恥辱とカタルシス -28ページ目

恥辱とカタルシス

作家志望、渋谷東子と申します。
よろしくお願いします。

じーさんがとうとう死んじゃいました。

 

こんにちは、渋谷です。

 

 

 

じじいこと我が家の黒猫が今朝とうとう死にました。朝6時ごろ起きて夫と子供が寝る部屋に向かったら、猫ベッドから自力で出て力尽きていた。夫が寝るベッドに入ろうとしていたのかな。まだ体は温かくて、ついいましがた絶命したという感じでした。私が起きるのを待ってくれてたようでした。

 

この子は夫に非常に懐いていて、長年触らせてくれない子だったにも拘らずこの3年ほどは夫に膝になら乗るようになっていました。私の膝には一切乗らなかったけどね。私は「自動えさ出し器」。夫は「大好きなパパ」。

 

なんせ声量がすごい子で、私にはものすごい声で怒るのよ。「っにゃああああああっ!にやあああああ!」つって。日本語に訳すと、「とっとと飯出さんかあああああ!トイレ、掃除しやがれえええええ!」

 

「こんの、クソババア―――――――!!」

 

……ちゃんとやってますよおじいさん。なんなんですかおじいさんとぶつぶつ言いつつめんどいお世話は、すべて私の仕事。かわいがるのは夫の仕事。晩年には怒る元気もなくなってましたけどね。代わりに私の後をついて回って、「ワシにだけウェットフード出せや」っつってせっつく。あんまりいっぺんに食べさせると嘔吐して、そこからがっくんと死んじゃう危険性もあったので少量を一日に何度にも分けてあげてました。

 

いやあ、とにかく激しい猫でしたね。このじーさんは若かりし頃病院を嫌がって本気で私の手をひっかきました。手の甲だったんだけど紫色の血が出て(要はなんか動脈的な太い血管が裂けた)、今だ私の右手にはその時の10センチ以上の傷跡が残っています。15年以上残ってんだからもう一生ものの傷です。若い娘に消えない傷をつけた黒猫。死んでしまった。やっぱりとっても、悲しいです。

 

 

 

明日火葬に連れていきます。彼のお母さんも眠っているお墓。彼はお母さんが死んだあとずーっとにゃあにゃあ言いながら部屋を探し回っていた。涙をぽろぽろ流していたのも見た。毛づくろいもやめてばっさばさになっちゃったから病院に連れていったら「ストレスです」だって。猫も泣くんだ、ストレスでやられるんだって初めて知った。

 

まあうちにはまだ3匹猫がいるんで、騒がしい日常は変わりません。外に出さないので家ん中でゲロ吐くんでね。相変わらずカーペット洗って床拭いて猫トイレ掃除してウェーブでたまる毛玉を退治して。どこを見ても猫の気配。猫のお世話は常にてんこ盛り。

 

でも残った3匹はとってもおとなしい気性で3匹が競うようにして私に甘えてくるんです。あの「クッソババア――――――!!!」を聞くことはもうないんだな。

 

苦しまず、静かに死んでくれた。それだけでも十二分に飼い主孝行だ。明日には大好きなお母さんに会えるよ。

 

ということで、ばいばいじーさん、というお話でした。

本日2冊目ー。

 
こんばんは、渋谷です。
 
 
 
中編ばっか読んでるからさくさく読めちゃうねー。私が今書いてるのも中編だから、同じぐらいの長さを選んじゃう。どんな具合がちょうどいいのか知りたいしー。
 
というわけで、羽田圭介さんの「スクラップ・アンド・ビルド」。羽田圭介さんてやっぱり文藝賞からデビューされてるんですね。
 
デビュー時なんと17歳。わっかいねー。で、又吉先生と同時にこの「スクラップ・アンド・ビルド」で芥川賞を受賞されてます。テレビで見ると変わったお兄ちゃんですが、作品はとても真摯で面白かった。
 
今日読んだ「人のセックスを笑うな」と同じく、若いお兄ちゃんが主人公のお話です。女性作家が書く女性主人公のお話ばかりが続いてたような気がするので、なかなかに新鮮でした。
 
若い男の子って、こんなこと考えるのねー。
 
 
 
主人公は健斗くん28歳。カーディーラーで5年働いて自己都合で退職して無職です。家族はおじいちゃんとお母さんの3人暮らし。おじいちゃんは87歳でよぼよぼ。3年前から同居を始めたおじいちゃんに、お母さんはイライラもマックスです。だっておじいちゃん、ほんとは元気なくせに偽装老人なんだもん。
 
身体は健康だし頭だってしっかりしてる。なのに人が見てる前では杖を突いてよろよろして、すぐ「もう死にたい」「じいちゃんなんか死んだらええんや」的なことを長崎弁で繰り返します。柔らかくて甘い食べ物が大好き。それ以外はお母さんがどんだけ苦心して柔らかいおかずを作っても、ろくに食いもせずに「固い」「食えん」みたいなことを言うんだぜ。家族が誰もいないときには冷凍ピザに玉ねぎまでトッピングして食べるくせに。すっごい素早い動きで移動できるくせに。
 
お母さんがイラっとくるのもわかるわね。家族だからこそ遠慮のない言葉でじいちゃんをゴスゴスにこき下ろすお母さん。おじいちゃんにはおじいちゃんなりの主張があるんだろうけどねえ。やっぱりさみしかったり。老いていく自分が歯がゆかったり。色々あってやっぱり介護って難しい。それも自宅での介護っていうのは、介護する側に大きな負担がかかるものなんですね。
 
それで切れまくるお母さんを見て健斗くん、「じいちゃん、死んだほうが幸せなんじゃね?」って思っちゃう。だって本人「死にたい死にたい」言ってるし。でも痛かったり苦しかったりするのはかわいそう。だから痒いところに手が届く介護で、筋力も思考力も奪って衰えた末に死にやすくしてあげようと思っちゃうんです。それがじいちゃん孝行だ、ってな具合に。
 
 
 
まあね、私も思うんですよ。人生90年時代。私はあと50年生きなきゃいけません。でもこの先どんどん寿命が延びていく。私が死ねるのって、もしかしたら120歳ぐらいなんじゃないかなって。
 
別に自殺願望があるなんて言いませんが、そんなに長生きしなきゃいけないって結構果てしないことのような気がするんです。そんなこと言ったら若くして亡くならなきゃいけなかった方たちに対する冒涜みたいな気もしますが。でもまあ私の人生は私のものだし。はっきり言ってそんなに生きたくない。気力と知力が衰えたうえで生きなきゃいけないなんて嫌。私が「私」じゃなくなった瞬間に死にたい。でもこの先、きっと死ぬことも許されない世界になっていくんだろうなあ。
 
で、まあ無職だしおじいちゃんの介護に精を出す健斗くん。彼女もいてデートもするし、資格の勉強しながら中途採用の面接を受けに行ったりします。なんだかんだ言って前向きな子なんですね。無職ではたから見ればふらふらしてるように見える自分に喝を入れるべく、筋トレを始めたりもします。これにハマって、日々トレーニングをこなしている描写が続く。作者の羽田さんも筋トレが好きなんだって。
 
追い込んで自分の限界を超えて筋肉をいったん死滅させ再生させる。筋トレとはまさに「スクラップ・アンド・ビルド」です。そしておじいちゃんに安楽の死を与えることも、おそらく彼にとっては「スクラップ・アンド・ビルド」。けれど終盤おじいちゃんの入浴の介助中におトイレに行きたくなった健斗くんは、「まあだいじょぶだろ」と思い嫌がるおじいちゃんをお風呂場に置き去りにします。戻ってみるとおぼれているおじいちゃん。ぎょっとする健斗くんは、じいちゃんの「死ぬとこだった」という言葉に、自分は大きな考え違いをしていたのではないかと戦慄するのです。
 
 
 
まあね。じいちゃん「死にたい死にたい」とは言えど、実際目の前に死がやってきたら怖気づくところがあるのかもしれません。て言うか、結局は死にたくなんてなかったのかな。娘や孫の関心を引きたかっただけで。年をとればとるほど、あの世なんかに行くもんかと悪あがきをするものだ、なんて話も聞きます。近づいてはいるけれど体験したことのない「死」というものに恐れを抱くのは当然のことですよね。
 
最後にはじいちゃんとお母さんを置いて、遠隔地に就職を決める健斗くん。じいちゃんはもう殺さなくていい。だってじいちゃんは生きたいんだもの。この一連の経験で健斗くん自身が「スクラップ・アンド・ビルド」されたんでしょうね。人として「?」な彼女とも別れ、彼には生まれ変わった人生が待っているわけです。
 
 
 
なんかね、この本を読んでみて思ったのが、「深読みすれば意味があること」を、「全然何でもないこと」みたいに書くことにはちゃんと意味があるんだなってこと。だから深読みしなきゃ伝わりにくいのかなとも思う。
 
すごい稚拙な感想なんだけど。健斗くんという、「セックスを強めるために一日三回のオナニーを自分に課す」ような、女からするとなんだかよくわからん男の子の日常も、よくよくつぶさに見ていって初めて意味が見いだせる。「スクラップ・アンド・ビルド」というタイトルの持つ意味が分かって初めてこの本って成立するのかなって思った。ぼやっと読んでたらこれ、なんだか意味の分かんない話だ。でもやっぱ、わかりやすく書くだけが能じゃない。
 
読む方にも「読む目」がいるんだね。難解だからいいわけじゃない。「分らんわー」って投げ出したことも多々あるけど。いずれはこういう風に「全部は書かない」みたいな作品が書けるようになりたい。羽田さん、変わったお兄ちゃんだなーって思ってたけど、「作家さん」なんだねえ。
 
ひとつのテーマにいろんな意味を絡めるこの複雑な手法。出来るようになりたいな。面白かったです。
 
ではでは、おやすみなさいー!

いやそんな、笑うなんてつもりは……。

 

こんにちは、渋谷です。

 

 

 

山崎ナオコーラさんの「人のセックスを笑うな」を読みましたよ。文藝賞受賞作。私ひっそりとこの賞に出したいなと思っているので、有名な受賞作を読んどこうと思って。この年はこの「人のセックスを笑うな」と、白岩玄さんの「野ブタ。をプロデュース」がダブル受賞してるんですね。両方なんか語感の良いタイトルです。

 

大体「山崎ナオコーラ」って何なんだ。ずるいよそんなの。もうペンネームで一本取った感じじゃん。しかも「人のセックスを笑うな」って。一度聴いたら忘れられないこのフレーズ。「人のセックスをこっそりのぞいた上に笑いもんにすんじゃねえよこの野郎!」みたいな流れが勃発する話なのかと思っちゃいます。まあそれだってどんな流れだかわかんないんだけど。

 

実際読んでみると、とんでもなく純粋なとある青年の恋物語。いやあ騙された。30分程度でさらっと読めるこの中編には、タイトルとは真逆の優しく切ない世界があふれておりました。

 

 

 

主人公の磯貝くんは19歳の美術系専門学校生。細い身体に薄い自己主張しか持たないぼんやりした若者です。そんな彼が恋に落ちた相手が、39歳の予備校講師ユリ。

 

年の差20やでーしかも女が年上!誘ったのはユリからで、磯貝君に声をかけ絵のモデルになってもらうんです。ユリも美術の学校の先生なので絵を描くんですね。

 

ユリのアトリエで何度かモデルをしてもらってるうちに、そういう雰囲気になってセックスしちゃうふたり。まあ……まあまあまあ。ある話やね。男女が密室にこもってなんかやってたらそうなるやろうね。

 

でもここでこのお話が俗っぽくならないのが、ユリにあんまりにも女としての魅力がないってところなんだよなあ。お色気むんむんの熟女じゃフランス書院になっちゃいますが、ユリは一重瞼に化粧っけのない、しかも小太りで毛玉だらけのセーターを着ている女なのですよ。

 

しかも既婚。夫は14歳年上。……この辺、今の私とほぼおんなじ状態なんよね。私はいま40だけど。夫14歳年上。でもそれで、20歳の男の子と不倫とかよーせんわー。

 

ふたりは週に一度程度ユリのアトリエで関係を重ねます。まるで本物の恋人同士のようにふざけあい愛し合うふたり。けれどユリは芸術家肌なのか大人としてあまりに人格が未完成です。電話に出んわ、メールは返さんわ、旦那が正月実家に帰るって言ったら家に磯貝君を引き込んじゃうわ。

 

不倫はまあちょっとした過ちでしちゃう人もいると思います。でも不倫にも仁義があるでー旦那と暮らす家に若い燕を呼び込むとは何事だ!両方に対して失礼だっていうのがわかんないんでしょうか。

 

そんなユリの下っ腹についたぜい肉を愛する磯貝君。姿かたちじゃなくユリのすべてを愛してしまいます。ほんとはもっとかわいい子が好きだったはずなのに。それは、若い純粋な男の子がセックスにおぼれちゃった、って形なのかなあと思います。

 

彼は女性経験も豊富でなく、しかも自分で自分は「セックスが下手くそだ」と思い込んでるんですね。いやまあ……上手い下手は確かにあるかもしれんけどよ。でも君まだ19やろ?そんなことをコンプレックスに思って不倫沼に足を踏み込むことはないはずだ。しまいにはユリの本宅でユリ旦那と鉢合わせしちゃったりします。

 

ユリ旦那は変わった人なので、磯貝君を料理でもてなし「またおいでよ」なんて言う。おそらく、ユリという人間の不安定さを理解しているから「磯貝君に罪はない」と思ったのではないだろうか。

 

 

 

ある日突然、ユリは学校を辞めてしまいます。そしてそのまま、長い時間をかけて磯貝君の周囲からフェイドアウトをしていく。磯貝君はさみしくてさみしくてたまりません。かわいそうにねえ、多分ユリが磯貝君を解放せねばと思っての別れだったんでしょうが、それにしたってやり方ってもんがあるだろう。ちゃんと振ってやれ。それが大人の責任じゃないのか。

 

 

 

傷つきやすい女と純粋な青年の3年弱の恋物語です。かわいそうな磯貝君の一人称で書かれたこの小説は、言い回しや表現がとても素敵でした。いやそれが、私この本図書館で借りたんだけどさ。

 

「ああ、いい表現だな」って(誰かが)思ったところに線が引いてあったりするのよ。文の横に。いいセリフには☆マークが振ってあったりする。多分以前借りた人があまりに素敵な表現に矢も楯もたまらず書き込みしちゃったんでしょう。こらー、図書館の本に書き込みしちゃいかーん!

 

空気の渇きを感じることができるオレは、本当は湿った生き物だ。

 

ってところから始まって、名文は漏らさずマーキングしてくれてた笑 だから私もその文を味わって読めた。なんかおかしいけど妙な読者同士の交流に心が温まりました。いや、図書館の本に落書きしちゃいかんのですが。

 

結局、「人のセックスを笑うな」というセリフはどこかにいる神様に向けて投げかけられたものでした。全然大事件起きなかった。でも面白かった。たまにはこんなのもいいね。

 

ではではまたー。

今日はなんかのイベントだったらしくてね。

 
こんばんは、渋谷です。
 
 
 
松山市の文化会館的なとこが近所にあって、そこに図書館が入ってるのね。で、今日図書館行ったら集会が執り行われていた。
 
駐車場に並ぶのは痛車。痛い車。出入り口には銀の髪の烏帽子かぶったお姉さん。ああ、今日はなんかの集会なのね。
 
久々にまじまじと痛車を眺めてしまった。とても不思議。普段はあの車どこに隠れてるんでしょうか。
 
普段あの車が道を走ってるのを見ないってことは、出勤に使ったりはしてないってことよね。だけどどっかのマンションの駐車場に停めてあるのも見たことない。どこにいるの?大体、その自己顕示欲ぶりたるや凄くない?
 
「俺はこのアニメが好きなんだー!」
 
だって何百万もかけてるんでしょう?普段通勤に使わない車に。心の中でこっそり好きでいてもいいはずなのに、それを車で表現する。それだけ愛が深いってことなんでしょうね。「俺がこのアニメを好きだって、みんな知ってくれー!」
 
最近私、「人の自己顕示欲」ってのをなんか考えてしまうのよ。TikTokもそうですが。
 
Twitterとかもみんなが「見て見て!私を見て!私ってこうでこうでこうなの!」って声高に叫ぶ場ですよね。
 
なんで人間ってそんなに自分を見て欲しがるんだろう。何を求めてるんだろう。承認欲求?認めてほしいの?見てもらって、「きもっ」って言われる可能性もあるのに?
 
言ってみれば、小説を書く行為も承認を求めた行為なんですよね。だから私にもそういう気持ちはある。でも、そこには恥じらいがあるんだよ。「こんなん……どうでしょう?」みたいな。
 
恥じらいがない承認欲求ってなんなんだろう。「自分は拒否されない」って絶対的自信?自分に対する信頼?育ちが違うの?自己肯定感が高いからそうなるの?
 
なんかぐるぐる考えちゃうんだよねー。TikToもTwitterも悪く言うつもりはありません。私には難しい、どうして疑問を抱いちゃうのか、自分でもめんどいなって思ってる感じ。
 
痛車でまたしみじみ思いました。そんなことを考えていたからか図書館で手にしたこの本。
 
川上未映子さんの「わたくし率イン歯ー、または世界」です。……よりなんかめんどくなりましたとさ汗
 
 
 
川上未映子さんという方は、大変な美人で最初はミュージシャンとして世に出た方なんですって。詩も多く書いていて、「先端で、さすわ、さされるわ、そらええわ」という詩集で中原中也賞、ほかにも谷崎潤一郎賞や渡辺淳一文学賞、「乳と卵」で芥川賞もとってます。この「わたくし率イン歯ー、または世界」は初の小説作品にして芥川賞候補作です。
 
だからというかなんと言うか、この本もまるで小説というか詩です。小説だと思って読むとすげえ読みにくいです。でも詩だと思って読むと妙な魅力があります。まず「わたくし率イン歯ー、または世界」って題名がわからんわね。序盤から繰り広げられる世界は、まるで狂人の見ている世界です。
 
主人公の「わたし」は美容部員として長年働いていたと「自分で思っている」女性です。その彼女は自分の奥歯が大好き。かれこれ歯磨きせずに生きてきたのに虫歯にならない彼女の歯。綺麗な奥歯。「自分っていうものはどこにあるんだろう」って考えた時に、彼女は「自分というものの本体は奥歯にある」と思うんですね。
 
「自分はどこにあるか」って言われたら、大体の人は脳か心臓、って言いますよね。それが奥歯。……奥歯。意味が分からん。しかも文体は一人称の支離滅裂な関西弁。日本語として成り立ってません。小説として読んだら読めん。でも、芥川賞作家の三田誠広さんがおっしゃっていたのを思い出しました。
 
純文学は挑戦的な姿勢も評価されるんだって。これは挑戦的って言うか実験的な印象すらありますけど。文学は自由なんだね。書きたいことを書きたいように書けばいいんだ。
 
でも、おもうがまま文章をちりばめていたんじゃただの妄想でしかない。ちゃんとそこに読者に読ませるだけの理由がなきゃいけないんでしょうね。この「わたくし率イン歯ー、または世界」にもちゃんとした理由がありました。
 
 
 
「自分」は奥歯の中にあると思っていた「わたし」。なんの資格もないんですが歯医者で働き始めます。わたしが中学時代から付き合っていると思っている男が「青木」。青木は最近忙しくてわたしに会ってくれません。将来の子供に向けて、「母の日記」を書き始める。その中でわたしの日常が色々と書き連ねられていきます。
 
青木との馴れ初めも。青木とわたしは中学時代、図書館で川端康成の「雪国」について言葉を交わしたことで知り合います。あの雪国の冒頭には、主語がない、んだって。
 
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」。ああ確かに、主語ないね。それは「わたし」がないってことなんだって。……まあ確かに。まだこの時点では何を言ってるのかわからん。確かにないわ。で、それで?
 
ある日わたしが勤める歯医者に青木がやってきます。久々に会えてうれしいわたしは、帰ろうとする青木を追っかけます。そして家まで走ってって玄関先で騒いだら、出てきたのは記憶にある青木とは違う大人になった青木。そしてその嫁。
 
青木と付き合っていると思い込んでいるわたしは大暴れ。私という存在は奥歯の中にあるんだと大演説をぶちます。だから青木よあんたの奥歯も私に見せろと。それで私たちは繋がっているんじゃないかと。でもそこで、冷静な青木の嫁が真実を明かします。これで意味不明な狂人の世界が一気に現実に帰ってくる。
 
わたし、は鏡モチのようないわゆる巨デブのちょっとおかしい子なんですね。だから今まで語られてきたことも大半は妄想だとわかる。青木とは中学時代に言葉を交わしたことがあるだけ。わたし、は子供時代に大変ないじめと虐待を受けておかしくなっちゃったのです。だから痛みを感じない奥歯に自分を押し込めた。そこに「自分」を入れておけば安全だから。そして川端康成を通して「そこにはわたし、がないんだ」と気付かせてくれた青木を唯一の理解者として愛してしまう。
 
わたし、は最後には歯医者に行って麻酔なしで奥歯を抜いてもらっちゃいます。……痛いわ。痛すぎるわ。奥歯も親知らずも抜きまくった身としては震えあがるわ。でもそれでわたし、は抑え込んでいた自分とサヨナラしたんですって。よかったんだか……なんなんだか。まあ良くてもよくなくてもいいんでしょう。そういう人がいた、というだけなんでしょうね。そこに意味なんてないんでしょう。でもまあとにかく、びっくりしたけど。
 
なんせびっくりした話ですよ。最初の「……はあ?」から読後の「えええ????」までの疾走感がすごかった。ひゅーん、と駆け抜けていった感じ。この衝撃は、なかなかないですねえ。
 
この美人さんは何考えてるのでしょう。だいぶいっちゃってるんでしょうか。面白い。怖いけど、もうちょっと見てみたい。そう思いました。
 
 
 
このわたくし率イン歯ー、または世界にはもう一作、「感じる専門家 採用試験」という短編も収録されています。
 
また煽る題名やな。子なし主婦と妊婦さんの葛藤のぶつかり合いです。なんで子供を産むのか。なんでって……そんなん言われても、困るんやけど。
 
「子供が欲しいんやったら恵まれない子供を育てればええやん。なんで自分の子を欲しがるの?なにがしたいの?」
 
そんな事を訊いてくる主婦。……いやあ、それが生き物の本能なんちゃうん? 出来たから産む。そこに疑問を投げかけられても……。
 
このよーわからん疑問を「感度の鋭さの試験」と言われちゃうと。私って鈍感?って気がしちゃう。でもそーやろ。自分が産んだ子供以外を育てるのってハードル高いよ。
 
 
 
……そんな具合に「感度鋭すぎて生きていくのが大変そう」な川上未映子さん。面白い人ですねー。こんな感性になりたいとは思いません。色々大変そう。でも、はたから見てる分には面白い。
 
最近詩に興味があるんですよね。そこから川上さんの本を読んでみようと思ったんです。この人の詩集も読んでみたい。図書館で貸し出し中で借りれなかったのよね。それで読んでみた「わたくし率イン歯ー、または世界」。
 
いろんな人がおるねー。この先も色々見よっ。びっくりさせてもらいました。
 
ではではまたー!

猫が死にそうです……。

 

こんばんは、渋谷です。

 

 

 

去年の年末に死にかけた18歳の黒猫が、何とか持ち直し年を越したんですが、もういい加減ダメそうです。今日病院に連れてったんだけどね。

 

爪切ってもらっただけで「もうできることありません」って。

 

年末に連れて行った時も、注射は打ってもらったんだけど「もう寿命ですね」的なことは言われてたんです。そこから丸2か月以上持ったんだから、まあすごい頑張ったと言えば頑張った。

 

もうトイレをまたぐことができないので、段ボールで作った薄い箱に砂を敷いてます。ご飯はちゃおちゅーる一択。それでもまだ多少は食べれるのでね、欲しがるだけあげるんですが、でも長年猫飼いを続けてきた身からすると、持ってあと1週間って感じかなあ。

 

この子はうちで産まれて18年間暮らしてきた子なので、もう色々整理はついてるんですね。だからあとは安らかに逝ってもらうだけなんですが。

 

やっぱり命が消えていくのって悲しいですねえ。イエモンの「人生の終わり」を聴いている。あの子はここに生まれていい人生だったかな?幸せに死んでいけるかな?

 

命はいずれ消えるものなので。必要以上の感傷を抱く気はないのですが、とにかくいい最期を迎えられるようお世話をしてあげたいと思います。あんまり湿っぽくならないようにね。

 

さてそんなわけで今日の読書は村田沙耶香さんの「コンビニ人間」です。芥川賞受賞作ですね。

 

 

 

この村田沙耶香さんは私と同い年なんですね。1979年生まれ。芥川賞受賞のときに、「いまだにコンビニでバイトしてます」っていうのが話題になった人ですね。だから私、「コンビニ人間」執筆時には村田さんはまだ新人さんだと思っていたんですよ。今回調べてみて、大間違い。

 

2003年に群像新人文学賞の優秀賞を受賞してデビューされたんだそうです。そして野間文芸新人賞、三島由紀夫賞受賞されてたんだって。

 

それでも芥川賞受賞してもコンビニでバイトしていた村田さん。生活のためではなく、「執筆のリズムを作るため」なんだって。

 

深夜2時から執筆をはじめ、朝の8時から昼の1時まではコンビニでバイトしてたんだって。執筆のリズムを作り、そして人間観察をするために。

 

面白い人ですねー。そして「コンビニ人間」も本当に面白い作品でした。私の大好きな、「痛い子」が主人公のやつ。でもこの作品の主人公である恵子ちゃんは、私は全然知らないタイプの「痛い子」でした。おもろっ。村田さんの頭の中って、本当にどうなってるんだろう。

 

 

 

主人公の恵子ちゃんは36歳、大卒、処女でコンビニバイト歴18年です。人生の半分コンビニバイトをしています。

 

まあ変わった子で。子供のころ可愛い小鳥が死んじゃってみんな泣いてるのに、「お父さん焼き鳥好きだよね。これ食べよう」とかいいだしたり、ケンカしてるクラスの男児を止めようとして、二人の頭をスコップで強打しちゃったり。

 

いわゆるサイコパスってやつなんでしょうかね。私の周りにはこういう子っていなかったので、未知の人種です。もっと「悪意を持ってる悪人」ならいっぱいいましたが、「悪意のない悪人」(悪人って表現が正しいのかわかりませんが)って見たことない。恵子ちゃんはコンビニ店員としてコンビニの歯車の一部になって生きていくことで、やっとこの世に馴染んで生きていくことができるようになります。「コンビニ店員」というラベリングを経て、やっと自分に人格ができたと考えているんですね。

 

私も接客業を色々とやってきたので、その歯車になっていきいき振舞うことがいかに楽であるか、ということはよくわかります。妙に知恵をつけたり疑問を抱いたりせずに、マニュアル通りに振舞う。それで店はうまく回る。そういう風にマニュアルって出来てますからね。

 

恵子ちゃんはマニュアルに従い同僚から「人間っぽさ」を盗んで、なんとなく周りから浮かないように生きています。それで同じコンビニに18年。独身処女一人暮らし。周りからの「結婚しないの?」「なんでバイトなの?」と言われ続けて、自分はやっぱり不良品なのかと悩む。

 

怖いですよねー、社会的な「常識」を超えた時に周囲から投げかけられる異物を見るような目。大多数の人がしてるからって、それをしないと異端扱い。マイノリティに対する理解、なんて結局はうわべだけなのかもしれません。

 

その視線から逃れ社会に溶け込もうと、恵子ちゃんはこれっぽっちも好きじゃない自分によく似た、でももっとひどいこじらせ男を家に置いてしまいます。一番駄目なやつです。何かから逃げたくて選択したものって、結局自分をもっと何かから逃げたい状態に追いやるものです。恵子ちゃんも微妙におかしいとは思ってるんだ。その男はわかりやすい社会的落伍者。いい女はみんな狩猟能力の高い男が射止めてしまう。僕にはそんな能力ないのにずるいじゃん!なんだよもうわーんわーん!

 

その男は恵子ちゃんに乗っかってヒモになる気満々なんですね。目を覚ませ恵子ちゃん!でも説教されることの意味が理解できない恵子ちゃん!そうだね、誰も恵子ちゃんの人生をコントロールすることなんかできない!なんて、なんてロックな生き方なんだ恵子ちゃん!

 

ラストはぞっとするような清々しさが待っています。いいのか……?まあいいのか。恵子ちゃんはこれを望んでいるのか。ならまあいいか。人生なんて子供産みさえしなきゃ結局は自分のもんだ。誰に汚されるものでもない。やりたいようにやればよいではないか。

 

 

 

そんな恵子ちゃんの生き方、きっと村田さん自身の生き方を投影しているのでしょうね。面白いなあ。THE「変わり者」。世の中にはいろんな人がいる。もっとこの人の本が読みたい。

 

この村田さんが「コンビニ人間」の中で書かれている文体、私が今書いている話で「こう書きたい」と思っている文体そのものなんですよね。私も今一人称で冷静な女の子を書いているので、こういうシンプルで波のない文体で書きたい。かっこいいなと思いました。

 

村田沙耶香さん、これだけでなく色々読んでみたいと思った作家さんでした。

 

あ、もう12時過ぎちゃった。

 

ではまたっ!