【映画評】オッペンハイマー この辺がいっぱいいっぱい。
まず米国では、反核・反戦映画は作れても、広島、長崎への原爆投下そのものを否定する映画は絶対に作らないし作れない。
この映画でも、オッペンハイマーが水爆の開発に反対する様子が描かれているが、その理由は
・広島長崎へ投下した原爆の威力が予想以上であり、市民に多くの犠牲者を出したこと
・核兵器を開発するのは科学者だが、開発してしまえば、その使用については一切コントロール出来ないこと
・各国が核保有を始めれば、互いに相手の戦力を上回るべく、より強力な核兵器の開発を誘発し、ついには人類が滅ぶことを懸念したから
等々の理由と描かれている。広島長崎への原爆投下そのものについて、「するべきではなかった」と否定する場面もセリフも無い。巧妙に避けているとも言える。
広島長崎の惨禍が具体的に描かれてないことが不満、との意見。ありますね。出来ないんです。広島長崎への原爆投下が戦争の終結を早めることに寄与したってのが米国の立場だから。その立場が危うくなるような映画は自国民に見せたくないんです。
これはWikipediaからのネタですが、映画"GODZILLA"(2014年)に、ゴジラに核兵器を使用しようとする米国海軍の提督に対し、渡辺謙演じる芹沢博士が反対し、自身の父親の広島での被爆体験を伝える場面があったそうですが、これが米国国防総省の反対によって削除されたと。
うあああ…国防総省が出てきちゃうのか…
事程左様に、広島長崎への原爆投下を否定しようとする意見が、荒唐無稽な怪獣映画であってすら、決して出てこない様、米国という国が神経をとがらせている様が伺えます。
そんな中で作られたこの映画。作り手は健闘したと言えるんではないかな?
様々制約があるなかで、反戦反核映画としては成立してるんだもん。
バーベンハイマーの一件でミソついちゃったけど、映画そのものは、重厚かつ壮大。演者たちもみな達者な人たちばかりで、人間オッペンハイマーの光と影を見事に描いてる。
映像も音響もハイレベル。社会派でもあり歴史ものという内容は、いかにもアカデミーが好みそう。
日本人としてこの映画をどう捉えたらよいか?
作り手に対して言っているのだとしたら、ここはどっしりと構え「よくやってくれました。次はもっとお願いしますね」でいいんじゃないかー、というのが私の個人的な意見。
作り手じゃなくて米国政府や米軍に言ってるのだとしたら、今のところは残念ながら勝てないケンカだ。うむ。
【映画評】ケイコ 目を澄ませて 居場所って大事ねー
「ケイコ 目を澄ませて」でございます。
キネ旬1位、毎日映画コンクール大賞です。
生まれつき耳の不自由なケイコは、プロボクサーでありこれまで2戦2勝の成績を収めていた。東京下町に戦後からある荒川ボクシングジムに通い、会長やトレーナーに支援され練習を続ける日々。試合観戦した母親は、わが娘の殴り殴られる姿を見ていられず、「そろそろ辞めた方が…」と促すが本人は承知しない。が、試合後のダメージは本人の思った以上に大きく、体調不良に悩まされる。しばらく休もうか…と思い、会長宛に書いた手紙を渡そうか渡すまいか…と悩んでいたその折、会長から経営難のためジムを閉鎖すると伝えられる。
音楽、ほぼありません。16mmの荒れた画面に映される下町の黄昏。行きかう人と京成線。いいです。好みです。こういう静けさ。淡々とした流れ。
主人公が聴覚障がい者であり、日常の不便やら健常者とのトラブルも描写されますが、そこはこの映画のメインテーマではない。生きにくい現代に、居場所があることで支えられ、それを失うことの心細さ。そしてそれを越えるか越えないか。そんな誰にでもある普遍的なテーマを感じました。
ジムの人たちはプロボクサーであるケイコを支えたいし、そのために奔走するのだが、ケイコ自身の悩みはそっちじゃない。荒川ジムでの久々のミット打ちで見せる笑顔。ボクシングではなくこの場なんだと。
そして迎える試合、その結果を経てケイコはどんな決断をするか。
ケイコには母と弟がいて、弟の彼女ともつながりが持てて、職場もある。実はいろいろと居場所があるんだと。そんなことも理解しつつ、次へ進もうとするケイコのラストカットには希望を感じます。
そしてエンドロールの背景に再び流れる下町の姿。ケイコがそんな市井の一人なんだよと伝えつつ、スクリーンの前の観客に、あなたもそうだよと伝えているような、そんなラストと感じました(ちょっとエヴァっぽい)。
【読書記】虐殺器官 力作ではあるが、どっちかっていうと通好みかも…
虐殺器官でございます。
彗星のごとく現れ、今後のSF小説を牽引すると期待された逸材にして、実質3年余りの活躍で早逝したという、伊藤計劃氏の長編デビュー作。ようやく読めました。
兵士が戦場で影響されがちな、敵への同情や痛みによる恐怖心や倫理観など、任務遂行の妨げになるような感情を、体内のナノマシンにより制御し、子供すら躊躇なく撃てるように調整されることが行われている時代。米国の特殊部隊の一員として、敵地への侵入と暗殺を担うクラヴィス大尉は、ジョン・ポールなる人物を追っていた。彼は小国の中枢に潜り込み、その国が内乱と大量殺戮を起こすように仕向けては姿を消すという。彼は如何にして各国をそのように仕向けたのか?いくつかの作戦で失敗を繰り返しようやくジョン・ポールその人に相まみえたクラヴィスは、その方法を聞き驚愕する。
解説によると伊藤さん、この本を10日で書いたんだって!えええ!私ゃ読むのに10日ぐらいかかってるww才能あふれる方だったのでしょう。惜しい方を亡くしました。
内容はシリアスであり、淡々とした文体で、難しい用語にいちいち英語(カタカナ)のルビが振ってあって、若干中二病的な印象も受けますが、淡々としたというのは、主人公のクラヴィスが作戦にあたって感情調整され、常に冷静であるということの表現です。目の前で子供の頭が割れても平気。そして自らが殺戮を行っても感情を高ぶらせずにいられるということの異常さ。自身の行っている殺戮に対して疎外感を感じるという状況そのものが、本作のテーマの一つです。
人を殺しても自分が大怪我しても平気なように調整された時、目の前の敵を殺すことを自身が選択したにもかかわらず、それが自分の責任と感じづらくなっていることの怖さ。自らの属する軍隊から、国から、そのように調整され戦場に置かれた場合、その行動に歯止めが利かなくなることの恐怖。
でもこれ実際に似たようなこと行われてますよね。今時の軍隊、たとえば空爆する時とか、米国のオフィスから無人機飛ばして本土からコントロールして爆撃する。オペレーターは朝9時に出勤してオフィスから爆撃機操作して夕方5時に帰るんだって!
大量殺戮を行いつつ、その”殺した”実感を兵士から遠ざけることで、より効率の良い戦争を行っていく。殺した責任は誰が取る?罪悪感や後悔すらも兵士から奪う。システム化された戦争の非人間性。
と、今初めて見たように語っているが、アウシュビッツにユダヤ人を送ったのも似たようなもので、システム化されルーチン化されていたから十万人もの”処理”が出来た。
クラヴィスは病床にあった母親の最期に、コミュニケーションが取れなくなった本人に代わり医師に機械を外せと伝えたエピソードと比べ、「母親を殺したのは自分であり、その罪をかぶり、かぶった後で赦されたい」と願う。でも罪悪感を薄められた戦場では、罪をかぶることすら難しい、と悩み続けるわけです。
最後にはジョン・ポールが内乱を起こし続ける理由が語られ、それに影響されたクラヴィスがある行動をおこし、その結果が語られて終わります。おお、クラヴィスさん、あんたの罪のかぶり方ってそれかwwこのオチはちょっと。。。
ともあれ、斬新な視点と膨大な情報量で圧倒される一冊ではあります。う~ん、どっちかっていうと通好みなのかな…私のようなライトな読み手には、そこまで「うおお…」な読後感はありませんでした。勉強不足です。ハイ。