3)天武天皇が国史(天武天皇の考えていた日本書紀)に編纂したかった主題は何?
40代天武天皇は、アメノタリシヒコの国史が存在したことを少しは知っていて、
現存していないことを残念に思い、改めて国史(日本書紀)を編纂しようとしたのだと思います。(まったく知らなかったのかもしれません・・・?)
むだなふたり(672年)の壬申(じんしん)の乱
百済救済を考えていた天智天皇政権への否定です!!
どちらかというと天武天皇は新羅支援の出雲一族(蘇我氏)寄り政治志向と言われています。
天智天皇と大海人皇子は、合わなかったのでしょう。
ついに672年、天智天皇崩御(日本書紀では病死)を機に、40代天武天皇(当時は大海人(おおあま)皇子)、と38代天智天皇の息子大友皇子(即位していたかどうか怪しい39代弘文天皇)との間で皇位をめぐる古代史最大の内戦が始まります。
日本書紀には39代弘文天皇(諡号は明治時代)が即位していたとは記載されていません。もし大友皇子が即位していたら、大海人皇子の行為は反逆罪になるので、日本書紀は書けなかったのだろうと思います。
この戦いを制した大海人皇子は即位し、晴れて「天武天皇」が誕生します。
このシリーズの中で34代舒明天皇~40代天武天皇の話で、『蘇我馬子の陰謀https://ameblo.jp/totoro-ojisan/theme-10091035380.html』で妄想しましたように、
天武天皇については、謎がありました。
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本当に天皇家の血縁者か?(蘇我氏と思われる高向王が父親である漢皇子説)
まあ、この話を言い出すと、34代舒明天皇、35代皇極天皇(37代斉明天皇)、36代孝徳天皇も、男性天皇からの血縁はありませんので、異常な皇位継承とはなっていますが・・・・。
話の蒸し返しになるので止めますが、押坂彦人大兄皇子(おしさかひこひとおおえのみこ)=蘇我馬子、その子供の茅淳王(ちぬおう)=蘇我蝦夷がもし即位していれば、上記34代舒明天皇~37代斉明天皇の皇位継承は問題なくなりますが・・・。
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本当に天智天皇の弟か?(天武天皇が編纂を命じたのに、肝心の天武天皇の生年、年齢がわからない。)
等々
この異常な皇位継承の末に誕生した天武天皇なので、自分の正統性の証明はどうしても必要と感じたのでしょう!!
少し脱線します。
天智天皇の『天智』は『てんじ』と読みます。『てんち』ではありません。
昔の中国の「殷」の時代に「紂王(ちゅうおう)」という王様がいました。
暴虐を働いた王様と位置付けられています。
この紂王を自殺に追い込んだのが、後に「周」を建てた「武王」です。
紂王がいつも身に着け占いを行っていたのが『天智(てんじ)玉』です。
『天智天皇』、『天武天皇』という諡号は、奈良時代の「淡海の三船(おうみのみふね)」が、上記中国の逸話を知っていて、天智天皇と天武天皇に贈ったといわれています。
この諡号を見ると、日本書紀が記していない天智天皇の死の原因があるのかもしれません。(殷の紂王は周の武王に自殺に追い込まれた。)
(今回のテーマではないのでこの話は省略。)
話を戻して、
天武天皇の即位に関しては、上記でも示しましたように、謎が残っています。
逆に言えば、疑問視する人たちもいたのかもしれません。
特に壬申の乱で、天智天皇が譲位しようと周りにも伝えていたと思われる大友皇子(39代弘文天皇)を、武力で葬ったことについては、大きな疑問符がついていたと思われます。
天武天皇は自分の正統性を証明しようとして、周りの状況を落ち着かせるためにも、改めて国史が必要と感じ、国史編纂に取り組んだのでしょう。
アメノタリシヒコの国史が、『出雲一族から天皇家への禅譲』であったなら、天武天皇の皇位奪取は、天智天皇から、より徳のある天武天皇への王位継承(禅譲ではないが『放伐(ほうばつ)』(注)であったと記録に残したかったのだと思います。
(注)放伐 : 放伐(ほうばつ)とは、中国史において、次の天子となるべき有徳の諸侯などが、無道な暴君や暗君を天下のために、討伐して都から追放するという行為である。(wikipedia)
40代天武天皇は、日本書紀と併せて、古事記編纂までを編纂しようとしたのではなかったのだと思います。古事記編纂の目的、世に現れた形についてすでに述べましたので、ここでは省略します。
アメノタリシヒコの国史(古事記)と時代は違いますが、自分たちの正統性の証明であったことは同じ目的だったのだろうと思います。
(つづく)