【映画評】すずめの戸締り 要石ってつまり、人柱なの??
すずめの戸締り、アマプラ無料になったので鑑賞。
主人公の高校生すずめは、4歳の時に東日本大震災で母親を亡くし、今は九州で叔母と暮らしている。ある日「扉を探している」という謎の青年、草太と出会う。廃村に立つ謎の扉のそばにあった置物を何気なく取ると、それは猫の姿に変わり逃げていく。すると扉から得体の知れぬ、禍々しく巨大な何かが飛び出す。青年が「みみず」と呼ぶそれは、災害をもたらすもので、自身は「閉じ師」であり、災害を防ぐため全国にある扉を管理する役割を代々受け継いで来たという。猫に変わった置物は「要石」と言い、これを失えば全国の扉が空き、やがて大災害をもたらす。防ぐには猫を要石に戻すしかない。青年とすずめはようやく扉を閉じると、猫の後を追う旅を始める。
↑ところどころ違うような気もするけど、冒頭のあらすじはこんなもんですかね。
手足がすらりと長い、健気な美少女が、泣いたり笑ったり、飛んだり走ったり、強情っぷりを見せたり感動したりしつつ、汗を流し血を流し、いろんな人に助けられ、最後は「うぉーっ!」と叫び、壮大な音楽と圧倒的な映像の中、何かが解決する。
新海誠の映画、だいたいこんなパターン。まあそれはいいんです。行く先々で会う人だって、みんなそんなにいい人な訳は無く、東京で家出少女丸出しのカッコで歩いていても人売り人買いの類にさらわれることもなく。
娯楽映画ですから。予定調和みたいなところも含めて楽しむためのモノなので。
ですが。映画の中で非常に重要なポジションを占める存在、「要石」について。
草太が要石になれたってことは、要石も元は人間だった可能性があるってこと?(wikipediaには要石の設定として、「昔震災にあった子供」とある)草太が要石になった時は、本人は苦しんで、すずめは物語の終盤はほぼ、草太を人間に戻すことが目的になっている。なのになぜ猫には平気で「要石に戻れ」って言える?なんでそこに葛藤が無い?
これだけは納得出来ない。
あと、すずめは災害を防ぎ人々を助けたいのか、草太とくっつきたいのか、4歳の自分を救済したいのか。目的が多すぎて途中でごっちゃになってしまう。
東京で二つ目の要石が外れたのがなぜなのか説明されてないし、黒猫に取り付かれた叔母さんがなんであのようになったのかもまったくわからない。
全体的に未整理であり説明不足。それをキャラクターの魅力やら音楽やら映像やらで包み隠して、勢いだけで感動作のように見せている気がしてならない。
それでも大ヒットしちゃうんだよなあ…そして前述の説明不足やら矛盾について、親切なファンたちがいわゆる「解釈」「考察」によって一生懸命補完している。
ファンとしての楽しみ方のひとつとして、それはアリだが、作り手がそれに甘んじて、緻密な脚本、矛盾の無い設定作りを「不要」と思ってしまうとしたら、極めて不健全だと思います!
ハリウッドには、脚本の矛盾を指摘して直すための専門の役割の人がいるそうです。金も人手も無い日本では難しいのかもしれませんが、観てる最中に頭に「???」が浮かんでしまうと、いい気分も台無しですんで、もうちょっとお考えを頂ければ、と存じます。