吉良上野介の吉良家は、元々足利幕府時代の名門で、江戸時代には「高家」と呼ばれ、徳川のお世継ぎが征夷大将軍に任命される際にも、朝廷と徳川幕府の間を取り持つ役割を担っていました。
徳川家からすれば吉良家の力を借りないと、朝廷と話ができない状態になっていたようです。
一方吉良家は、薩摩島津藩や、米沢上杉藩と姻戚関係を結んでいたようです。
徳川家にとっては、目障りな存在だったのかもしれません。
赤穂事件(赤穂浪士の討ち入り)が終わった後、赤穂浪士は切腹になりますが、その後の吉良家についてはあまり話題になっていません。
吉良上野介の実子で上杉家を継いだ綱憲は、父を救えなかったことを悔やみ1年後に悶死します。
実孫で養嫡男の吉良佐兵衛(義周)も、赤穂事件の時、気絶するほど戦ったのに、徳川幕府から「上野介を守らなかった。」と信州へ流罪となり、3年後病死します。
これにより吉良家は断絶したのです。
赤穂事件には、大石内蔵助以下の忠義の話の裏に、吉良つぶしという裏のストーリーがあったのかもしれません。