独り言を呟く
メイン銀行の担当者が年始挨拶で来社。
少し時間をいただきたいという事前の連絡があり、向かい合い四方山話がひと段落すると、先方から今後の会社の活動方針を問われました。
この手の話を粗雑な思考で返答をしてはいけないと、自ら漫言を慎んで受け答えをすることにしました。
私らの年代の経営者で会社に親族などが勤務していないということは、業務を引き継げる人が居ても、会社を引き継げないという後継者問題が頭を擡げると思います。
私の息子二人が後継者になり得るのかということまでも踏み込まれましたが、今となっては私自身の考えとして息子らに会社を継いでもらおうという気は寸毫もありません。
私自身が一般的に馴染みの薄いことを生業としていますので、わざわざそんな特殊な事業内容の会社を継がせる道理が見出せないわけです。
ですから息子たちはそれぞれの考え方に基づいて人生を過ごせば良いと思っています。
そのようなことを行員に伝えると、銀行内のコンサルティング部におけるM&A業務についての説明を受け、一考を促されることになりました。
さらに現状で私の身にもしものことが起きると、非上場株の相続における家族のデメリットが大きいことも付言されることになりました。
確かに、上場株を家族が相続すれば、株を売買して現金に替えることができますが、非上場株の場合は簡単に現金化することができない背景があり、もっというなら会社の株を買いたい人を見つけなければならないという根本的な問題にメスを入れなければなりません。
今の会社の業績内容であれば興味を示してくれる企業もあるでしょうと、行員はセールストークを述べていましたが、それだけで事が片付くとは考えていません。
本件に関しては、弊社の顧問税理士からも指摘を受けており、徐々にノイズが大きくなってきていることは否めませんが、それよりももっと仕事に向き合いたいと思っています。
口碑に残るアナウンサー
TBSのアナウンサー時代には「ザ・ベストテン」、フリー転身後は「ニュースステーション」のメインキャスターなどを務めた久米宏氏が1日に肺がんで亡くなっていたことが報道されました。
一報を知り大変驚かされましたが、久米氏が口碑に残るアナウンサーであることは誰もが認めるところでしょう。
当時、久米氏がメインキャスターの「ニュースステーション」は視聴者から絶大なる支持があり、故に番組内のスポットCM枠なども取り合いになっていました。
そして、何本取れるか否かで、スポットCMの受注を大きく左右する重要な要素にもなっていた時期もあったくらいです。
それほど影響力があった番組で、これも一重にメインキャスターの力量に負うところが大きかったと思います。
その「ニュースステーション」の久米氏の放送最終回。
「提供スポンサーは、社員の方が働いて得た利潤から宣伝費が捻出されている。いわばスポンサー企業の社員の皆さんも、番組スタッフの一員。もしかしたら、スポンサーの製品とかサービスを買ってくださった方もスタッフだという考え方さえできる」と語った言葉が今も耳に残っていて鮮烈に蘇ります。
これは正しく彼自身の気概を端的に表現しているメッセージで、こんなことをいくら番組出演の最終日であろうが、番組内でこんなことを語るキャスターは、後にも先にも彼以外は見当たりません。
実は今でも私はこの言葉を好み、久米氏の言葉だと明言して常日頃からスタッフに話しているくらいなのです。
加えて余談ですが、黒柳徹子とのコンビで司会を務めた「ザ・ベストテン」では、軽快な話術で歌番組全盛期にあって「ザ・ベストテン」を一頭地抜けた存在に引き上げた功労者でした。
ちょうど私が広告代理店に入社した時にTBSでも研修が行われ、研修の合間を縫って憧れの「ザ・ベストテン」のセットに足を踏み入れて、「赤い記念ソファ」にこっそりと腰を下ろしたことを懐かしく思い出されます。
(その前年に空前のヒットを飛ばした「ルビーの指輪」が12週連続第一位を記念して製作されたのが「赤い記念ソファ」です。)
ご冥福をお祈りします。
10年間も続いた石山合戦
元亀元年(1870)9月12日に始まった石山戦争。
これは織田信長と本願寺顕如光佐が率いる一向宗との戦いで10年間もの長きにわたる戦いとなりました。
さすがの信長も長期戦による軍事力と経済力の消耗が著しく、顕如も門徒と本願寺の存続を優先させたいという、両者の思惑が一致することになりました。
こうして天正8年(1580)3月17日、正親町天皇の勅使・近衛前久の仲介により、信長と本願寺顕如の講和が成立することになり、7月までに本願寺を明け渡す約束が交わされました。しかしながら、尼崎城なども明け渡すことで本願寺への事実上の降伏勧告であっとされています。
10年以上も続いた戦いでしたが、形の上で最終的に朝廷を介して和睦が図られ戦いに終止符が打たれたのです。
講和後、顕如は和睦を受け入れ紀伊国(現在の和歌山県)の鷺森別院へと退去しましたが、顕如の長男・教如は徹底抗戦をして石山本願寺に籠城を続けます。
しかし、約50日後に教如も石山本願寺を退去することになりましたが、これら一連の動きが、のちの西本願寺(顕如)と東本願寺(教如)分裂の嚆矢となりました。
さて、過日に本願寺顕如が勅使を受け入れ、講和に応じる場面を描いた錦絵を購入。
山崎年信の錦絵「石山大軍記 第三号 第十一世顕如上人」です。
これは明治11年(1878)制作の大判竪絵で、とても使い勝手が良さそうな錦絵。
今後は自社の歴史商品に図版として使用していくことになります。
晋作の『遊清五録』
過日、高杉晋作の『遊清五録(ゆうしんごろく)』が講談社学術文庫から書籍化されたことを見聞しましたので、会社近くの大型書店で買い求めました。
『遊清五録』とは、文久2年(1862)に高杉晋作が幕府の貿易視察団に加わって清朝上海に渡航しますが、その渡航時の『航海日録』『上海掩留(えんりゅう)日録』『内情探索録』『外情探索録』『崎陽雑録』の旅日記と見聞録(情報記録)からなります。
文久元年(1861)9月、晋作は幕府が兵庫と新潟の開市開港の延長を求めてヨーロッパに派遣する予定の使節団一行に加わる内命を受けました。
日頃から海外渡航を夢見ていた晋作は、英国史や地理書を読み漁り渡航に備えていたのですが、結局のところ幕府は藩士1人しか認めず、晋作の渡航は頓挫しました。
晋作は海外渡航の夢が破れ、その落胆には大きいものがありました。
ところが、もう一つ幕府は清国との貿易を活性化させるために派遣する調査団が計画され、ヨーロッパ行きを断念していた晋作は幕臣の従者として加わることになりました。
これ既述の清朝上海への渡航ということになります。
貿易視察団の一員となった晋作が上海で目の当たりにしたものは、西洋列強の植民地のようになった上海の情景。
これにより晋作は諸外国への危機感を強く抱き、「攘夷の策をなさずんば、ついに支那の覆轍(ふくてつ)を踏むも計りがたし」と、日本が攘夷の策をとらなければ、清国と同じ失敗をすることになるだろうとの思いを募らせます。
この二ヶ月ほどの上海貿易視察は晋作にとって有意義な旅となりました。
それゆえに『遊清五録』には24歳の晋作の思いの丈がつづられた貴重な記録ということになろうかと思います。
これから徐々に読み進めていきますが、久し振りに楽しみな一冊となりそうです。
家内との新年会
三連休の初日、名古屋駅前の四川料理店で家内と二人で新年会。
昨年末に予約を入れてありましたので、半個室のゆっくりとした空間で料理を堪能することができました。
さて、名古屋メシで辛いものといえば味仙の台湾ラーメンなどがつとに有名ですが、名古屋メシではありませんがここの麻婆豆腐の辛さも負けちゃいません。
いつも私はお店が薦める辛さを敬遠して、一番下の〝小辛〟を注文するのですが、それでもそんじょそこらの麻婆豆腐よりも辛い。でも単なる辛さだけではなく、それがどうにもこうにもクセになるような味なのです。
今日もお気に入りのメニューを注文することにしました。
まずは前菜、そしてやみつきになる香味だれがかかったサクサクの衣の油淋鶏と点心。
さらに、プリプリなエビを使ったエビチリ、最後にメインの〝小辛〟の麻婆豆腐といった内容となります。
正月休み明けの最初の休日ということもあるのでしょうか、今日は珍しく昼時にもかかわらずテーブルに空きがありました。
仕事始めとなった今週はとても忙しい一週間と相成りましたが、美味しいものをいただいてちょっと気晴らしができたように感じます。
食事を終えるといつものように名古屋駅前周辺をブラついてきました。
閑話休題。
周知の通り、明日からは強い冬型の気圧配置となり、今季最強クラスの寒気が日本列島に流れ込む見込みとのことですので、くれぐれも無理のない行動を心がけてください。




