金剛禅門徒の少林寺拳法修行記 -13ページ目

金剛禅門徒の少林寺拳法修行記

金剛禅門徒としての自覚を促すべく旧タイトル「練習日記(仮)」からタイトルを変更しました。

内容は変わりません。

よろしくお願いします。

今年からお世話になっている道場では毎年練習締めとして乱捕り大会をするのが恒例となっているようです。


大会と言っても少年部・中学生がメインで一般部はついでですが。


幼稚園・小学1・2年組、小学3・4年組、小学5・6年組、中学生男子組、中学生女子組の計五組がそれぞれ

トーナメントを組んで乱捕りします。


保護者も招いて一種の体育祭みたいな感じですね。和気藹々と乱捕りが進んでいきます。

幼稚園組は何故か「片方が攻撃したら次は相手が攻撃」という暗黙のルールが子供たちの間にあるようです(笑)


高校生以上と大人は希望者(というか先生の指名?)で一組ずつやりました。


僕も出て同じぐらいの年齢の人と乱捕りをしました。正直乱捕りは大学卒業してから初めて?ぐらいな感じです。

つまり4年ぶりですかね。改めて書いてみるとずいぶんブランクの空いているものです。


あ、一回M1のときに丸廉に参加したから3年振りですか。。。それでもブランクには変わりないですか・・・


僕の乱捕りはさておき、結構なついてくれている中学生がいまして、その子について書きたいと思います(O君とします)。


O君はセンスがいいというか中学生男子の中で優勝候補と目されていたようで、トーナメントが組まれたとき、対戦相手となった子がくじ運のなさを嘆くといった感じの子で、その下馬評のとおり、トーナメントを制し優勝を果たしました。


これはいい教育のチャンスなのかな、と思い事前から「乱捕りもなれてくると勝敗とかどうでもよくなってくるよ」とはそれとなく言って来ました。


まぁそれでも当然優勝したO君は喜びが全身からあふれ出ていたわけなんですが、今思えばこの機会にもう少しいろいろと話しておいても良かったかなと反省しています。


話したい要点はこんな感じです。


●勝った自分と、(もし今回負けてたとして)負けた自分。現時点でどちらが強いと思うか?

 →もちろんどちらも変わらないはず

●では勝った自分と負けた自分、どちらが今回の乱捕りを反省して次回に活かすと思うか?

 →これは人による。簡単に分類すると・・・

 1 負けて自信を失って「もう嫌だ」と思う

 2 負けて何故負けたかを考え工夫する、乃至は負けたことをばねに今後がんばる

 3 勝って自信がつき、喜んで終わる

 4 勝って、さらに試合内容を見つめなおし悪かった点を更に改善しようとする

 とあるかなと思います。ごく簡単な分類ですが・・・


●では今回の乱捕りを通して、今後自分が成長する上で一番いいのは何か?

 よほど心が挫けていなければ、負けた人は2になると思って(信じて)います。ですが勝った人が3から4に移るのは意外と難しい。


問題は今後自分が成長するにはどうあるべきなのか、だということです。


そういう意味で「勝敗はどうでもよくなってくる」、とO君に言っておいたのですが、さすがにこの言葉だけで伝わったと思うのは伝える側の手抜きでしょう・・・


もちろん勝つのと負けるのでは勝つほうがいいです。矛盾しているようですが、2と4では2はあくまで負けたことに対する反省であり、勝者という壁がある。表現難しいですが、上限つきの成長というか、そんな気がしています。

勝者がさらに自己を見直すのは上限のない、より上位な悩みかと思います。


そういうことを教えるチャンスを逸してしまったかな、と思うと後悔の残る最終日になってしまいました。

O君ごめんよ。


まぁせっかく勝っていい気分になっているところを小言言われていい気分を台無しにされるよりは放置の方がうれしいのかもしれませんが(笑)



道場に近くの高校の少林寺拳法部の子らが練習に来ます。


最初は幹部だけだったのですが、最近は一年生もくるようで。。。


僕自身少林寺を始めたのは高校の部活でした。(結局一年でやめてしまいましたが)



今になると少林寺の多様性や、幅の広さを痛感するのですが、そうであるからこそ、

一番最初にならった少林寺拳法というものはやっぱり懐かしく思い出深い。


(高校で同じタイミングで習い始めた同期は、もうみんな少林寺から去ってしまいました・・・悲しいものです)


あの頃は先輩のする一つ一つの動きこそが少林寺であり、それがすべてでした。


幅が狭いと思う反面、分かりやすく、そして絶対的なものに対する信頼感があったかのように思えます。



今、この自分が、高校一年生の茶帯を見ると、その頃の忘れていた感覚が想起され、とても初々しい気分にさせてもらえます。


昔を思い出してついついおせっかいと思ってしまうほど口を出してしまいました。


(でも本当は茶帯の時には一人の師について、土台をしっかりつくるのが大事だと思ったりもしてるので、今回の行動は自分の信条とは異なったことを一時の感情に流されてしてしまったともいえます・・・)


でも茶帯でありながら出稽古までして少林寺を練習したいというあのひたむきさ。好きですね。


これからもいろいろと口出ししてしまいそう。。。

いや、止めておくべきか。。。悩ましい。


タイトルの言葉は生前開祖がおっしゃっていた言葉らしいです。昔の会報に書いてありました。

(どういう状況でどういう人対象に言ったかまでは覚えてません。あしからず)


僕はこの言葉は好きです。


そして実践したいと思っています。

上から教えていただいたことを下に教え、与えていただいた場(広い意味で)を他の方にも提供する。


そうしているうちに、あるとき面白いことに気がつきました。


少林寺で得させていただいたことを、還元しようと今度はこちらが少林寺に対して与えている立場でありながら、与えると同時にまた他のものを得させていただいている。


教えることにより、さらに深い理解と、それのみならず後輩との人間関係や、指導を請け負うということに対しての師匠からの信頼という名のやはりこれも人間関係。


与えることでより多く与えられている・・・


返そうと思っても返せない。


僕は少林寺を初めて多くのものを少林寺から学ばせていただいたと思っています。

その恩も少なからず感じています。


その恩を返すことは出来るのか?返そうとしたら倍返しされるこの輪廻の中で生きられることが恩返しであり、そして僕にとっての安心でもある。


少林寺って(いい意味で)高金利の消費者金融みたいやな、雪だるま式に(恩という)負債が貯まっていく。


と思う今日この頃です。


ちょっと電波ゆんゆんやな。

久しぶりの更新です。


明日が体育の日ということもあり、全国各地で地域の体育祭が開かれているようですね。


近所でも体育祭がありまして、道場あげて少林寺拳法の演武をしてきました。


他の一般部(の大学生以上)の方が都合悪いということで、私と相方が組演武をすることに。



まぁ見る人は少林寺の技とか全然知らない人たちですし、時間制限もない。

間違えても問題なければ、何パートやっても構わないという気楽な演武でした。


でも一つ違うところは外でやるということ。


飛び受身も外で。



コンディションとしては

足:素足

地面:校庭のグラウンド(砂の整備とかはあまりなし)


・・・まぁガラスの破片とか大きめな小石とかなければ問題ないかな、といったところです。


受身自体は素足&コンクリの上でも多分いけますし。



結局飛んだのは2回。一度目は押受投で二度目は熊手返。



で、えい!と受身を取ったわけです。



受身自体は上手くいって、ノーダメージだったんですが。。。。



左足の脛に血が!!


何故に脛!?


以下受身を細かく見てみます。

1:左足着地。衝撃の7割程度吸収

→問題なし。成功


2:右足着地。残りの衝撃を吸収。

→右足問題なし。しかし!!


1.5:左足着地後、体をひねり、右足を旋回させる。

→ここで、体をひねったときに左足の脛が砂で擦れて擦り傷が出来ていたようです。



受身といったときに

「ノーダメージでなければいけない」というスタンスや「手や足を強打してでも体の大切な部分を守る」というスタンスいろいろあると思いますが、少林寺の普通の飛び受身であればノーダメージが可能と考えています。


なので今回の受身はダメだったなぁ・・・反省反省。でもどうやって改良したものか。。。



だらだらと長くなってしまいました。



今日道場に行ってきました。


先生の技は不思議です。


こちらが先生を掴んだ瞬間、あるいは先生が掴んでこられた瞬間に、こちらの体勢が崩されています。


でも崩されていることに気づけないほど微妙な崩しです。




正直、いかようにも動ける(ように思える)。

だから全然体がこわばらない。


でも実際は、腰の力が抜けていたり(相手の技に対して耐えられない状態になっている)、

引き込まれたときにこれまた耐えられなくなっていたり、意味不明です。


崩しを使っているのは分かっているけど、どのような操作でそれを行ってるのかがわからない。


どうやら圧法の応用らしいのだけども。。。



学生時代に認識していた圧法は急所を押圧し、痛みを与え(ここポイント)、そして倒す、もしくはバランスを崩して次の技へつなげる、というものでした。


でも先生がやっているのは、痛みはおろか抵抗も与えず、それでいて相手を自分の都合の良い方向に導いているらしい。知らず知らずのうちに虚にさせられている。というか自分から虚になるように仕向けられてる。

そのくせ自分では実の状態だと勘違いしている。


だからオーソドックスな技のかけ方に見えても、効果が違う!



んーーー奥深い。

柔道をやってる友達と飲みました。


その友達はリアルオリバです。筋肉ムキムキです。


思考も完全にオリバで、「筋肉は俺を裏切らない」と真顔で言う、そんな奴。


技<力と言ってはばからず、それでいて周りを納得させるだけの力が実際にある。

※ちなみに技も上手い。合気道的な技も使えたりする。


そいつがかっこよくてかっこよくて、竹を割ったかのようなまっすぐさ。わかりやすさ。そして力強さ。


自分のやっている少林寺拳法は、正直理論派(といえば聞こえがいいが実戦からは距離を置いてしまっている)武道で、正直上記のような考え方はあまりない。


一般論として少林寺拳法はなよなよしいというのはもはやなかなか反論できない状態にまで来てしまっているが、一応大学時代に4年間ほぼ毎日乱捕りをしていたわけで、それなりには戦えるという気持ちもあったけど・・・


乱捕りしていた相手が全員レベルが低く、他武道からみたら子供のけんかを4年間繰り返していただけでは?


自分の培ってきたもの、人生の中の貴重な時間を費やしてまで得たものが貧弱なものでしかなかったら?


これからさき口だけの武道家になっていくリスクが大きいのでは?



・・・そんなことを考えてしまう。


ああ、今すぐ乱捕りしたい。少なくとも今度大学の練習に顔を出そう。そうしよう。

前回、ちょっと技がわかってきた、見たいなことを書きました。


で、ちょっと筋肉質の後輩にかかるかな、とやってみたら・・・かからない。



多少はうまいこと行きそうになるときもあるけど・・・・やっぱりかからない・°・(ノД`)・°・




まぁ本気でかけようと思えばそれなりに痛い思いさせて床に這い蹲らせることぐらいは出来るかな、とも思うんだけど、それは今やりたい練習とは方向性が違う。



んー、まだまだわからないことだらけやわぁ・・・(泣)



でも、だからこそ楽しいのかもしれない。

技と言うのは不思議なものですね。


というより、人生そのものがこんな感じなのかもしれないけど、


「わかった!!」と「あれ?まだまだだ。。。」の繰り返し。


「わかった!!」で満足してしまってもそこで終わり。

「あれ?」で諦めてしまってもそこで終わり。


どんなに努力を重ねてもやっぱりまだまだ壁はあるんでしょう。



でも、今日、確かに一つの壁を越えました!それもなかなかまれに見る大きな壁だったと思います!

いや、壁を乗り越えかけてる、と言いなおしておきます。もっと研鑽・検証しないとわかりませんし。。。



満足してしまうとダメ、とはいったものの、やっぱり人間ですし数日間は浸らせてください!自分にごほうびを与えさせてください!にやにやさせてください!!長いことの夢だった壁を乗り越えられそうなんです(^_^)v


でも技ってやっぱり奥が深い!


今日出来るようになったこと自体は実は技ではなく、技の中に組み込むことでより有効な技になる、というだけのものかもしれません。これを主体にして終わらす気はさらさらないですし・・・。先が開けた感じでホントにうれしいです。


思えば三年近くここで足踏みしてたなぁ。。。。





・・・・ちょっと話が抽象的過ぎるかな。


・・・そのうち武道名とか技の名前とかぐらいは出してもいいかな。。。