雨蛙伊勢街道の雨上り

「方円」2010年7月号雑詠掲載。

伊勢街道は三重の日永追分から伊勢神宮・二見までを結ぶ街道の事を指す。今から15年前の5月。すっかり忘れてしまったが、恐らく伊勢参りに出向いたのだろう。雨上がりで路面や周りの風景は濡れていて、街道途中の田畑からは雨蛙の声が聞こえる。雨蛙はこの時期、田畑や川べりなどでキャクキャクとよく通る声を出す。だんだん暑さが本格的になり、梅雨入りも間近という気候の中、こうした声に季節を感じる。お伊勢さんという場所も雨蛙の声も、景色の一部として楽しませてくれる。そんな光景を素直に詠んだ句。

さて、この蛙に関する季語。「雨蛙」「牛蛙」「蟇蛙」と、具体的な蛙の名がつけば、夏の季語とされる。一方、単純に「蛙」ならば春の季語。よく間違うので注意が必要だ。歳時記を調べてみると、単に「蛙」だと、繁殖期の蛙全般を指し、「雨蛙」だと鳴いている声、姿、時期を表すようだ。つい最近まで知らなかった。今回紹介した句を詠んだのは、30代後半。単純に雨蛙の声が聞こえたから詠んだだけかもしれないが、偶然にもその声が夏を感じさせる句に仕上がった。「季語」というものを考えた先人の、まさに観察力のたわものかもしれない。

(絵はAIによる創作です)

 

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島にゐて島で呼び合ふ四十雀

「雲の峰」2024年7月号青葉集掲載。

和歌山・友ヶ島を訪れた際の一コマ。四十雀は4~7月の繁殖期、甲高い声で「ツーツーピー」と鳴くのが特徴。街中でもよく見かける。加太港からフェリーに乗って友ヶ島へ。島に降り立って、最初に聞いた鳥の声が、この四十雀だった。あちらの森からこちらの森へ、互いに鳴き交わす様子は、仲間同士でしゃべっているようにも聞こえる。小さい島の中で、受け継がれる命がある。そんな様子に惹かれて詠んだ句。

最近、四十雀は様々な鳴き声を駆使して、仲間同士で言葉を発しているのではという説が唱えられている。生きていく上で欠かせない事なら、声を発して情報共有する。何ら不思議のないことだろう。一方の人間は、少し言葉を複雑にしすぎたきらいがある。子供の頃読んだ発明王エジソンの伝記に、彼の幼少の頃の逸話として、面白いことが書かれていた。先生が「1たす1は2」と教えると、エジソン少年は「でも先生。この右手にある泥団子と、左手にある泥団子をくっつけると、泥団子は1つになります。1たす1は1ではないのですか?」と質問。先生が烈火の如く怒るというやり取り。「屁理屈を言うな」という事だろう。ならば、大人もこんな屁理屈を言えばどうなるのか。

「では逆に聞くが、『足す』とはどういう意味か分かるかね。ここにある1という数字は、何をどう考えても絶対的に1だ。その絶対的な1という数に、もう1つ絶対的な1という数字を付け加えて、『1が二つある』という状態を数字に表すという事だ。君が両手に持っている泥団子は、左右全く同じ大きさ、同じ形、同じ重さだと証明できるかね?それをくっつけたら、『個数』は確かに1になるだろう。それは『泥団子』という単なる物質をくっつけただけ。君は1という数字の上に1という数字を継ぎ足して、大きい1という数字にしているだけだ。それを『足す』とどうして言えるのだね。トーマス・アルバ・エジソン君」

屁理屈の塊のような、およそ非論理的な言い方だが、これに対してエジソン少年は

「じゃあ先生、1はどうして1なんですか?」などと返すだろう。

これは極端な例だが、今の世の中、「言い負かした方が勝ち」という論調になりすぎてはいないか。自分の確固たる意見を持つのは結構だが、それを戦わせて勝ちを得るという行動に移しすぎる前に、他人の言い分も聞いた方がいいと思うのだが。

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一八や切妻屋根の古長屋

「方円」2021年7月号円象集掲載。

イチハツは「一八」または「鳶尾草」と書く、アヤメ科の花。5月頃にカキツバタに似た形の白や紫の花を咲かせるため、夏の季語とされている。この句は2021年5月、鳥羽街道を歩いた際に詠んだ句。近鉄東寺駅から京阪淀駅まで、亡父が2012年3月に歩いたコースを逆方向に辿って歩いた。当時工事中だった京都競馬場が川岸に見えてくる辺りに、青い屋根の文化住宅が数棟見えた。その周辺に咲いていたのがこの花。歳時記で調べてみると、「この花は、火災を防ぐという俗信から、藁屋根の棟に植えられた。」という興味深い解説があった。住民はそれを意図したのかはわからないが、青い可憐な花が、この家を守っているようにも見えて詠んだ句。

今年3月、愛宕山に登った。924メートルという標高は私にとって未知の世界だったが、登ってみた理由は、山頂の愛宕神社で火除けのお札を貰うため。無事手に入れて、今でも台所に貼っている。絶対に貼らなければいけない訳ではないが、これは一種の「気を付けなければ」という心構え。お守りや俗信は、すべからく人間の心の内からにじみ出ているものと言える。一八を植えるという行為もその一つ。それが人々の目を楽しませてくれているとすれば、社会に大いに役立っていると言えるだろう。

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ががんぼに落ち着かぬ夜来たりけり

「雲の峰」2024年7月号青葉集掲載。

私はこんな趣味を楽しんでいる割に、虫が大の苦手だ。特にガガンボは一段と苦手な部類に入る。広い屋外で見る分には大丈夫なのだが、寝室で飛んでいると、それだけでもう落ち着かない。しかしこのガガンボという虫、体ばかり大きくて、足はひょろ長く、いかにも弱弱しい虫。壁や天井にぶつかりながら飛ぶ姿は、不器用を絵に描いたといった風情だ。明かりのついた室内に迷い込むと、もう出られない。狭い寝室で、窓や扉でも開くのを待つしかない。私は彼を見たら落ち着かないが、彼も落ち着かない夜を過ごすのかもしれない。そんな風に思えて詠んだ句。

以前にもお話したが、私はADHDで、人から指示をもらったら、最後まで聞かない間に理解したつもりで先に動いてしまう。休憩中も「ボーっとする」という概念がないわけではないが、落ち着かずにウロウロしてしまう。人から見れば、それら全てが無駄な動き。そんな行動を見て、この人は大丈夫かと思われてしまう。少し立ち止まって、深呼吸なり瞑想なりして、一呼吸置いてから動けばいいのだが、理屈でわかっていても動いてしまう。さながら夜の寝室のガガンボだ。しかし、よく観察すると、彼らも終始飛び回っているだけでなく、じっと壁や照明につかまって動かない時がある。意思をもってそこに留まり、意思を持って動いているという訳だ。私ももっと、「意思をもってじっとする」という時間を増やさねばならない。
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鶯のよく歌ひよく休みをり

「方円」2020年7月号円象集掲載。

ウグイスも5月になればその歌声はベテラン級になる。盛んに鳴いている様子が、立夏が近づいても聞こえてくる。よく聞くと、終始鳴きっぱなしではなく、適度な感覚で鳴いては黙り、鳴いては黙りを繰り返している。鳴き続けているように聞こえるのは、あちこちで交互に鳴いているから。ほかのウグイスの声を聞き、それに呼応して鳴いている姿が「よく歌ひよく休み」という風に感じて詠んだ句。

この句を詠んだのは、例の感染症が猛威を振るっていた2020年。終始動きっぱなしだった人間が「立ち止まる」術を覚えて、社会生活が大きく変わった時期でもある。だからこそ、こういう光景が心に染みたのかもしれない。私はADHDで、休憩中や何もしていない時でも、じっと落ち着くというのが苦手な人。しかし、休むという事がいかに大切かという事は知っている。実を伴っていないのが現状なので、このウグイスのように、しっかりと歌ったらしっかりと黙るという姿勢を、今まで以上に心掛けたいものだ。

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