劇的な変化を遂げる
天正13年(1585)、紀州を平定した羽柴秀吉は、
秀長に命じて「岡山」(現在の虎伏山)に城を築かせましたが、
わずか3か月ほどで和歌山城を築城させたという説もあります。
これは極端にしても、
町が劇的な変化を遂げるということは多々あるようです。
過日、購入した「横浜本町並ニ港崎町細見全図」を見ても、
そんな街の変化度合いを推し量ることができます。
空飛ぶ絵師と称された五雲亭貞秀による
鳥瞰的に描かれた港町横浜に関する三枚続の錦絵ですが、
これが制作されたのは万延元年(1860)。
ペリー来航から5年後の安政5年(1858)6月、
日本とアメリカの間に修好通商条約が結ばれたことにより、
翌年の6月に横浜は長崎・函館とともに開港となりましたので、
わずか1、2年というレベルで大きな発展を遂げたことになります。
元々、幕府の思惑は外国人と日本人を遠ざけるため、
交通の頻繁な東海道の宿場を開港場とすることを避け、
辺鄙な横浜に開港を主張して勝手に開港場を作ってしまったのです。
ですからそれまでの横浜はというと、
港の施設がほとんどない小さな漁村だったそうです。
そうして開港場の中でも横浜は、
大消費地である江戸に近いことと、関東・甲信が生糸の産地であることから、
欧米各国の貿易商や江戸の大商人などが横浜に集結して発展していきます。
余談ですが、
横浜開港とともに一番乗りしてきた商社は、
イギリスの巨大商社であったジャーディン・マセソン商会。
その地番から「英一番館」と呼ばれました。
長州五傑のイギリス密留学の手配などの世話役でも知られます。
さらに、このマセソン商会の長崎代理店として設立されたのが、
かのトーマス・ブレーク・グラバーが興した「グラバー商会」です。