武庫川女子大学講演会シリーズは、以下のような趣旨で開催されています。
明治以降、西欧文明の影響を受けながら発展を遂げてきた近代建築が、互いの美を競うように軒を並べる歴史都市には、居ながらにして世界を旅するような魅力があります。「わが国の近代建築の保存と再生」に関する講演会を開催することで豊かな都市環境のあり方を考えます。
武庫川女子大学講演会シリーズ「第21回片山東熊と曾根達蔵」に行ってきました。副題に「欧米水準の宮殿とオフィスをめざして」とあります。
武庫川女子大学建築学科・大学院建築学専攻主催
/東京センター共催 講演会シリーズ
わが国の近代建築の保存と再生
第21回片山東熊と曾根達蔵
欧米水準の宮殿とオフィスをめざして
日時:2019年7月6日(土)午後1時~
会場:東京都千代田区丸の内1の4の6
日本工業倶楽部会館 2階 大会堂
プログラム:
13:00 開会
13:00~13:10 趣旨説明
13:10~14:50 平賀あまな先生講演
東京工業大学環境・社会理工学院特任准教授
休憩(15分)
15:05~16:45 石田潤一郎先生講演
京都工芸繊維大学名誉教授
武庫川女子大学客員教授
16:45 閉会
ここでは曾禰達蔵」編として載せます。
以下、石田潤一郎先生のレジメによる
明治大正昭和の三代を生きた
曾禰達蔵
その経歴―1
・1852年(嘉永5年)11月24日:唐津藩士・曾禰政乂(はる)の子として江戸藩邸に生まれる。幼名・鈔三郎
・1862年(文久2年):このころ藩主世子で幕府老中であった小笠原長行の小姓となる。
・1868年(慶応4年):江戸開城に際して彰義隊に参加、さらに東北へ赴き、戊辰戦争に従軍。
・1873年(明治6年):8月工学寮入学。
工学寮開学
・明治6年(1873)7月、工学寮大学校の規則を定める。教育期間6年、卒業後7年間は工部省奉職を義務付け。
・土木・機械・造家・電信・科学・冶金・鉱山の7科を設ける。
・8月入学試験。官費生20名、通学生20名。(10月に追加募集して12名合格、7年4月末から通学生も官費とする)。以後毎年4月に50名前後が入学。
工学寮、造家学選択の経緯1
曾禰達蔵の昭和10年の回想
・明治初年、書生が多く入学をねらっている学校は官費生となってよい学問の修業ができる官立学校であった。・・・貧書生は皆鵜の目鷹の目でそんなところを狙っていたのです。
・私は郷友の二、三人と共に幸いにして或人の紹介で、工学寮の所謂権助であった村田文夫という人に会って、近々工学寮で官費生を募集するそうですが、そのときは知らしてもらいたいということを予め頼んでおいたため、、その期に及んで募集を知ったのです。
工学寮、造家学選択の経緯2
・歴史が好きだった。それでぜひそちらの方に行きたかったんですけれど、ご維新で家も没落の途をたどりまして、そういう自分の好きな道に行くことができなかった。
・ところが官費であれば大学の先生にもなれる、勉強もできるということで、当時工部大学で官費生の募集があったので、その第1回生に入ったようなわけです。
・建築というものは、一番芸術に関係があるというので選んだということです。
工部大学校の教育
・6年間を2年ずつ、予科/専門科/実地科の3段階に分ける。
・専門学の2年の毎年6ヶ月は座学、6ヶ月は実地を経験、実地修行2年間はまったく実務に就く。
・理論と実地を交互に教育するサンドイッチ方式。
・2週間ごとの土曜に週末試験+期末試験。
成績による序列付け
・専門科、実地科の成績320点満点で
200点以上を一等及第として、工学士の称号を授与。
200点未満、100点以上を二等及第として、2年後の試験とその間の業績の評価しているに合格した後、工学士号。
100点未満は三等修行として学位はなし。
・工部省任官時の職階、給与にも反映造花がった。
・造家学科第1期生の「成績
辰野金吾 208.7点
片山東熊 200.5点
曾禰達蔵 194.9点
佐竹七次郎 188.6点
その経歴―2
・1879年(明治12年):11月工部大学校造家学科第2等及第、工部省入省。
・1886年(明治19年):工部大学校助教授を経て海軍技師。呉鎮守府建設委員。
・1890年(明治23年):9月12日三菱に入社。92年三菱一号館起工。
・1897年(明治30年):3月ごろ三菱銀行神戸支店建築のため神戸に移住。1900年同支店竣工。
曾禰達蔵卒業設計「精神病院」(1897)
コンドルのコメントは「design, rether poor.plen, bad」と評される。
ただ卒業論文「日本の将来の住宅建築」はコンドルから称賛される。
曾禰の回想
・「当時外国の教師などから、理論も聞き、法式も教わったが、さて実地に就いて見る可き手本のないのに苦しんだ」。
・「余の図を評すれば、徒に膨大なるのみにて何の妙味もなく、何の特徴もなき平々凡々たる作に過ぎず」。
ジョサイア・コンドル(1852~1920)
1877~1886年 工部大学校教授
1886年(明治19) 非常勤講師となる
1888年 設計事務所開設
1890年(明治23) 三菱の顧問となり、丸ノ内のオフィス街建設に携わる。
海軍から洋行するという望みを絶たれた曾禰の懇望を容れて、パートナーとして招聘。
中條精一郎と曾禰中條事務所開設
1906年(明治39年):10月、三菱を定年退職。曾禰建築事務所開設。
1908年(明治41年):1月中條精一郎とともに曾禰中條建築事務所を開設。
1936年(昭和11):1月中條精一郎死去。事務所単独経営。
1937年(昭和13年):12月急性腸閉塞のため死去。
曾禰中條事務所の基盤
・曾禰が培った三菱財閥との縁
・両所長の出身地(唐津と山形)とのつながり
・中條と池田成彬の進行に基づく三井財閥、慶應義塾との縁
・チーフデザイナー徳大寺彬麿による華族との縁
略
曾禰中條事務所略年譜(1)
曾禰中條事務所略年譜(2)
曾禰中條事務所略年譜(3)
曾禰中條事務所略年譜(4)
曾禰達蔵の人となり
「常に人のことを褒めても悪くいわないという、まあ儒教を身をもって生涯行ったということじゃないですか」(曾禰武)
「古人の言に『心正しきものは命長し』といふことがある。聖賢の書を読んで身を修めることが深く、名利に汲々たるを好まないから他の諸先輩が早く世を去ったのに、七十五歳の今日尚ほ雙鑠として渋谷の奥より雨が降ろうが雪が降ろうが意に介せず、乗合自動車にも乗らずオーバーシューズを附けて朝に夕に暮れの鮭のように混みあった電車にぶら下がり、内村鑑三の聖書をポケットに入れて通っている。震災の時は洗足足袋にゲートルを巻いて丸ノ内を巡り、遭う人毎に先ず最初の挨拶に済まぬを連発銃氏設計した建物の損傷をわびていた」。
以下、省略(後日付け足すことあり)
曾禰中條作品の一部
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講演会参加証