【読書記】『ゼロからトースターを作ってみた結果』思った通りの展開 ツメの甘さが惜しい
英国在住のデザイナーで元カレッジの学生だった筆者が、ふと約4ポンド(500円!)のトースターをゼロから作ったらどうなるだろうと思い立つ。分解すると概ね100種以上の材料で作られた400種ほどのパーツに分けられた。生産の過程で有害物質を発するものもあり、いくつかの機能を省略して、プラスチック、鋼鉄、銅、ニッケル、マイカの大きな5つの材料で作れる様に計画。各々の原料を作るためイギリス全土を飛び回り、自宅で時に危険な材料作りに取り掛かる。
大体予想通りの展開。こういう作業を経て、世の中の仕組みやら環境破壊やら、モノにあふれる世界で見過ごされがちなマイナス面に気づき、思いを馳せ、みんなもっと自然に対して謙虚に生きようよ、的なオチになる。大体そのことは分かった上で読むので、読み手が期待するのはプロセスが如何に印象的だったり大胆だったりバカバカしいか、だ。
で、残念なのはこのプロジェクト、カレッジで単位を取ることが目的だったので、期限がある。なので後半はだんだんと開き直りが顕著になり、ニッケルが国内で手に入らず、期限が二週間しかない段階で、外国のニッケル硬貨を溶かしてニッケルを得たりするのだな。
プラスチックを得るためにBP社(英国最大の石油会社)に交渉して挫折したり、鉄鉱石を得るために自宅に溶鉱炉を作って大失敗したり。この辺面白いので残念だなー。
で、結局トースターは完成しない。パンを焼くというデモンストレーションが失敗する。そこで「僕の9か月のゴールはトーストを焼き上げることだったのだろうか?」と自問する。その問いへの彼の答えがどうだったのかは読んでいただくとして…
トースターを完成してくれれば完璧だったのに!とりあえずカレッジの学位は取っといて、それで終わらず後日にでも足りないところを補完してトースターを完成してくれてれば…(あーでもその辺は日本人的な、完璧主義的な考え方なのかも)。
彼の今後の活動に期待ですね。っと、っこれ2012年の本か。もう12年経って彼も良い大人になったんでしょうね。何?ヤギになったって?
【映画評】アメリカン・フィクション ウディ・アレン作品をも彷彿とさせる、皮肉に満ちた良作コメディ
アメリカン・フィクションでございます。第96回アカデミー賞に5部門ノミネート、最優秀脚色賞受賞しながらも、日本では劇場公開されず、アマプラで鑑賞可ということで観ました。
落ち着いた画面のトーン、ジャズ系の音楽、ペーソス漂う雰囲気が、かつてのウディ・アレン作品をも思わせる良作です。
作家であり、大学で教鞭を取るモンクであるが最近ヒットに恵まれない。新作は「黒人の作品らしくない」と難癖をつけられ評価もされない。高齢の母親の入院にまとまった金額が必要になったモンクは半ばヤケになり、ペンネームを変えて「刑務所から逃亡中の元犯罪者」と名乗り、底辺の黒人たちが主人公の小説を執筆。ところがこれが大ヒットして…
ホラもう、「売れない作家」「思わぬ大ヒット」「引っ込みがつかない」あたりの流れ、まんまアレン作品ぽいでしょ。
そういや、ダスティン・ホフマンの「トッツィー」ってのもあった。食い詰めた男優が女優に化けて、オーディション受けたら受かっちゃって、連ドラにでたら人気が出て困った…ってやつ。マイノリティーじゃない人がマイノリティーの役割を演じることで、マイノリティーに対する世間の固定したイメージを浮き彫りにしていくという流れ。タイトル忘れたが、白人の大学生が奨学金欲しさに黒人に化ける映画もあった。
ただこの映画は、そのあたりが話の中心というわけでもなく、家族関係の回復とか、中年の恋愛だとか、様々な話が語られる。頑固な中年オヤジが、自分の頑固さにも気づき、最後は少しほぐれていく。差別の問題を声高に訴えるのではなく、様々なエピソードいの一つとして、サラッとした感じで扱っていく。
コメディでもあり視聴後感(←読後感と同じ意味で映画観た後の感じという意味で書いたが、こんな言葉無いなあ)は軽め。ジワジワと染みて来て心に残っていくという映画で、たそがれ中年の土曜の夜にオススメの映画であります。
だからなのか、犯罪者のフリして小説書いて、その後始末をどうしたか、については極めて曖昧。あのラストは最初は、え、なんでここでコレ?と思ったが、あとからコレは観客に対する最大の皮肉なんだと気づきました。まあこういう終わらせ方もあるか、とも思うし…う~ん…
【映画評】すずめの戸締り 要石ってつまり、人柱なの??
すずめの戸締り、アマプラ無料になったので鑑賞。
主人公の高校生すずめは、4歳の時に東日本大震災で母親を亡くし、今は九州で叔母と暮らしている。ある日「扉を探している」という謎の青年、草太と出会う。廃村に立つ謎の扉のそばにあった置物を何気なく取ると、それは猫の姿に変わり逃げていく。すると扉から得体の知れぬ、禍々しく巨大な何かが飛び出す。青年が「みみず」と呼ぶそれは、災害をもたらすもので、自身は「閉じ師」であり、災害を防ぐため全国にある扉を管理する役割を代々受け継いで来たという。猫に変わった置物は「要石」と言い、これを失えば全国の扉が空き、やがて大災害をもたらす。防ぐには猫を要石に戻すしかない。青年とすずめはようやく扉を閉じると、猫の後を追う旅を始める。
↑ところどころ違うような気もするけど、冒頭のあらすじはこんなもんですかね。
手足がすらりと長い、健気な美少女が、泣いたり笑ったり、飛んだり走ったり、強情っぷりを見せたり感動したりしつつ、汗を流し血を流し、いろんな人に助けられ、最後は「うぉーっ!」と叫び、壮大な音楽と圧倒的な映像の中、何かが解決する。
新海誠の映画、だいたいこんなパターン。まあそれはいいんです。行く先々で会う人だって、みんなそんなにいい人な訳は無く、東京で家出少女丸出しのカッコで歩いていても人売り人買いの類にさらわれることもなく。
娯楽映画ですから。予定調和みたいなところも含めて楽しむためのモノなので。
ですが。映画の中で非常に重要なポジションを占める存在、「要石」について。
草太が要石になれたってことは、要石も元は人間だった可能性があるってこと?(wikipediaには要石の設定として、「昔震災にあった子供」とある)草太が要石になった時は、本人は苦しんで、すずめは物語の終盤はほぼ、草太を人間に戻すことが目的になっている。なのになぜ猫には平気で「要石に戻れ」って言える?なんでそこに葛藤が無い?
これだけは納得出来ない。
あと、すずめは災害を防ぎ人々を助けたいのか、草太とくっつきたいのか、4歳の自分を救済したいのか。目的が多すぎて途中でごっちゃになってしまう。
東京で二つ目の要石が外れたのがなぜなのか説明されてないし、黒猫に取り付かれた叔母さんがなんであのようになったのかもまったくわからない。
全体的に未整理であり説明不足。それをキャラクターの魅力やら音楽やら映像やらで包み隠して、勢いだけで感動作のように見せている気がしてならない。
それでも大ヒットしちゃうんだよなあ…そして前述の説明不足やら矛盾について、親切なファンたちがいわゆる「解釈」「考察」によって一生懸命補完している。
ファンとしての楽しみ方のひとつとして、それはアリだが、作り手がそれに甘んじて、緻密な脚本、矛盾の無い設定作りを「不要」と思ってしまうとしたら、極めて不健全だと思います!
ハリウッドには、脚本の矛盾を指摘して直すための専門の役割の人がいるそうです。金も人手も無い日本では難しいのかもしれませんが、観てる最中に頭に「???」が浮かんでしまうと、いい気分も台無しですんで、もうちょっとお考えを頂ければ、と存じます。