seko-yaブログ

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へそ曲がりが始めた『学校で教わらなかった日本の歴史』です。
 日本の歴史を、見方を変えて解釈すると、かえって昔の人達が生き生きとして見えてきます。
他に特定地域の歴史等色々な情報をご紹介していこうと思います。

  新幹線で大阪~横浜へ移動するたびに、思いつくまま古代史についてfacebookに投稿を始めた『新幹線古代史講座』を、改めて整理して『学校で教わらなかった日本の歴史』としてまとめてみました。

  日本の歴史を見方を変えて解釈し直してみると、昔の人々が生き生きとして見えて来ることに気づきました。

  定説にはなっていない話ばかりですが、面白い解釈をされる学者、作家、そして素人ながらの私の推理も交え紹介したいと思います

  少し立ち寄って行かれませんか?
原稿作成時期が前後しているため、一気通貫して読むと話が前後しているところはありますがお許しください。

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吉良上野介の吉良家は、元々足利幕府時代の名門で、江戸時代には「高家」と呼ばれ、徳川のお世継ぎが征夷大将軍に任命される際にも、朝廷と徳川幕府の間を取り持つ役割を担っていました。

徳川家からすれば吉良家の力を借りないと、朝廷と話ができない状態になっていたようです。

一方吉良家は、薩摩島津藩や、米沢上杉藩と姻戚関係を結んでいたようです。

徳川家にとっては、目障りな存在だったのかもしれません。

 

 赤穂事件(赤穂浪士の討ち入り)が終わった後、赤穂浪士は切腹になりますが、その後の吉良家についてはあまり話題になっていません。

 

 

 吉良上野介の実子で上杉家を継いだ綱憲は、父を救えなかったことを悔やみ1年後に悶死します。

 実孫で養嫡男の吉良佐兵衛(義周)も、赤穂事件の時、気絶するほど戦ったのに、徳川幕府から「上野介を守らなかった。」と信州へ流罪となり、3年後病死します。

 これにより吉良家は断絶したのです。

 

 赤穂事件には、大石内蔵助以下の忠義の話の裏に、吉良つぶしという裏のストーリーがあったのかもしれません。

江戸城松の廊下での刃傷沙汰事件の前、吉良上野介の屋敷は、江戸呉服橋付近にありました。(写真の赤〇あたり。)
現在の東京駅の北口の少し先あたりです。
 しかも吉良邸は、北町奉行所の隣だったといわれています。
 しかし、刃傷沙汰事件の後、吉良邸は、墨田川を超えた、本所松坂町へ引っ越しさせられます。(写真の赤̻▢あたり)
 赤穂浪士にしたら、北町奉行所の隣の屋敷には討ち入りにくい。
 江戸幕府としても、北町奉行所の隣の屋敷に討ち入りされたら、治安を守る側として格好がつかない。
 隅田川の向こうなら、ずぅ~と、討ち入りがしやすい。
江戸幕府が、まるで「赤穂浪士さんたち! どうぞ討ち入ってください!」と言わんがばかりに、吉良邸を引っ越しをさせたように見えます。
 
江戸時代の地図を見ると、江戸城は下の写真のように、半蔵門が真下に来るように「御城(写真では御丸)」の文字が描かれているというお話をしました。
 だから、東京駅側にある大手門ではなく、半蔵門が江戸城の正門ではないかという話をしました。
 しかも、半蔵門から下に伸びる甲州街道は、江戸時代の5街道の中で、唯一江戸城に直接到達している街道です。
他の東海道等4街道は、江戸の街の中の日本橋が起点です。
 半蔵門から、江戸城外堀にある四谷見附の間は、麹町や番町があり、大名屋敷があり、旗本、密偵等が多く住んでおり、江戸の町の中では、警備が一番厳しい街だったといわれています。
 しかし、忠臣蔵でおなじみの赤穂四十七士の内、16人が吉良邸に討ち入る前に、この半蔵門周辺に潜んでいたという話があります。
 まるで、江戸幕府が、16名の赤穂浪士をかくまっていたかのように見えます。
 
家康は、1590年江戸への移封以降、順次土木工事に着手します。
『利根川東遷』です!!
 利根川の流れを変え、河口を東京湾から、千葉県の銚子に移す工事です。
 代々の将軍は家康の遺言を守ったのでしょう、遂に1654年に利根川の水が銚子に向かって流れるようになりました。
最終的な完成は1800年頃と言われています。
 
 
 1590当時、利根川は渡良瀬川の西を流れ、東京湾に流れこんでいました。(オレンジ色の川が利根川です。)
そのため、利根川反乱による洪水に加え、防衛上の問題がありました。
 
 渡良瀬川と鬼怒川の間は東北地方と地続きであり、東北地方にいた、上杉景勝、伊達政宗らが南下して攻めて来ると、ここ(埼玉県幸手市の関宿(せきやど))を通って房総半島から江戸近郊まで入いって来られると、家康は気づいたのだと思います。
(紫の破線)
 
 防衛強化のため、利根川、渡良瀬川を合流させ、鬼怒川方面に流してやると、上杉、伊達の南下を止められます。(3枚目参照)
 家康は江戸を守るため、まず東北方面からの攻撃に対処するこの防衛対策をやりたかったのだと思います。
 そして利根川の流れ方を変えられたら、副産物として利根川が引き起こしていた洪水をなくし、農耕に適した乾いた土地の関東平野を拡大し、江戸の食料を供給できる農地を確保できると考えたのではないでしょうか?
 徳川幕府は、利根川の色々な所を開削しながら、ついに埼玉県幸手市の関宿の東を開削し、約60年かけて利根川の水を銚子方面に流す『利根川東遷』を実行しました。
 
5代将軍綱吉の時代にやっと開通させたのです。(その後もどんどん手を加え、工事は1800年頃まで続きました。)(4枚目)
 壮大なスケールの土木事業ですね!!
 
 
 
1590年、家康は秀吉から、関東(江戸)へ移封されます。
秀吉が危険な家康を、遠くの湿地帯へ放逐したとも、秀吉自身が江戸の価値を見抜き、家康にそれを託したとも言われています。
 江戸城を築いたとき、江戸城の北、東、南は湿地帯で、大阪城同様の難攻不落の城になっていたといわれています。
 この湿地帯を作っていたのが、当時東京湾に流れ込んでいた荒川、元荒川、利根川、渡良瀬川の4本の川でした。(小さい川は省略。)
 昔の隅田川は、何本の川を集めた川だったのでしょうか!?
そりゃ大雨になれば、溢れるわな!!
一方、関東平野は大きく、ここを農地として活用できれば安定的に食料を確保できます。
 江戸城防衛のための湿地帯と、食料(米)生産を可能にする乾いた農耕に適した大地、両方を望むことは矛盾に見えます。
 家康は、この矛盾をどう解決したのでしょうか!?
 ところでなぜ、家康は、『江戸』に幕府を開いたのでしょう!!??
1590年秀吉により江戸移封をされますが、
1600年関ケ原の戦いを制し、1603年征夷大将軍に任ぜられた後も、
1615年大坂夏の陣で豊臣秀頼を自害させた後も、
躊躇なく江戸に戻ります。
何故、岐阜や、三河や、駿府や、甲府や、小田原に幕府の拠点を求めようとしなかったのでしょう!??
 戦国武将たちを制するなら、もう少し京や大阪に近い方がよかっただろうにと思います。
大阪夏の陣(1615年)を制した後に、気になるのはこれ!
  家康の年齢!!
家康は、何歳でいつ亡くなったでしょう?
実は1616年、大坂夏の陣(1615年)の翌年なんです。享年74歳。
昔の人としては、大変な長生きです。
 すでに将軍職は1609年、大坂冬の陣(1614年)よりも前に、2代将軍秀忠に譲っています。
 1615年豊臣秀頼を自害に追い込んだ時、家康には、体力的に見ても、新たな築城や都市整備をする時間はもう残っていなかったのではないでしょうか? 限界だったのかもしれません!??
1590年以降、25年近く開発整備をしていた江戸を、家康は一番安全で将来性もある土地と判断したのではないかと思います。
 でも、何をしていけば、将来性があると判断したのでしょう!! とっても気になります。
(つづく)
ps.江戸城築城当時、江戸城にも天守閣がありました。
1657年の明暦の大火で焼けました。
その後、再建はされませんでした。
「戦さはない!」という意思表示だったのかも??
雨が続きますね。
最近、また面白い本を読みました。
そこには、江戸城の正門はどこ?と書かれていました。
一般には、東京駅側の大手門が正門と言われていますよね。
 しかしこの面白い本の作者は、「半蔵門」が本当の正門ではないかと言い始めるのです。
 この地図は、江戸時代の江戸城の地図です。
 昔の日本の地図は、北が上とは限っていませんでした。
だから、「御城」という字が正立しているから、この方向が正しいことになります。
ではこの「御城」に向かっていく道と門は?
 甲州街道(新宿通り)が右下からほぼ真っすぐに「御城」の一番下の部分に繋がっています。
そして、そこにある門が、「半蔵門」なんです。
 
 半蔵門に繋がる甲州街道(新宿通り)には、大名や旗本たちの住む麹町、番町があり、
 しかもこの甲州街道は、尾根道であり、江戸に雨が降って洪水になっても、水につかる心配のない道になっています。
 大阪城(元は石山本願寺)が、上町台地の北の端に築城され、北東西の三方が湿地帯で、難攻不落の城でした。
 家康は、江戸城築城に際し、甲州街道の東の端に江戸城を築き(初めに築城したのは太田道灌ですが)、その北、東、南は湿地のこの位置に大阪城に倣って難攻不落の江戸城を築いたのです。
 この半蔵門ですが、なんか変だと思いませんか?
普通、お城の門の前は、橋が架かっています。
敵が来た時には、焼き落とすか、跳ねあげるかするためです。
しかし半蔵門は違います。
半蔵門の前は、土手なんです。
 家康は、絶対に破られないと考えていたのでしょうか?
逆に、正門と思われている大手門と反対側にあり、脱出用門の機能も持っていたのかもしれない半蔵門ですから、ここに橋をかけ敵に壊されたら脱出できないので、土手にしたのかもしれません。
半蔵門から途中の四谷あたりは、大名や旗本たちも住み、密偵たちもたくさんおり、また甲州街道の新宿には鉄砲百人衆を置き、警備体制は完ぺきだったようです。
 前回もお伝えしましたが、半蔵門に続く甲州街道(新宿通り)は尾根道で洪水の心配もなく、徳川家にとっては万一の場合は、脱出する最重要路だったようです。

5.まとめ 

 

  1. 古事記と日本書紀がいずれも40代天武天皇の命で編纂されたように言われており、両書が、それぞれ意識的に違う目的を持っているように考えられていました。

     私自身、以前の妄想では、日本書記は歴代天皇の業績などを記した歴史書、古事記はその当時の八百万の神を拝む古い神道や、仏教に代わり、天照大神という一神を信仰する神道の正統性を記した神道のバイブルと考えていました。

     

     しかし、今回古事記は、本来アメノタリシヒコが隋に、『徳のある天皇家が治める進んだ国』であることをアピールしようとした国史であると妄想できました。

     

     だから、単純に編纂当時の33代推古天皇までが記載されているのです。

     

 (2)40代天武天皇が編纂を命じた日本書紀が、天武天皇の薨去(こうきょ)後、

41代持統天皇に引き継がれ、43代元明天皇、44代元正天皇の頃に完成

720年)し、41代持統天皇までの歴史が記載されています。

 一方、古事記は712年に完成したことになっていますが、実際は33代推古天皇(593~628)の頃に編纂され、その後追記されたかもしれないが、38代天智天皇(中大兄皇子)の時代に自分たちに不都合と抹殺された。

その後船史恵尺(ふねのおびと えさか)らの手で、33代推古天皇までは復元され、その後子孫の太安万侶(太安万侶)、多人長(おおのひとなが)らに引き継がれ、812年頃から次第に世に現れ始めたと妄想しました。

 

  1. 古事記を編纂したのは、稗田阿礼(ひえだのあれい)と太安万侶(おおのやすまろ)と言われていますが、これは嘘!!

     

     太安万侶の子孫、多人長(おおのひとなが)が、学者氏族の家に隠されていた『アメノタリシヒコの国史』を、812年頃に世に表し始めましたが、『日本書紀の前にあった国史』とは言えず、架空の人物 稗田阿礼と先祖の太安万侶を持ち出し、天武天皇の命で編纂したことにしたのだとごまかしたのだと思います。

     

    おわり

 

4.古事記編纂に携わった、稗田阿礼(ひえだのあれい)と、太安万侶(おおのやすまろ)とは誰なのでしょうか?

 

 後の世になり、40代天武天皇の命で2つの歴史書、『日本書紀』と『古事記』の編纂が始まったと考えられたため、記載期間の違い、重点記載内容の違いで、それぞれの目的を考えてしまいました。

 

 ここまで述べましたように、古事記(アメノタリシヒコの国史)が、600年頃編纂が始まり、645年乙巳の変で災難に合い、その後33代推古天皇までは復元されたけど、歴史の表舞台から隠され、812年(古事記が出来上がったとされている712年から100年後)に改めて世に現れたため、日本書紀とは似て非なる歴史書ができてしました。

 

 古事記は、アメノタリスヒコが編纂した「隋に対する「大和王権のアピール」であったのでが、歴史の大変動の中で埋もれ、100年後辺りから世に現れ始めた歴史書だったのです。

 

 812年頃になって、「600~607年頃(復元で700年頃)に作られていた日本の歴史書です!」とは言えないので、古事記、日本書紀の両方が、40代天武天皇の命で編纂されたことにしたのでしょう。

 

 そして、本来 船史恵尺(ふねのふみと えさか)らの手で編纂されていた(小説『蘇我の娘の古事記』より)のですが、すでに日本書紀が世に出てしまい100年近くもたった時代では、表立って「日本書記より前に存在してた国史です!」という事実も言えず、

 稗田阿礼(ひえだのあれい)という、よくわからない架空の人物が語ったことを、太安万侶(おおのやすまろ:多人長(おおのひとなが)の先祖)が書き取ったことにしたのでしょう。

 

それを江戸時代になり、本居宣長が、『古事記伝』を表しタことで、歴史の大舞台に出てきたのでしょう!!

日本書紀が国史編纂事業らしく、舎人(とねり)親王をリーダーにした多くの氏族が集まって編纂したのに比べ、稗田阿礼と太安万侶の二人が編纂したことになっている古事記は、

上記のような歴史の荒海の中で、歴史の中に隠れ、浮き上がり、重要歴史書に位置付けられ現在に至りました。

 

3)天武天皇が国史(天武天皇の考えていた日本書紀)に編纂したかった主題は何

 

   40代天武天皇は、アメノタリシヒコの国史が存在したことを少しは知っていて、

現存していないことを残念に思い、改めて国史(日本書紀)を編纂しようとしたのだと思います。(まったく知らなかったのかもしれません・・・?)

 

  むだなふたり(672年)の壬申(じんしん)の乱

 

  百済救済を考えていた天智天皇政権への否定です!!

 どちらかというと天武天皇は新羅支援の出雲一族(蘇我氏)寄り政治志向と言われています。

天智天皇と大海人皇子は、合わなかったのでしょう。

 

 

ついに672年、天智天皇崩御(日本書紀では病死)を機に、40代天武天皇(当時は大海人(おおあま)皇子)、と38代天智天皇の息子大友皇子(即位していたかどうか怪しい39代弘文天皇)との間で皇位をめぐる古代史最大の内戦が始まります。

 

日本書紀には39代弘文天皇(諡号は明治時代)が即位していたとは記載されていません。もし大友皇子が即位していたら、大海人皇子の行為は反逆罪になるので、日本書紀は書けなかったのだろうと思います。

 

この戦いを制した大海人皇子は即位し、晴れて「天武天皇」が誕生します。

 

このシリーズの中で34代舒明天皇~40代天武天皇の話で、『蘇我馬子の陰謀https://ameblo.jp/totoro-ojisan/theme-10091035380.html』で妄想しましたように、

天武天皇については、謎がありました。

  1. 本当に天皇家の血縁者か?(蘇我氏と思われる高向王が父親である漢皇子説)

     まあ、この話を言い出すと、34代舒明天皇、35代皇極天皇(37代斉明天皇)、36代孝徳天皇も、男性天皇からの血縁はありませんので、異常な皇位継承とはなっていますが・・・・。

     

     話の蒸し返しになるので止めますが、押坂彦人大兄皇子(おしさかひこひとおおえのみこ)=蘇我馬子、その子供の茅淳王(ちぬおう)=蘇我蝦夷がもし即位していれば、上記34代舒明天皇~37代斉明天皇の皇位継承は問題なくなりますが・・・。

 

  1. 本当に天智天皇の弟か?(天武天皇が編纂を命じたのに、肝心の天武天皇の生年、年齢がわからない。)

    等々

  

 この異常な皇位継承の末に誕生した天武天皇なので、自分の正統性の証明はどうしても必要と感じたのでしょう!!

 

 少し脱線します。

天智天皇の『天智』は『てんじ』と読みます。『てんち』ではありません。

 

 昔の中国の「殷」の時代に「紂王(ちゅうおう)」という王様がいました。

暴虐を働いた王様と位置付けられています。

この紂王を自殺に追い込んだのが、後に「周」を建てた「武王」です。

紂王がいつも身に着け占いを行っていたのが『天智(てんじ)玉』です。

 

『天智天皇』、『天武天皇』という諡号は、奈良時代の「淡海の三船(おうみのみふね)」が、上記中国の逸話を知っていて、天智天皇と天武天皇に贈ったといわれています。

この諡号を見ると、日本書紀が記していない天智天皇の死の原因があるのかもしれません。(殷の紂王は周の武王に自殺に追い込まれた。)

(今回のテーマではないのでこの話は省略。)

 

話を戻して、

天武天皇の即位に関しては、上記でも示しましたように、謎が残っています。

逆に言えば、疑問視する人たちもいたのかもしれません。

特に壬申の乱で、天智天皇が譲位しようと周りにも伝えていたと思われる大友皇子(39代弘文天皇)を、武力で葬ったことについては、大きな疑問符がついていたと思われます。

 

天武天皇は自分の正統性を証明しようとして、周りの状況を落ち着かせるためにも、改めて国史が必要と感じ、国史編纂に取り組んだのでしょう。

 

アメノタリシヒコの国史が、『出雲一族から天皇家への禅譲』であったなら、天武天皇の皇位奪取は、天智天皇から、より徳のある天武天皇への王位継承(禅譲ではないが『放伐(ほうばつ)』(注)であったと記録に残したかったのだと思います。

 

 ()放伐 : 放伐(ほうばつ)とは、中国史において、次の天子となるべき有徳の諸侯などが、無道な暴君暗君を天下のために、討伐して都から追放するという行為である。(wikipedia

 

40代天武天皇は、日本書紀と併せて、古事記編纂までを編纂しようとしたのではなかったのだと思います。古事記編纂の目的、世に現れた形についてすでに述べましたので、ここでは省略します。

 

 アメノタリシヒコの国史(古事記)と時代は違いますが、自分たちの正統性の証明であったことは同じ目的だったのだろうと思います。

(つづく)