれる人間はそうそういませんが、まぁ『下から俺らを突き上げてきて欲しい』という願いを込めてのことですね。(逆に言えば僕らの代も上を突き上げられたのかどうか、はなはだ疑問ではあります。)


上の考えは自分が現役幹部であったときに下の代との接し方として考えていたことなんですが、その更に下ともなるとどうなんでしょう?正直接することもそうそうないのであまり考えたこともなかったわけです。


なんのひねりもないですけどやっぱり『孫』なんでしょうね・・・・


子供には散々厳しかったけども孫はついつい甘やかしてしまうという性質も当てはまりそうですし。


子供以上に拙さが目立つけど、それ以上に必死にがんばっていることがほほえましいといいますか、、、

とにもかくにもかわいいものです。


教えてきた内容等についてはあとで別に振り返りますが、今回は(僕の技が現役時代から変わってしまったこともあってか)技は教わるものではなく、自分で工夫して研究してこそ意味があるという点をやたら強調してきました。

武道という性質上先生からの面授面受も勿論大切なのですが、4年という限られた時間しか学べないなかで、学ぶスタンスをどうするかという点、また教える人(先生はともかく先輩)もやはり数年しか学んでないという点(各言う僕もそうですが)、技のみならず「学ぶ」ということに対する態度を身につける、という点を考えた上でのことです。


いやはや、それでよかったのか悪かったのか、彼らにどうつたわったのか。。。


気になりだしたら止まりませんな。

月刊少林寺拳法という雑誌がありました。


現在の「会報」の前進で、このころは今のようにみんなに配布(強制購入?)ではなく、希望者のみの定期購読の形を取っていました。(月刊少林寺拳法と少林寺拳法新聞の二本立てで、新聞の方はみんなに配布でした)


本日、ひょんなことから1988年から2000年の月刊少林寺拳法を手に入れたのですが、やはり今の会報と中身が全然違いますね。


以下、ざっと違うところを列記。


1:技の解説の量

 これが一番の違いでしょう。これでもかというほど技の話が盛り込まれている。いろんな先生が技について解説しているのも、一面的にならずにすみありがたい。


2:批判的な内容も許容

 今の会報にも投稿コメントがありますが、昔は「なぜ乱捕りをやらないのか!?」であるとか「本部はどう考えているんだ」的な発言でも許容され掲載されていました。今は・・・・



3:教育熱を感じる

 これはだいぶと主観的ですけどね。今の会報は「ああ、こんなにもすばらしい少林寺。」ということを無理やりにでも押し付けてきている気がします。思想思想というほどみんな思想から逃げていくのでは?と思ったり。僕個人は思想の勉強も実は結構好きですが。(だからこそ本部のマネージメント面での技・術・略が残念に思えたり)

月刊少林に拳法はまだ記述の対象が人の成長に当てられているような気がします。



高校時代月刊少林寺拳法というものの存在を知り、興味が持てず勿論購入もせず、その後何度か目にする機会はあったのですが、今改めてみるとこの本の価値の高さにびっくりします。


熟読しないと。