身体は心のメッセージ、身体の声を聴く

内科医・心理カウンセラーの野上徳子です

 

10月に入りすっかり秋ですねもみじ

 

 

先日来院した患者様

もともと血圧が200/以上あり

降圧剤の服用をしていました

 

 

血圧手帳を見せて頂いたのですが

いつもは110~130/と落ち着いていたのに

9月に入り、100/以下になる時が度々ありました

 

 

一般的に、7~8月の気温が高い時期に

血圧が下がる方はいらっしゃいます

そのような方は

夏の暑い時期はお薬を減らします

 

 

この方の場合

9月に入り涼しくなってから

血圧が下がっています

 

 

「何かありました?」と訊いても

「特に何も・・・」と言ったお返事

 

 

私はピンときて

こんなお話をしました

 

 

血圧が下がるのは

背側迷走神経が

優位になっている状態

 

 

心理的には

シャットダウンして

諦めてしまっている状態です

 

 

9月といえば、学生であれば

夏休みが終わって、2学期が始まる時期

 

そして

行事が多い季節

運動会(体育祭)や文化祭、遠足等

 

 

そのような行事は

もちろん楽しい行事なんだけど

楽しいことばかりじゃないこともありますね

 

 

例えば

配役を決める時にもめて

トラブルになったり

 

本当は親に来て欲しかったのに

仕事で来てもらえなかったとか

 

言いたいことがあっても

言えずに諦めてしまった

 

 

小学校~中学~高校の

運動会や文化祭

大学でも学園祭があるところもありますね

 

 

言いたいことがあったのに

言えなかった

 

やりたいことがあったのに

やれなかった

 

 

9月に入り、秋を感じた時

無意識にそのような記憶を

思い起こしていまるかもしれません

 

 

すると患者様

「何か分からないけど涙が・・・」

 

 

もし何かを思い出したら

書き出してみることをお勧めします

 

 

 

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身体は心のメッセージ

身体の声を聴く

内科医・心理カウンセラーの

野上徳子です

 

 

先日の相談内容が

私の心にずっと残っていました

 

それは、

「人生変わっていると思うのに

同じところをぐるぐるしている

人生の流れを変えるのに何をしたらいいのか?」

というものでした

 

 

 

私が彼女に対して感じた

胸がもやもやしている感じ、重い・・・

 

胸の奥に小さな喜び

小さな、小さな喜びを感じ、味わう感覚

そして、らせん、大きな潮流・・・

 

 

 

お金は重要じゃない

焦る必要もない

日向ぼっこして、のんびり過ごしている

丁寧に味わって生活している

 


 

生活する中で

生きていることの喜びを感じている

ささやかな当たり前の小さな、小さな事に感動している

 

 

花が咲いたら感動し

雨が降れば感動し

カエルの声に感動し

アリの行列に感動し

季節の変化に感動している

 


 

生命の喜びに満ち溢れている

心にも丁寧に、丁寧に向き合っていく

 

丁寧な生活をすることで

‟生きる喜び”を見出していく

 

 

それが

『生きること』

 

 

 

その姿をみて、人が感動する

決して華やかではないけれど

丁寧な生活に人は憧れる

 

変わっていないようで

少しずつ、らせんを描くように上昇している

 

外の世界がどんなに変わろうと

丁寧な生活をすること

日常の小さなことに喜びを見出すことは変わらない

 

そのように過ごしていくことが

大きな潮流に乗ることかもしれない

 

 

このようなお話を彼女にしました

 

でもこれは

私のこと

 

 

お盆で長女が県外から帰ってきました

ほんの1週間の滞在でしたが

家族がひとり増えただけで

家が明るく華やぎました

 

居なくなって

「淋しいな・・・」と主人

 

 

生きる意味

生きる目的は何か?

それを果たさないといけない

 

何か大きなことをしないといけないのではないか

そうじゃない自分には価値がない

 

 

そう思って

自分を責めていました

 

 

当たり前は当たり前じゃない

日常のほんの些細なことや

小さな変化に喜びを感じて

 

今を生きる

 

 

 


身体は心のメッセージ

身体の声を聴く

内科医・心理カウンセラーの

野上徳子です

 

 

右外斜視のご相談でした

 

 

私がその方に感じた

引き離される

奪われる感覚

 

 

詳しく伺うと

外斜視になる少し前に

 

 

将来

"私の世界の中のものが奪われる"

という恐れがありました

 

 

まさに

見たいくないものを

見ないように

 

目をそらしていました

 

 

セッションの途中に

「あれっ、はっきり見える❗

「キーボードがクリアに見える~」


 

 

短いセッションでしたが

気付いて頂けてよかった

 

 

以下

ご本人の許可を得て

シェアしております

 


 

 

 

 

 

こんにちは。野上徳子です。

私は、医師という立場でありながら、ずっと

『生きる価値がない』『死にたい』

と思って生きていました。

 

過去、

ネガティブな解釈がついてる記憶を

ひとつひとつ丁寧に洗い出していきました。

 

 

 

小学校高学年の時にいじめにあいました。

ひとりの男の子がリーダーで

机にごみを入れたり、陰口をたたいて、

皆に無視するように指示していました。

 

 

ある時、

クラスで人気投票をすることになりました。

そのリーダーの子は周囲に目配せをして、

投票の結果、私がクラスで1番になりました。

 

 

クスクス笑われ、恥ずかしくて、

自分が消えて、無くなりたいと思いました。

 

親に言うことも出来ず、

辛くても学校へ行っていました。

 

これ以降、

ますます人と関わることが苦手になりました。

 

子供がいじめられているかもしれない5つの兆候 - こころの探検

 

この時の記憶は、以前にも扱いました。

私は身長30mのウルトラマンくらいの大きさになり、

いじめっ子を放り投げるというイメージしました。

 

 

その時は、

イメージを書き換えるだけで精一杯で、

深く取り組めなかったので、

今回、さらに深く考察していきたいと思います。

 

 

後日談があり、

このリーダーのいじめっ子は、

中学校に上がってから、

いじめられるようになりました。

いじめる側から、いじめられる側になったのです。

 

当時私は、「ざまあみろ!」と思っていました。

いじめられる側の気持ちが分かったか!と。

 

 

 

あれから40年、

私もいろいろ学んできて分かったのは、

いじめる側と、いじめられる側

どちらも根底にある前提は同じだということ。

 

いじめっ子の彼も、

私と同じ思いをしていたんではないだろうか?

 

彼も自分のことを

価値のない存在だと思っていたと思います。

 

だとしたら、

この時私はどうしたかったんだろう?

 

彼とケンカがしたかったわけじゃない。

かといって、

特別仲良くしたかったわけでもない。

お互いを尊重して、

クラスの一員として認めて欲しかった。

 

そのような会話を彼としているイメージをしました。

 

 

改めて、私は何のために、彼にいじめさせたのか?

 

いじめにあうことで、

人との繋がりの大切さを知ることが出来たし

相手を理解し、自分を大切にするのと同じように

人も大切にすることを学んだと思います。

 

 

そして、私は何のために、

クラスで不人気投票1位にさせたのか?

 

人気投票なんて、所詮他人の評価です。

もちろん人に嫌われるよりも好かれた方がいいけど、

自分自身を好きじゃない人を、

人が好きになるはずがありません。

 

自分の一番の理解者は自分であり、

自分の価値は自分で決めるため

だと思います。

 

 

 

 

こんにちは

野上徳子です。

 

私は医師という立場でありながら

ずっと、

『生きる価値がない』

『死にたい』

と思って生きていました。

 

そこから、どのようにして脱出したのか、

具体的にお話していきたいと思います。

 

 

小さい頃から母は、妹ばかり可愛がっていました。

私は「妹に母をとられた。私は母に愛されていない」

と思っていました。

そのため、いつも妹をいじめていました。

 

 

この『私は愛されていない』という思いが、

私を苦しめました。

 

愛されていない私はダメな人間だ

愛されていない私は価値がない

愛されていない=嫌われている

だから友達ができない

友達のいない私はダメで、価値がない

私はダメで、価値がない人間なんだ

価値のない人間は生きる価値がない 

という具合に

信じ込みがどんどん膨らんでいきました。

 

 

母に愛されていないという思いは、

どこから生まれたのか?

過去をずーっとさかのぼっていくと、

ある記憶を思い出しました。

 

 

妹が産まれた後、母は産後のひだちが悪く、

よく臥せっていました。

当時2歳だった私は、母に甘えたくて、

母の部屋にいきました。

 

部屋の戸を開けると、

母に「あっちに行って」と言われて、

私はひどく傷つき、辛くて、悲しくて、

私は母に拒絶された、嫌われている、

愛されていないと思いました。

 

 

この時の記憶が『私は愛されていない』

という思い込みを作ったのかもしれません。

この記憶を書き換えることにしました。

 

 

まず、イメージの中で

大人の私が、2歳の私をぎゅうっと抱きしめ、

「大丈夫だよ~」と言って愛を送り、

2歳の私を安心させました。

 

そして、母は本当に、

私のことが嫌いだったのか、

母の中に入ってみることにしました。

 

母の着ぐるみを着るように、

母の中に入ってみると、

母の想いが伝わってきました。

 

私が母の部屋の戸を開けた時、

母は体調が悪く、

とても私の相手が出来ないと思い

「あっちに行って遊びなさい」と言ったようです。

 

母は、私が嫌いで言ったわけではなかった

ということが分かりました。

 

 

そして、2歳の私は、

本当はどうしたかったんだろう?と考えてみました。

2歳の私は、ただ母のそばに居たかった。

ただ母のぬくもりを感じたかっただけ・・・でした。

 

「あっちに行って」と言われ、

それに従って、すごすご引き下がり、

勝手な思い込みをしただけでした。

 

 

だったら、

2歳の私はその時どうしたら良かったんだろう?

母に「あっちにいって」と言われた時、

「おとなしくしてるから、そばにいてもいい?」と

訊くこともできたかもしれません。

 

そうすれば、母を煩わせる事もなく、

私も満足できたんじゃないかと思います。

これをイメージでやり直しました。

 

 

そして、改めて、

私は何のために母に「あっちに行って」と

言わせたのか?考えてみました。

 

もしかしたら、

人の懐に入るためには、臆することなく、

一歩、歩み寄ることが大切だ

ということを学ぶためだったのかもしれません。