モリタのトリビア的疑問100の考察
Amebaでブログを始めよう!
1 | 2 | 3 | 4 | 最初次のページへ >>

第12問:わたしは何故できるだけ多くの人から好かれたいと思うのか?

「好き」
「嫌い」

 この一対の反意語ほど、人の気持ちをストレートに表す言葉は他にないでしょう。モノや人の評価や感想などを端的に表現したい時、また同様に他の人に評価や感想などを求める時、特に軽い気持ちで、二者択一的にこう迫ってしまうことが多いかと思います。
「好きですか、嫌いですか」
結構厳しい選択の場合もあります。

【体験】
 公私共「好かれたい」と思った体験はありますが、状況の違いこそあれ、わたしの心の内は同じなので、社会人になった後の象徴的な例をご紹介します。

 まだ若造だった頃、会社のお偉いさん方が若手の意見が聞きたいとのことで十数人が選ばれ、わたしもその内の1人として、外部の貸し研修所のような所に赴きました。会社の方向性議論が煮詰まり気味の時にアイデアを拾うため、多分幹部周辺の誰かの思い付きで集められたのだと思います。忙しい中で全くもって面倒なことだなと感じていました。

 あるテーマが出され、4~5人ずつのグループに分かれ、自由に討議をしないさいと始められました。グループの中で自然と司会役みたいな人が出来、書記みたいな人が出来、議論はそれなりに進みました。1時間が経過し、何となくグループとしての方向性が固まりつつあった時、わたしはそれより少し視点の違うポイントを見つけ、それを加えないと結論の現実性が薄くなるように思いました。

 しかし議論がまとまりつつあり、皆がやれやれと思っている中で改めてそのポイントを出すのが躊躇われました。この安堵感を崩し、皆から「あぁせっかくまとまりかけてたのに。面倒な奴だな」と思われたくない気持ちで一杯になり、結局言わず終いで結論が出ました。

 各グループ毎の発表が行われ、わたしのグループの結論が披露された後、最後のグループが発表を行いました。その内容には見事に、わたしが言わず終いだったポイントが含まれていました。わたしのグループメンバーも「成る程ね」という感じで頷いていました。多分わたしが議論中にそのポイントを持ち出しても良かったのだと、その時気付きそして後悔しました。

 このように、場の雰囲気を壊すようなことをせず、皆に好かれたままの状態でいたいと思うわたしなのでした。

【検証】
 わたしは生来揉め事を好みません。人と意見をぶつけ合う、議論することを楽しむという、やや西洋的な考え方も仕事(ビジネス)では必要なことは分かっているつもりです。でもそれ以外でそんな状況に立ち向かうのは「嫌い」の一言です。

 原因の1つには、わたしの育った環境にあるように思います。育った家族は核家族ながら子4人で総勢6人のちょっとした大家族でした。そんな中では、遊ぶ場所、勉強する場所、食事をする場所のどこでも譲り合いの精神が自然に身に付きました。譲り合いと言えば聞こえはいいですが、早い話初めから遠慮の仕合いなのです。まぁそこは家族なので、阿吽の呼吸でうまく行っていたということで、それはそれで良いでしょう。

 しかし家族間以外でのプライベートでもこの性質はちょくちょく顔を出しました。どうもわたしには黙することが美であるというような意識があるようです。つまりは「意見を戦わせる」「反目する」「目立つ」ことを良しとしない性質なのです。雰囲気に馴染みたい、風景に溶け込みたい、そこに居るのが息苦しくないようにしていたい。損な役回りを演じたくないという意識が強いのです。

 でも同時に「そこに居ることを必要とされている」ことも欲しているのです。まるで「空気」みたいな存在になろうとでもしているようです。居てもらわないと困る、でも特別目立つ必要も主張する必要もないよ。そんな存在。随分と消極的な「好かれたい」です。

 しかしなんという身勝手な奴なんでしょう。自分で自分を検証していて、今迄で一番腹が立ちます。

 もういやだぁ、考えたくなーい!

【結論】
 わたしはきっと、一見善い人ぶった、ただの「ええかっこしい」なのです。いけすかない奴です。
 きっと揉める気配があったら、スルッとその場から居なくなるのでしょう。
 でも仕方ないです。もうこのスタイルでウン十年人間してきたんですから...

【追記】
 「好き」「嫌い」の二者択一では、とても表現しきれない場合もたくさんあるものです。
 でも「好き」にはほぼ1つの意味しかないのに対し、「嫌い」にはその前後関係、ニュアンスにより幅広い意味がありそうです。「本当に嫌い」から「好き」までの広い範囲で。
 いつかこの「嫌い」を検証してみたいものです。

第11問:わたしは何故いつまで経っても大人になれないのか

 今回も結果的に番外編「シリアス」な疑問になってしまいました。疑問を感じた当初はフンと鼻で飛ばせる程度のものと思っていたのですが、途中からマジになってしまいました(^ ^;
 「大人になる」っていったいどういうことなのでしょうか。わたしは未だ答えを見出せないまま毎日を過ごしています。

【体験】
 わたしは学校を卒業し社会人になって初めて一人暮らしを経験しました。その際家を出る時になり、自由になれるという期待感と面倒なことも全て自分で行わなければならないという不安感とがない交ぜになり、これが大人になる第一歩ってことなのかと勝手に感じていました。

 しかし、いざ一人暮らしに慣れてしまうとそれが日常のこととなり、自分が大人になったという実感はまるっきり湧いてきませんでした。日中は仕事をしているので学生時代とは違う環境ですが、家に帰ればTVを見、PCに向かい、ゲームに興じる自分は実家に居る頃の自分とまるで変わらない気がしました。

 そういった私的時間の使い方もそうですが、自分が生きてく上での心構えであるとか、目標とする将来像(夢)であるとかが、社会で揉まれていくうちに、ある意味現実的なもの-逆に言えば人並みの平凡なもの-になっていくんだろうと思っていました。

 しかし実際のところ、そういう部分もあまり変わっていません。日常生活に埋没している時に考えていることは今日明日のことで精一杯。時折数日の休暇が取れた時に改めて自分の将来を考えてみたりもするのですが、現実とのギャップがあり過ぎて「こんなこと考えてても何も変わらない」と自虐的な心境に陥ったことも一度や二度ではありません。

 子供のような現実離れした、でも期待膨らむような夢も描けない。一方で現実を見た堅実な将来像も持てない。そんな暮らしの中には大人とか子供とかいう概念も存在していないような気がします。

 いったいわたしは何を考えて生きていくべきなのでしょうか?

【検証】
 大人とはどういうことなのでしょうか。子供でないことが大人である、とは言えません。また逆に、フリーターやニートであっても彼らが大人ではない、とも言えません。人それぞれの現在の客観的、社会的位置付けで、大人か子供かと二者択一で選別することは不可能です。

 一般的には、収入を得ることをせず、親やそれに代わる人達に衣食住の面倒を見てもらっており、独立しての生活を営んではいない人を「子供である」と呼んでいるかと思います。しかし客観的はそういった状況にあるとしても、精神面では扶養されている者の方が扶養している者を支えている場合や、物事の道筋や考え方、自らの将来への展望などを確実に見据え、そのための準備段階にいることもあり得ます。従ってそれらを一概に「子供」という枠の中にはめることはできないということです。

 一方自らの労働で生計を立て、独立して社会の中で生活を営んでいる人を「大人である」と一般的には言われています。ただその内実を見た時、何事につけ自分だけでは決断の付かない人(わたしがその一人です)、また全く逆に他人の迷惑をかえりみず独断で物事を進めようとする人、人の心の機微を感じ取る神経の欠けた人など、とても「大人」とは呼べないような思考、行動を取る人もいます。

 「子供」と「大人」との分け目は、きっちりとした線ではなく、非常に曖昧かつ不安定な部分、例えて言うならばなだらかな山の頂上付近にある分水嶺のようなものだと考えられます。その時々の回りの状況、時間の経過の中で常に変化しているものではないでしょうか。

 ただ、1つだけ明らかなことがあります。大人であろうと子供であろうと、人は本来社会的な生き物であって、一人では決して生き長らえては行けません。その意味で人とは、様々な人が入り混じる社会という、時には激しく波立つこともある流れの中で、周囲と馴染みまた周囲に自分の存在を認めてもらうということで、生きていく実感を感じ取っている存在であるということです。ただ何となく生きているだけと思っていても自らの回りをよく見渡してみると、自分を支えてくれている人、また自分が支えている人のいることに気付くこととと思います。
その気付き方、気付いている度合いが大人と子供を分ける分水嶺になるように思われます。

 このように様々な観点から人というものを見つめた時、「大人」と「子供」という分け方に境界線を引くのは非常に難しいものがあります。もしかすると、その境界線の左右を常に行き来しているのが人という存在なのかもしれません。またはその境界線は自分で引くものであって、ある時は自分の右に書いて「子供」になろうとし、またある時は左に書いて「大人」になるなどし、自分の都合の良いように使い分けているのかもしれません。

【結論】
 簡単に言えば、姿形、社会的位置がどうであろうと、自分のことを周囲という環境の中で1つの確立した存在として自覚できていること。それが「大人である」ということです。
 だから、その時々で都合のいいように自分に言い訳をしつつ生きているわたしなぞは、まだまだ「大人」ではないということなのです。

【追記】
 あらゆるジャンルの情報が、大海の波のように押し寄せてくる現代社会では、多くの人が自分の存在をちゃんと確認することさえ難しくなっている気がします。気の休まる空間、時間を社会があまり与えてくれない思いがします。
 「癒し」がいっときのブームではなく、必要なものとして定着したのも、そんな社会環境のせいでしょうね。

第10問:安部なつみさん謝罪-著作権保護は何のためにあるのか

 今回は番外編として「どうでもいいこと」ではない、シリアスなこの疑問について考察します。
 尚、わたしは法律の専門家ではありませんので、著作権法自体の領域には踏み込みません。著作権ってどうしてあるの?という素朴な疑問について、今回の安部なつみさんのケースを通して、著作権自体の存在の意味を考えたいと思います。

【体験-今回の事例-】
 安部なつみさん、及び所属事務所の謝罪文が昨年の11月30日付けで出されています。その一部を引用すると
安倍なつみ本人に認識が不足していたものの、残念ながら盗作に値すると判断致しました(事務所)
「素敵だな」と思った詩やフレーズをノートに書き留めておく(中略)結果、人の詩やフレーズに勝手に手を加えた形で発表してしまいました(本人)

 安部なつみさんは言うまでもなく、モーニング娘。の中心的存在として同グループの人気の火付け役であり、昨年の「卒業」後も衰えることのない人気で独り立ちし、もう「元モーニング娘。の」という肩書が不要となる寸前での今回の出来事で、活動自粛という事態になったわけです。
 芸能界のことなので、果たしてその詩なりエッセイを本当に本人が書いたのかという疑問を挟む芸能記者などもいるようです。しかしいづれにしろ、ソロとしてこれから頂点を目指そうという時期に「知っててやった」というような後ろめたい意図は、本人にも周囲にもなかったことは容易に想像できます。

 この件に関するWebサイトを見ると、確かに安部さんの文章と著作権を持つ元の文章とがあまりに酷似していることに少々驚かされます。むしろ著作権者に指摘され訴訟などという事態になる前に露見し、素早く対処したことは幸運だったと言うこともできそうです。

 安部さん側には酷な言い方になるかもしれませんが、今回は著作権者側に実質的な損害、精神的な苦痛などが発生せずに終結を迎えようとしているおり、著作権という概念を社会的に再度認識させる良いきっかけになったのではないかと思います。

【検証-著作権て何?】
 では著作権とはどういうもので、何のためにあるのでしょうか。権利という固い言葉からすると、他の者には譲らない著作権者本人のみが著作物の表現や加工を行える権利のように聞こえます。

 しかし本当の意味はそのまるで逆。つまりオリジナルの創作者としての位置付けを確保した上で、その著作物が様々な形で他の方が引用したりヒントを得たり加工したりすることを振興し、結果的に芸術や文化という世界が盛んになることを目指しているものです。(但し、加工したりする場合は著作権者の承諾が要ることは言うまでもないことですが)

 著作権は英語では、"COPY RIGHT"と呼ばれています。つまり「複製権」ということであり、引用や加工などが行われることを前提とした概念です。事前の承諾もなく著作権者の意にそぐわないケースなどでは訴訟になることもありますが、基本的には優れた著作物を何らかの形で他の人が利用することを推進するために生まれた概念です。

 引用でさえ許さないという権利も著作権者には与えられていますが、実際には引用されることは自分及び自分の創作物の存在を広く伝えることにもなり、普通に考えれば著作権者にも得になることです。

 また音楽の世界でもサンプリングという手法で有名な楽曲を取り込み加工し、さらに新たな楽曲を作るということが普通に行われています。そういう手法も創作の一部であるという考え方が音楽界では大勢になりつつあるということです。

 このように創作物というものは、著作権という概念が社会的に認識された上で、引用されたり加工されたりすることで更にその価値が増すものであると言うことができます。

【結論-今回の件がもたらしたもの】
 安部さんの周囲には、彼女の人気を元にして詩やエッセイの企画をした出版社などが介在しているはずです。著作権については常日頃敏感であるべきその方達が犯したミスであるということに最大の問題があります。
 どこからが著作権の発生する創作物であるのかという境界線の判断は難しいものではありますが、少なくともそのことへのチェック機能が働くよう関係者が自らを律するべき問題であると思います。その意味で本人のみの謝罪復帰会見は、わたしには少々首をかしげたくなる状態です。

【追記】
 今朝のニュースで安部なつみさんの謝罪及び復帰に向けた記者会見を見ました。心中は察して余りあるものがありますが、これを機にゼロから始めるつもりで仕事に望まれることを願いたいと思います。
 ..って今回はいつもにも増して固い内容になりました。あぁ疲れた。

第9問:爪が横から裂けてしまって飛び出しているのが無性に気になってしまうのは何故か

 言葉ではとても説明しにくいのですが、爪の端に時々できる小さな裂け目についてのことです。とげが刺さったように指からはみ出している奴です。

【体験】
 その裂けた部分を他の指でさすっていると気になって気になって仕方がないです。周囲の人達に聞いたところ皆同じような経験があるようです。健康状態とは関係がないようなので、特に心配する必要もないことなのですが。

 裂け目が小さい時はまだ我慢できるのですが、やはり爪は爪なので、日にちが経つにつれ、裂け目自体も成長していきます。いよいよ気持ち悪さが限界までつのり、つい指でそれを引っ張り剥がしてしまうことがあります。すると痛みを伴って結構爪の奥の方からブチッとちぎれ、血が染み出てきます。最悪の状態です。後悔します。何でもっと我慢出来なかったのか、爪切りを使えば良かったのにと。

 一番ひどい時は、両手合わせて5本の指の爪にこの裂け目が出来ていることもありました。

【検証】
 爪は成分的には皮膚と同じようなもので、陸上の動物全てが持っている体のパーツの1つです。動物が魚類の状態から陸上で生活するようになる進化の過程で、陸をより移動し易いように、また獲物や果実などの餌を取り易くするために、皮膚組織が硬化して出来たもののようです。

 では人間の場合、上記ような動物としての機能以外で爪を持っている意味はどこにあるのでしょうか。そこに今回の疑問を解く鍵が隠されています。

 背の高さや手の大きさなどは、環境であるとか栄養の摂取状態、DNAなどによりある一定の長さ、大きさになるとそれ以上は成長しません。
 その一方、爪には髪の毛と同様に、放っておくと必要以上に長く生えてしまう性質があります。その為動物としての生理に任せるままではなく、自分の意思でコントロール(切る、削るなど)して適切な長さに調整することを余儀なくされています。ぶっちゃけて言えば、「勝手に生えてくるなよ!」と言いたくなるような厄介な存在でもあるわけです。

 このように自分が快適に暮らすために、爪について常に気を配っておかないといけないという状態が、このちょっとした裂け目を必要以上に重く考えてしまうということなのです。

【結論】
 爪のちょっとした裂け目が気になって仕方がないのは、その部分が自分の意思により生えてきたものではないこと、また放っておくと勝手に伸び続ける爪という存在に、絶えず気を使ってしまう人間の持って産まれた性質によるものだと考えられます。
 女性で髪の枝毛が、気になりだすと気になって仕方がないことも、同じような理由によるものだと思われます。

【追記】
 人間の場合、爪の様子で隠れた病気が分かることもあるらしいです。爪に縦や横の筋が入ってる場合は何らかの病気を疑った方が良いようです。とは言え必ず病気があるとは限らないのですが。ちなみに爪の生え際の白い半月の大小は健康状態との関連は全くないと家庭用の医学書に明記してありましたので、仮に半月が小さくても気になさらないで下さい。

第8問:「あれっこんなこと前にもあったな?」という現象は何故起こるのか?

「デジャビュ(de'ja' vu)」( ' はそれぞれ前の"e,a"上に付くアクセント記号)現象、フランス語です。
フランス語からの直訳では「既に考えていること」になるようです。日本語では「既視感」と訳されてます。「既に見たことある感じ」そのまんまの訳です。ちと芸が足りないですね。
 どの方も最低1度や2度体験していることでしょう。今回はこの不思議な現象について考察します。

【体験】
 この現象を差す言葉の存在を知る前から、たぶん子供の頃からこの現象を体験していたように思います。それがどういう体験だったか、どういう気分だったかはよく覚えていませんが、不思議な感覚に陥ったことだけは記憶の片隅にまだ残っています。
 トイレの花子さんや口割け女のようにブームになったわけではないですが、友達の何人かも同じような体験をしていたと言ってました。今なら「あるある!」って部類ですか。

 割と頻繁にこの現象を体験するようになったのは、社会人になってからだったように思います。わたしにとっては社会人になることイコール実家を離れ一人暮らしになり、何でも自分の思う通りに出来ること。その一方苦しいことや面倒なことも全て自分でやらなかればいけないようになったということでした。実家は金持ちではなかったですが、世間知らずのお坊ちゃんのようなものだったのでしょう。
 社会人になってから初めて味わった世間の仕組み、厳しさがたくさんあります。また会社においては様々な上司、同僚がおり、学生時代のようにいつも仲良しグループで行動するなんてことはできません。必然的に周囲と協調することを求められます。また行動範囲も拡がり、初めて訪れる場所、初めて味わう状況も多々ありました。

 そんなある日、駅前の歩道橋を渡ろうと階段を登りかけたところで人に道を聞かれました。○○デパートはどこですかと。わたしはそれに答えながら「あれっ、前にこんな状況あったな?」と感じていました。再び階段を登りつつ、上から降りてきたOL風の女性の顔が知り合いのように思えました。
 またある時は、そば屋でお昼をとっていると店内が混んできたため合い席を店員から頼まれました。軽くいいですよと答えつつ「あれっ」と思い、対面に腰掛けた中年サラリーマンに見覚えがあるように感じました。

 共にほんの数秒の間で、またごく日常的な出来事の中で起きている現象でした。わたしは、その正体の見えないモヤモヤした気持ちを自分の中で消化しきれずに、しばしぼおっとするしかない有り様でした。

【検証】
 わたしの体験を元にすると、次の3つの条件が揃った状況で起こる現象であることと考えられます。
1、一人暮らしになり、必然的に外部、他人との接触が
  増えている状況であること
2、ほぼ毎日のように繰り返される出来事の中で、ほんの
  ちょっとした変化があった状況であること
3、人との絡み合いの中で生まれる状況であること

これらの状況を考え合わせると次のような考察が成り立ちます。

 人はたった一人では何も出来ません。子供の頃は親、家族がしてくれていた様々な用事(買物、家事、金銭の管理など)も自分でするようになり、その過程で大人としての常識、マナーなどを学んでいきます。また他人の気持ちを思い遣ったり、場の雰囲気を感じ取ったりしながら適切な行動を取るようになります。つまり状況の経験値が上がり、自分の中で無意識の内に状況パターンの蓄積が行われているということです。全く初めて体験する状況というものが徐々に減り、新たな状況も自分の中のパターンのどれかに当てはめて考え感じ反応するようになります。

 次にどういう形で状況パターンが収められているかを考えます。心理学的には諸説あるようですが、今回の「デジャビュ」現象については音声や文字とかではなく、映像的イメージでの記憶パターンが残されているのだと考えるのが適切なようです。
 映像的イメージとは言っても、写真のような鮮明な画質ではなく、絵画的な多少曖昧な質であると思われます。その曖昧さが却って人の適応能力の高さを裏付けていると言えるでしょう。そしてある新たな状況に出会った時に、蓄積されているパターンの中から近いものを呼び出し適切に対応をしているのだと思われます。この状況への蓄積パターン当てはめ対応が「デジャビュ」に強く関係しています。

 最後に通常は「当てはめ対応」を日々行いながら、ふとした瞬間に「デジャビュ」に移行するかは、現在の状況と呼び出された蓄積パターンとが酷似している場合であると考えられます。

【結論】
 日々繰り返されているこの「当てはめ対応」が、どうして時折「デジャビュ」として出現するのか、そのケースを本考察では下記のように結論付けたいと思います。

 それは、新たな場面ではあるのだが、過去に蓄積されたパターンといくつかの条件が酷似している状況に出会った時、-例えばわたしの体験で言うと、「歩道橋」「人に道を聞かれる」「OL風の女性とすれ違う」という条件が揃った時である-、絵画風であった記憶のパターンが一瞬写真やビデオ画質で再生されることであると考えます。そのあまりの鮮明な一致感が、一種の感動(エモーション)となり、脳内に特殊な神経作用をもたらすのではないかと考えることができます。

【追記】
 男女の関係の場合でも、運命的な出会い、一目惚れと言われることがありますよね。これもこの「デジャビュ」と似ています。どんな人を好きになるのかは、多くの異性と接し色々な状況を体験する中で、自分の感覚にフィットする異性のタイプ(顔形、性格など)を、無意識の内に脳内に形成しているのだと思います。そのイメージと酷似している異性との出会いが、運命的であったり一目惚れであったりするのではないでしょうか。
1 | 2 | 3 | 4 | 最初次のページへ >>