討ち入り事件後の吉良家 | seko-yaブログ

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へそ曲がりが始めた『学校で教わらなかった日本の歴史』です。
 日本の歴史を、見方を変えて解釈すると、かえって昔の人達が生き生きとして見えてきます。
他に特定地域の歴史等色々な情報をご紹介していこうと思います。

吉良上野介の吉良家は、元々足利幕府時代の名門で、江戸時代には「高家」と呼ばれ、徳川のお世継ぎが征夷大将軍に任命される際にも、朝廷と徳川幕府の間を取り持つ役割を担っていました。

徳川家からすれば吉良家の力を借りないと、朝廷と話ができない状態になっていたようです。

一方吉良家は、薩摩島津藩や、米沢上杉藩と姻戚関係を結んでいたようです。

徳川家にとっては、目障りな存在だったのかもしれません。

 

 赤穂事件(赤穂浪士の討ち入り)が終わった後、赤穂浪士は切腹になりますが、その後の吉良家についてはあまり話題になっていません。

 

 

 吉良上野介の実子で上杉家を継いだ綱憲は、父を救えなかったことを悔やみ1年後に悶死します。

 実孫で養嫡男の吉良佐兵衛(義周)も、赤穂事件の時、気絶するほど戦ったのに、徳川幕府から「上野介を守らなかった。」と信州へ流罪となり、3年後病死します。

 これにより吉良家は断絶したのです。

 

 赤穂事件には、大石内蔵助以下の忠義の話の裏に、吉良つぶしという裏のストーリーがあったのかもしれません。