恥辱とカタルシス -29ページ目

恥辱とカタルシス

作家志望、渋谷東子と申します。
よろしくお願いします。

TikTokてあれ、なんやの。

 

こんばんは、渋谷です。

 

 

 

今日ねー松山城の下に広がってる公園を散歩してたんですね。いわゆる「三の丸」にあたるところにただっぴろい芝生の公園があるんですよ。昔は競輪場とかがんセンターとかあったとこが、だーっと公園になっている。

 

そこを夕方歩いてると、なんかいろんな青春が見えて楽しいんですよね。あっちこっちで放課後の中学生だの高校生だの大学生だのが、ストレッチしたりキャッチボールしたり楽器演奏したり歌ってたり踊ってたりする。

 

その踊り組がね、ちょっと前まではいわゆる「ダンス部」とか。「ヒップホップ的なアレ」とか。たまに「山海塾?」とか。まだ理解の範疇だったんですけど、最近はよーわからん。多分TikTokに上げる動画をとってるのかなと思うんですけど。

 

すごい変な動きをするのね。誰かがスマホで撮りながら。美的でもなんでもなくよいよいする謎の動き。あれ撮ってるとこをはたから見てると、ほんと滑稽。みんな楽しそうにやってるんですけどね。でも制作過程は結構笑けるよ。

 

そんな話を夕食の場で話題にした。「なんかすごい変だったよー」と私が口にすると、そこでうちの未就学児が急に歌いだしたのよ。例のあの懐かしのメロディー、「め組のひと」。

 

怖え……。未就学児がラッツ&スター。倖田來未の方か?にしても、この違和感は何なんだ。

 

ちょっと異次元に入り込んだような恐怖感があるよ。知らない踊りがあっちでもこっちでも繰り広げられ。家に帰って現実に戻ろうとしたら家でもその続きが繰り広げられ。

 

なんか「世にも奇妙な物語」っぽい夕べでしたとさ。前置きが長くなりましたね。なんか言いたかったの。

 

桜庭一樹さんの「桜庭一樹短編集」を読みました。楽しかったー!

 

 

 

桜庭一樹さん、短編集になるといろんな魅力を見せてくださいました。この本は短編集で、収録作が

 

このたびはとんだことで

青年のための推理クラブ

モコ&猫

五月雨

冬の牡丹

赤い犬花

 

となっております。

 

 

 

 

ほんとに毛色の違う作品群で、これを同じ作家さんが書いたのかなと思う多才ぶりでした。「このたびはとんだことで」は写実的ブラックユーモアって感じでしょうか。すでに死んじゃった夫が骨壺の中から一人称で見えるものを描写していきます。線香をあげようとやってきたのは、不倫相手だけれど男がとうに飽きてしまった女、艶子。迎えうつのは本妻、千代子。

 

このふたりの攻防を、骨壺から主人公はただ見ることしかできません。荒唐無稽な争いは男の手の出せないところで繰り広げられます。うーん、男の浮気心って死んだのちも罪なものね。

 

「青年のための推理クラブ」はどちらかというと青少年向け。あっさりと読める短編で、「モコ&猫」も青春の瞬き、的なお話です。公園で特に主体なく集まってる若者たちも、頭の中では色々考えてんだろうなって想像するようなお話。若さの一瞬のきらめきですかね。「赤い犬花」は少年が主人公の冷たく熱い冒険譚。ちょっとしたミステリー的要素と、スタンドバイミー的な郷愁に惹きつけられます。さすが桜庭さん、すてきだなあと思います。

 

でも、一番私好みだったのは「冬の牡丹」かな。

 

 

 

牡丹ちゃんはとっても美人な32歳の派遣社員。お父さんの期待に沿ってずっと優等生でやってきて、でも27歳にして立派な上場企業からリタイアしちゃいます。そこから派遣の日々。妹が離婚して子連れで実家に帰ってきちゃったものだから、「河合荘」みたいな安普請のアパートで独り暮らしを始めることになりました。でも両親の束縛から離れることができてせいせいしています。この牡丹ちゃんのキャラが、すっごくいい。

 

嫌な考え方ですが、学生時代って、「一軍」「二軍」「三軍」みたいに厳然としたヒエラルキーがあるじゃないですか。一軍はリア充、二軍は半リア充、三軍は非リア充。その外に欄外の子がいて。牡丹ちゃんは賢いので、おそらく二軍と三軍の間ってところですかね。でも私の記憶では、この下層の子たちの中に、すごい変わった子がいた記憶があるんだよなあ。

 

ちなみに私は「欄外」の子でした。まず集団に馴染まんしね。高校に行くとなかなか現れない珍獣になりますが。そういった立場から見て、牡丹ちゃんという子はとても面白い子です。

 

目立とうとしないので三軍かと思いきや、まったく卑屈さがないのよね。自分を持ってるから一軍の子とも堂々と話せる。三軍に馴染みながらも自分は「何軍」なんてヒエラルキーの序列に分けられているなんて微塵も考えない。美人だからこその自信かな。面白い。私が知ってるこんな子は、遠慮と自己顕示欲を両方持っていて、ぼそっとすごい笑えることを言ったりするような子でした。なんかヒエラルキーなんか超えてるような、人間として興味深い子だった。それがこの主人公牡丹ちゃんで、彼女が出会うボロアパートの隣人慎さんもまた魅力的なんですよ。

 

古い猫の毛皮みたいな匂いがする60代後半ぐらいの老人。少年と青年の間から成長しきってないような軽さを持った老人です。ボロアパートの一室に酔いつぶれた牡丹ちゃんを保護します。でも手は出さない。部屋には外国文学の山のような単行本。「趣味に生きようと思ったら、荷物は多くなくていい」という言葉通り、何にもない質素な部屋で日々を淡々と過ごす慎さん。実はこのアパートの大家さんでお金持ちです。だからこその余裕。いいなあ、かっこいいなあ……。

 

二人が出会い、牡丹ちゃんには現実がのしかかります。婚活。身軽に責任なく生きていくことへの罪悪感。結婚て結局しなきゃいけないわけ?シングルで出戻った妹に「姉ちゃんを越えたくなんかなかった」なんて言われたりして。いつ越えられたよ。結婚して子供産むってそんなに偉いことなのかよ。

 

牡丹ちゃんの現実に即した悩みと、霞食って生きてそうな慎さんの身軽で、ある意味軽薄な生き方。でろでろに酔っぱらって愚痴る牡丹ちゃんの首を、慎さんはそっと絞めたりします。死んでもいいやぐらいに思ってた牡丹ちゃんも、やっぱり「締めないで」って言っちゃう。二人は交わりそうで交わらない。でもおんなじ人種を見つけた安心感をもってお話は終わります。変わった感覚を持つと、人間って孤独になるね。

 

流行ってるものの濁流に乗れずに遠巻きに見ている人間の孤独。良いとされるものの良さがわかんない人間の孤独。でも同じ感覚の人間を見つけた時の安心感って果てしないんでしょう。わかる。冒頭に書いたTikTokが繋がったぞ。

 

なんかこういう「異端者への慈しみ」みたいなものが桜庭一樹さんの書かれるものにはあるんでしょうかねえ。私毎回ズキューンとしちゃいます。やっぱり、好きだなあ。

 

 

 

ああ、長くなっちゃった。楽しかったです。もう寝なきゃ。

 

というわけで、おやすみなさい!

うーん、勉強になりました。

 

こんばんは、渋谷です。

 

 

 

小説指南書を読んでみましたよー。記念すべき40冊目の読書感想文です。

 

2月最後の日に40冊目の読書感想文。ということは、単純計算すると1年で240冊読むことになりますかね。良いことだ。とても良いことだ。

 

で、40冊目はほんとは桜庭一樹さんの短編集にしようと思ってたんですね。実際に途中まで読んでたんです。その名も「桜庭一樹短編集」。最後の中編を残して大体読んでたんですが、なんか今日夕方子供の友達が家に来てね。

 

子供の個室でいい子で遊んでるんですが、なんか気になるじゃん。おやつ出しに行ったり。ケンカしてないかドアの前で立ち聞きしたり。だから小説も書けないし桜庭さんの本も読めなかった。

 

書いてる小説が今佳境に至っているんだー。原稿用紙で170枚で佳境が来てしまった。多分250枚ぐらいで終わるであろう。思ったより短かったなあ。でも簡潔に言いたいことが書けているので今回はかなり満足のいく出来です。まあこれからどんでん返しを書くので、そこが上手くいくのかが重要なんですが。

 

なんかあんまり読者におもねらない仕上がりになりそうです。そりゃもう桜庭一樹さんの影響。私が書きたい世界を書く。「わかってくださいよ。私はこう言いたいんですよ。面白いでしょ?ね、面白いでしょ?」みたいなのをやめました。それでうまくいってるのかはわからないんですが。

 

私周りに書いた小説読んでもらえるような人がいないんですよね。作家になりたいことを公言してるのは夫だけ。しかも読ませたことは一度もありません。夫は本を読む人なんですが読ませられん。だってエロいし。こんなん嫁が書いとると思ったらきっと辛かろう。

 

今回も元気いっぱいエロくてグロいのです。だから子供の友達がいるようなときには書けない。そこで読んでみた高橋源一郎さんの「超「小説」講座」。ちょっと小説指南書とは言い難い本でしたが、得るものはたくさんありました。面白かったです。

 

これから新人賞に送っていく上での、テクニックというより「情熱」を教えてくれた本でした。だから、テクニックを知りたい人にはあんまり向かないのかなあ。

 

 

 

高橋源一郎さんと言えば、私の中では「コバルトの選考委員してた人」のイメージです。私がコバルトに出してた頃に選考委員なさってたんですよね。今野緒雪さんなんかがデビューされたあたりです。実は、私は高橋源一郎さんの著作を読んだことが一度もありません。

 

ですが、図書館で小説指南書の棚を見ているうちに、高橋源一郎さんの本をたくさん見かけまして。「ああ、あのコバルトの人か。読んでみよっかな」と思って借りてみて大正解。

 

この方、「新人賞の何たるか」を教えてくださる方なんですね。「選考委員はここを見ています」を教えてくださっています。以前書いた、齋藤とみたかさんは「一次選考を突破する方法」を教えてくださっていましたが。

 

高橋さんが指南してくださるのは「最終選考を突破するのはどういう作品か」。要はレベルが高い。「当然できて当たり前の『イロハ』は越えてから挑んできてくださいね」という厳しさもあります。その上でおっしゃっているのが、「選考委員はみんな新人作家を温かく迎えたいと思っている。作家というギルドに新たに仲間入りする新人を、切り捨てるのではなく良いところを拾って迎えようとしている」という姿勢。

 

「新人の芽は早いうちに摘んでやろう」なんて考える選考委員は一人もいないんだってさ。これは下読みをなさっている齋藤とみたかさんもおっしゃっていました。選考委員はその作品を繰り返し繰り返し読む。いいところを見つけ出して何とかギルドの仲間入りをさせてやろうとする。うーん、先駆者の責任ですね。

 

「選考委員は小説の出来の先、その作家の可能性を読んでいる」という言葉も興味深かった。結局新人には完ぺきな作品なんて書けやしない。だからこそ、その作品で「書きたかったけれど書けなかったもの」「その作家が書こうとしたもののスケール、可能性」を読むんだそうです。要は、技巧に走って小さくまとまった作品は目を引かないってことだよね。不完全でもいいからその作家がどれだけのものに挑めるか。自分の中にある世界観をどれだけ発揮できるか。

 

なんか心強いなって思いました。私自身、情熱しかないような人間なので。書きたいことにはあふれているんですが技巧なんてこれっぽっちもない人間なので。でも、「イロハ」は越えないとただの独りよがりになることも事実なんですよね。これは私、ネット小説の世界をつぶさに見て実感するところでもありました。

 

自分の中で完結してしまっているアマチュア作家さんって、結構多かった。もちろん趣味の延長で書かれている方はそれで完成形なんだと思います。私も決して独りよがりを脱しているなんて言えませんが。でも人の作品を見るとよくわかる。「この人、自分の世界から出てくる気ないんだろうなあ」って。

 

そのあたりを高橋さんは「ただ小説を書くだけでなく、自分の小説を読む目、そして批評する目を持つこと」とおっしゃっていました。確かになあ。推敲するところまでなら「読む目」があれば何とかできるけど、その先、「批評する目」を持つってかなり難しい。他と比べないと批評なんてできない。それをするには、やはりほかの作家さんの作品を読むこと。「比べる目」を持つことが大切なんでしょうね。

 

批評した上で自分の作品の立ち位置を探っていく。目指す立ち位置に到達する作品を書く。そこまでして初めて最終選考から名のある賞を受賞することができる。……うーん、山の峰は高いなあ。でも、目指す峰はもっと遠い。この本の後半は、高橋源一郎さんが2000年以降に選考委員をした文学賞の選評が載せられているんですが。

 

群像新人文学賞とか、すばる文学賞、文藝賞に我がホームグラウンド松山市主催の坊っちゃん文学賞など、高橋さんが選考委員を務められた新人賞の詳細が記されている。そこには多数の「新人作家」の受賞作品の選評が載っている。どれも面白そう。なのに、作者のプロフィールを見てみるとですね。

 

受賞作イコール代表作の方が大半なんですね。その先、作品を多数発表して、三島由紀夫賞とか吉川英治文学賞とかに発展する人なんてひと握り。芥川賞までいく人なんて多分一人しかいなかった。二人だったかな?なんせ少数。これが、「5年後に生き残ってる作家は5%説」なんでしょうか。

 

私は新人賞を受賞して作家になりたいのですが、一冊だけ、一作だけなんて嫌なんですよね。たくさんお話が書きたい。きっと新人賞に応募する人はみんなそう思ってる。でもこの現状。なるほど、なかなかに苦しそうです。でもまあ、宝くじも「当たるか当たらないかの二択」でしかないんですよね。

 

「米俵の中の一粒の可能性」と思っている人にはきっと一生当たらない。「当たるか当たらないかの二択」と考えていれば確率は二分の一だ。新人賞だって一緒。「受かるか受からないかの二択」。二分の一なら、きっとそのうち当たるはずでしょう?

 

前向きに生きていくって大事。あきらめるのは簡単。まあ駄目だと思ったら簡単にあきらめますけど。出来ることをやったほうが効率がいい。でも小説って、私にとって「出来るか出来ないかわかんないけどやりたいこと」なんだよなあ。

 

 

 

そんなもんで、まあ今後とも頑張っていこうと思いました。高橋源一郎さん。著作もぜひ読んでみようと思います。この方も、大沢在昌さんと同じく3回目の応募で新人賞受賞されたんだそうです。

 

やっぱ短期決戦で情熱を塗り込んでやるべきですね。ぬりぬり。もう私3回目なんか軽く越えてるけどね。まあ頑張る。まあまあ頑張る。

 

というわけで論理的に情熱の燃やし方を指南してくださった高橋源一郎さん。

 

面白かったです!ではまたー。

うんうん、やっぱり私この人好きー。

 

こんにちは、渋谷です。

 

 

 

田中慎弥さんの「図書準備室」を読みましたよ。芥川賞獲ったときに「もらっといてやる」発言が物議をかもした田中慎弥さんですね。

 

こないだ「切れた鎖」という短編集を読んでとても良かったんです。それで今回は「図書準備室」。

 

こちらは中編2篇が収められていて、表題作の「図書準備室」は芥川賞候補作、「冷たい水の羊」は新潮新人賞受賞作です。「冷たい水の羊」が田中さんのデビュー作、「図書準備室」は2作目ということになっています。

 

いやー、暗い。暗くてエグい。嫌いな人は間違いなく嫌いなやつです。人間の嫌なところを嫌ってほど見せつけられます。読後はもれなく嫌な気持ちになります。でも目を逸らすことができない真実がそこにあるような気がしてしまうんだよなあ。私、暗い話を書くのが大好きなんですが、思えば田中さんが書くこんな世界を表現したいと思っているのかもしれません。嫌だなあ嫌だなあと思いつつ、そうなんだよなあ私にもそういうところがあるんだよなあと納得させられて、自分の心の中にこっそり隠していたものが顕わにされてしまう逃げようのない快感。いい。田中慎弥、好きだ。

 

 

 

 

表題作の「図書準備室」は、30越えて仕事もせずに引きこもってる男が主人公です。だからまあ、田中さん自身が主人公なんですね。

 

田中さんは高校出て以来作家としてデビューするまで、10何年ずーっと引きこもっていたというつわものです。シングルで育ててくれたお母さんにおんぶにだっこでバイトすらしたことがないんだそうです。……すごいよね。メンタル面で言えば逆に最強だ。

 

「図書準備室」は、そんな主人公が引きこもりになってしまった理由を、落語家よろしく滔々と話しつくす物語です。話の内容は暗く面倒くさくて、その上改行がほぼないのでページは真っ黒なんですが、語り口は軽妙なのでするすると読めます。

 

主人公は小学生のころから通学路に現れる「世捨て人」を恐れていました。身長は2メートル近く。古く粗末だけれど清潔な家から出てきて、登校する主人公を独特の目でじろっとねめつけるんですね。まあ近所にいましたよね昔から。なんか目を合わせちゃいけない人。母親が「あの人が来たらさっと逃げなさい」とかいう人。「世捨て人」もそういうタイプかと思いきや、主人公が中学生になってみて判明するんですが、「世捨て人」は中学の国語教師なんです。何のことはない、公務員です。

 

最初の印象が悪く「世捨て人」を避けていた主人公は、吉岡というその教師に挨拶をすることができません。毎朝通学路で会うんですけどね。今まで挨拶してなかったのに、先生だってわかったからって急ににやにや挨拶するなんておかしいじゃないかと思っちゃうんです。めんどいですね。めんどい思考の持ち主なんです。

 

そのめんどさがぐるぐる回って、少年は吉岡を憎み始めます。そして、戦時中に吉岡が犯したらしい罪をうわさで聞きつけ、それを吉岡に突きつけへこましてやろうと考えます。別に勝ちたいわけじゃありません。吉岡がその罪について言い訳している間は、「どうしてお前は朝俺に会った時に『先生おはようございます』と挨拶しないのだ」と言い出さないだろうと考えたんです。ほらめんどい。しゃんしゃん挨拶すればいいんですよ。減るもんじゃなし。でもそういう合理性がこの主人公には皆無なんですね。そうやってこじれにこじれて、「僕は30過ぎてもふらふらしているわけです」と主人公の講釈は終わります。この後、最後のオチが良かったんだよなあ。

 

人生から逃げ続けている自分を心底では恥じているのだろう主人公の、開き直りと後悔。めんどい男。でも、嫌いじゃないわー。

 

 

 

「冷たい水の羊」は中学生男子が主人公。もうこっちもこじれてめんどい主人公が、クラスメイトにいじめられまくる話です。

 

いいとこのお坊ちゃん真夫は、クラスのイケメン北上くん一派にひどい目にいじめられています。詳細な描写があるんですが結構ひどいです。殴られるとかカツアゲされるとかいうオーソドックスないじめじゃなくて、パンツ脱がせてどうこうみたいな陰湿なやつです。なのに真夫は独自の理論をもってして自分の心を守ります。

 

「いじめられっ子がいじめられていると感じた時にいじめは生まれる。だから『いじめられている』と思いさえしなければそこにいじめは発生していない。僕は認めないから、いじめられてなんかいない」

 

……ええー。そこ認めんの? いじめられていないんだから抵抗しない、助けを求めないと決めてしまった真夫は、クラスの女子水原さんが出してくれる助け舟に絶対に乗ろうとしません。先生も心配してくれるのに突っぱねてしまいます。それでどんどんいじめはエスカレート。もう読むのもつらい描写が続きます。

 

私、人生でいじめられた経験がないのよね。だからいじめがどういうものだか心底ではわかってません。いじめたこともないし。大人になってから女同士の本気のファイトとかはあったけど、基本平和主義者なのでいじめも喧嘩もしない。

 

だからいじめられっこの心理がわからないんだけど、真夫くんみたいに自己完結しちゃったら助けようがないじゃんね。「いじめられてない」っていうんだから「ああそう?」としかこっちは言えん。学校休まんし。SOSを出す気が皆無。

 

なのに自分内でどんどんねじれていって、ゆがんだ性欲とともになぜか真夫くんの狂気は水原さんに向かってしまいます。強姦して殺して自殺するんだって。そこまでの度胸があるんなら北上たちにぶつけなさいよ。でも真夫くんはなぜか北上くんからの暴力を甘美なものとして受け入れ、北上くんも真夫くんへの暴力をちょっと性的なものと混同して考えてしまっています。中2男子ってこうなの?いろんな欲求が出口を失って醗酵して臭気を放っている感じです。そしてとうとう包丁を手にし、水原さんちに向かってしまう真夫くん。

 

ああ、どうなるんだ!と思っていたら待っていたのは意外な結末。ぼかした書き方をしているので結末ははっきりしないのですが、これは明るいラストと考えていいんだと思う。読みようによってはそのあと最悪の事態が起きたともとれるんだけど。私は明るいラストなんだと思いたい。

 

 

 

ああ、長々と書いちゃった。田中慎弥さん、面白い作家さんです。この二つの作品には「性的なリンチを受ける男の子」が両方に登場しました。もしかしたら、それは田中さんの身に降りかかった経験なのかな。

 

それはとてもつらい経験です。「冷たい水の羊」は構想から10年かけて書き上げた作品なんだそうです。つらい経験も作品として昇華して今現在作家として活躍されてる田中さん。

 

うーん、私この人好き。ほかの本も読も。いちいちめんどいこの感じが癖になってきた。めんどいの渦に巻かれるのが快感になってきた。

 

というわけで、またっ!

あーなんかわかるようなわからんような……。

 

こんばんは、渋谷です。

 

 

 

今日も今日とて本を読みましたよ。村上春樹さんの「風の歌を聴け」です。

 

村上さんのデビュー作ですね。私、村上春樹さんって多分2冊ぐらいしか読んでないような気がするのよ。

 

高校ぐらいのときに流行に乗って読んでみて、「……んー、なんか合わない」と思って以来手付かずになっているような気がする。ほぼ食わず嫌いに近い。何を読んだんだったかなあ。「ノルウェイの森」だったような気もするけど、もう記憶にない。

 

毎年毎年「今年こそノーベル文学賞か⁉」って騒がれてるのにね。読まぬわけにはいくまい。というわけで、デビュー作から読んでみることにしたんです。村上春樹さん。出版順というわけにはいかないかもしれませんが。

 

それで「風の歌を聴け」。1979年の作品だそうで、私が生まれた年ですよ。40年前。けれど今読んでもとても魅力的な文章でした。

 

あ、その前にこんなにファンが多くてあまりに高名な作家さんについて、私なんかがあれこれ書くのにも若干ビビってるんですが。

 

でもまあ書きます。私が思う私の感想文。ここはそれを書く場所なので、何を書いても許される場所のはず。ということで。

 

 

 

主人公は神戸の山の手に実家がある金持ちの息子。東京の大学に通ってますが、夏休みで実家に帰省してます。このお坊ちゃんの夏の記録なんですね。

 

お坊ちゃんは40年前の大学生なのに車を与えられてて、バーで相棒の「鼠」という男とビールばっか飲んで過ごしてます。いわゆる「鼠先輩」ですね。鼠先輩と何人かの女の子と主人公のけだるい夏。特段何が起こるという話ではありません。主人公は今までに3人の女の子を抱いていて、3人目の女の子は付き合ってる最中に自殺してしまいます。でもそれを悔いて悔いて、みたいな熱を持ってるわけでもない。その夏に出会った手の指を1本失った女の子との恋愛に熱くなるわけでもない。

 

貧乏沼から這い出してきた人間からすると、「何ぬるいことぼんやり呟いとんねん兄ちゃん!」的な、鼻につく青年の青春日記なんですね。だから昔の私は村上春樹さんを合わないと感じたんでしょう。必要なものは何でも与えられてきた人間の、傲慢にも近い憂鬱が青年の周りには満ち満ちています。

 

でも、その「有閑マダムの青年版」みたいな主人公が、鬱々とひと夏を過ごす姿が、淡々と書き連ねられる文章があまりに美しい。この作品は村上春樹さんの処女作なんだそうですが、それでこんなきれいな文章が書けるってすごいなあ。全編が詩。言い回しは外国文学の翻訳を読んでいるかのよう。実際村上春樹さんは翻訳も多数手がけられていますから、昔っから外国文学に親しんでいたんでしょうね。

 

実際この作品は冒頭から「デレク・ハートフィールド」という作家への讃辞から始まっているようなところもあります。外国文学、お好きだったんでしょうね。実際にはこの「デレク・ハートフィールド」なる作家は実在しないそうなんですが。たくさんの本を読み音楽を聴いてこられたんだろうなというのが、よくわかる文化の匂いにあふれた小説です。40年前にこのオシャレ風が吹いたら、若者たちは夢中になっただろうなあ。それは何となく想像はつく。

 

しかしね、私の感想を書くと、なんか虚構だなあと思う。この主人公自体が。この主人公を描いた作品自体が。恵まれた人生をぼんやり過ごして最終的には結婚して、何となく過去を振り返っていニヒルな気分になっている主人公。

 

文学にはいろんな形があって、いろんな人が読んでいろんな感想を持つ。それはよく分かったので、この作品も一つの文学なんだなって思うけど、私には重みを感じなかったな。あれこれ伏線も含蓄もありましたけどね。でも私が欲しいのはもっと重くてしんどいやつなんだ。軽いものに意味がないと思ってるわけじゃないけど。

 

多分ほんと、焦点置く場所の違いなんだよな。私ははっきり言って恵まれたうえでそれに疑問を持つような人間が嫌いだ。「金持ちに生まれたことを辛く思う」とか君はアホかねと思う。そこになんのカタルシスがあるんだ。ほんとけだるさがだるくなってくる。これが好みってやつなんでしょうか。

 

 

 

でも、文章の綺麗さと奥深さには特筆すべきものがあった。これを追ってみたいなと思った。相変わらず地に足のついてない青年の世迷いごとにイラつかされたりするのかしらとは思いつつ。

 

あと面白かったのが「エア・コン」やね。「チーズ・クラッカー」「ジンジャー・エール」「ビーチ・タオル」

 

その点なんやねーん!!

 

細々外来語が「・」で挟まれるのよ。読みにくっ!でもこれが当時はオシャレだったんだろうなあ。

 

多分同じクラスにいても仲良くなりはしないタイプだっただろう村上春樹さん。

 

この先も追っかけしたいと思います。知らない男を知るのだ。それはきっとスリリングなことに違いない。

 

次はめんどい男、田中慎弥さんを読みたいと思います。私、村上春樹より田中慎弥派だわ。きっと少数派。

 

読書って色々あって面白いね!

 

ではでは、おやすみなさい!

 

 

パソコン買ったった。

 

こんばんは、渋谷です。

 

 

 

つい先日、10回目の結婚記念日だったんですよね。結婚記念日。10回目。結構な大事件だと思いません?

 

私はそう思っていたんですよね。だからなんかイベントにしようと思ったんですが、ふと思った。「毎年毎年祝ってんの、私ばっかりじゃね?『結婚してください』って言ってきたの、あっちじゃね?」

 

そこで今年はだんまりを決め込んでみました。近づく記念日。けれど何も言わない夫。どうなるのかと手に汗握る数日が過ぎました。そしてやってきた当日。私、一応チョコケーキ買ってお家で待機していました。

 

するってーと夕方電話をかけてきた夫。こんなことを言うんですよ。

 

「忘れてたけど今日記念日だねー。なんか買って帰ろっか」

 

……スーパーの半額の刺身程度でごまかそうとしていることは明白です。なんという横暴。傲慢。まあ家庭のお金は私が全額握ってますので、ダイヤモンド買って来いなんてことは言いません。しかし、半額の刺身でごまかされていいものだろうか。否、私の10年間はそんななし崩しで済まされていいはずがない。それなりのお小遣いも渡していますしね。

 

そこで、「ご飯はもうできてるからー。ケーキも買ってあるよ。だから何にもいらない」

 

スルーしてやったぜ。大体「忘れてた」って何なんだ。何考えてるんだ。照れ隠しにしたってあんまりじゃあないか。振っても振っても食らいついてきて結果結婚することになったんだぜ。釣った魚も10年たったらこの扱いか。怒る私。でもひねくれているので、目の前で怒ってなんかやりません。

 

 

 

そして数日経過した今日、「私ね、欲しいものがあるんだー」からのパソコン屋訪問からのノートパソコンゲットです。デスクトップを使ってたんですが、ノートが欲しかったのよね。寝室でも使えるから。寝室ではスマホで小説書いてたんですが、やっぱりパソコンが書きやすい。

 

あわせてスピーカーも買ってやった。これでSpotify生活もなお快適だ。夫のお小遣いから買ったわけではありませんが、私専用のものをこうまでがっつり買うのは気が引けていたので、いいタイミングでした。専業主婦なので自分のものってなかなか買いづらいんです。でも、10年目の結婚記念日になんもなしだったんだから許されるでしょう。

 

刺身に釣られなくて良かった……。新しいパソコンでこれを書きながらしみじみと喜びに浸っています。だいたいうちの夫、イベントとか記念日とか一切考えない人間なんだよね。

 

誕生日とかはやってくれますけど。私だって記念日記念日言うめんどい女ってわけじゃないんですけど。でも10年目の結婚記念日に「忘れてた」って。夫より私が先に死ぬなら病床で繰り返し繰り返し言ってやる。それぐらいやったって許されるはずだ。ねえ、そう思いません?

 

まあ新しいパソコンゲットできたので結果オーライです。これでどこででも小説が書ける。うん、これで良しとしよう。

 

 

 

そんなわけで未然に夫婦げんかが回避できたというお話でした。

 

ではまたっ!