龍馬と夢紀行

歴史が好きだから、歴史の仕事を手探りで始めてみた。


発端は、ただそれだけ。


でも不思議なもので、そんな瞬間から「趣味」が「仕事」になりました。

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高校時代を活かす

久しぶりに高校時代の部活仲間と電話で話す。

 

公務員を早期に依願退職して、デイ・トレーダーに変身。

当初は趣味の延長線程度のものかと思っていたのですが、豈図らんや会社を興して挑戦するという本格モードに大層驚かされました。

 

高校時代から何かにつけ勝負事が好きだったことから、お堅い公務員よりも今の方が明らかに向いていて水を得た魚のよう。

「つまらない、馬鹿らしい」が常套句だった公務員時代から比べれば、現況について語る彼の言葉は立板に水の如く。余程、性に合っているのだろう。

 

当然のように、これまで損得という浮き沈みがあったのでしょうが、今では午前中にパソコンに向かって売り買いをして、午後から自由気ままにフリータイムを満喫しているとのことらしいが、その話ぶりに損得を超越した達観さが其処彼処に感じられる。

悠々自適な毎日を彷彿させるが、何よりきっちりとしたビジネス基盤があるのだろう。

 

そんな彼のビジネスシーンを含めた日常を聞かされると、あくせく働くことがバカらしく思える時もありますが、そこはお互いの取り柄というもので納得をさせるようにしています。

 

彼がよく「高校時代に好きだったことをビジネスに変換していることが羨ましい」というのですが、それもどこか彼の成功体験に拠る余裕が言わせている技なのでしょう。

 

さて、中東情勢緊迫化の局面での影響はと聞くと、やはり大きな痛手を被っているとのこと。その金額たるや半端ではなく、鸚鵡返しでその金額をもう一度確認したほどです。

 

世界観が違う感じで、少し怖さを抱かずにはおれませんでしたが、勝負度胸を持ち合わせていない自分では渡り歩けない世界であることを実感。すぐさま諦観の境地へ。

 

なんだかんだ言いながら、私よりも遥かに「高校時代の性格」を活かしていると思わされるのです。

不遇なイメージの払拭

今週、来年の大河ドラマ「逆賊の幕臣」の主人公・小栗忠順に関するアイテムが納品されてきました。

弊社の人気シリーズに新たにラインナップされる「小栗忠順年譜クリアファイル」です。

以前にもブログに記しましたが、今回の制作にあたっては小栗忠順研究の第一人者である小栗家菩提寺の東善寺住職にお力添えをいただきました。

 

記載する事項もさることながら、小栗忠順が日本最初の公式訪問団となった万延元年遣米使節に加わった折にアメリカから持ち帰ってきた「ネジ」をはじめとする貴重な品々を図版として借用させていただき制作を進めさせてもらいました。

これにより制作的に果断な処置をすることができたと思っています。

 

それにしても小栗には〝不遇〟というイメージが付き纏います。

安政7年(1860)、日米修好通商条約の批准書交換のための新見正興を遣米使節の目付として参加することになりますが、巷間で有名なのは教科書にも掲載されている遣米使節団に随行艦として渡米した勝海舟・福沢諭吉・ジョン万次郎らと咸臨丸。

 

また、慶応3年(1868)の兵庫(神戸)開港に合わせ、勘定奉行の小栗の提議で設立された総合商社「兵庫商社」が役員・定款を備えた本格的な日本最初の株式会社とされることがありますが、これまた巷間では坂本龍馬の「亀山社中」にその座を奪われている感じ。

 

さらに小栗が主導した横須賀造船所に至っては、西洋技術移転と工業力強化の拠点と位置付けられ、船体・帆・ネジ・ボルトから大砲・弾薬・銃・鍋・ナイフ・フォーク・スプーンまで様々なものが造られ、蒸気機関で動く日本初の近代的な総合工場となりましたが、その評価たるやどこか薄っぺらいものに感じられます。

 

極め付けは、戊辰戦争が勃発して徳川慶喜が江戸に戻ると、抗戦派の小栗は罷免され、恭順派の勝海舟が戦後処理の責任者に。

ともにライバル関係で幕府を支え合っていた二人の明暗が分かれます。

 

おそらく来年の大河ドラマで小栗忠順の評価が大きく変わる可能性が高いでしょう。

大いに期待しながら自社商品の販売に心血を注ぎます。

これ以上の駆け馬に鞭は厳しい

明日は年に一度の人間ドック。

 

私のような年齢になると腹周りがポッコリした人がやたら多くなってきますが、自分自身に対してそうならないように気をつけています。

 

そのような個人的な思惑もあり、物臭な性格だということも加味しながら、年に一度の人間ドックの機会に合わせてダイエットを心がけるようにしています。

 

人間ドックとダイエットのこれといった関係性がないことを承知の上で、ただ単にタイミングという連動だけを意識付けているだけ。

 

今回も1ヶ月間程度で5kgの減量目標を掲げましたが、今日の夜の段階で4.5 kg減となっていました。

自己流のダイエット法で、単に食事の分量を減らしているだけのものですが、最初の一週間は体重に変動が見られなかったのですが、二週目あたりから徐々に体重が減りだし順調に推移してきたように思います。

 

たかが4.5 kg減でも、気のせいではなく身体が軽くなった感じがしますし、顎あたりはシュッとしてきて、さらにはベルトの穴一個分細くなりました。

 

ここ1ヶ月にわたり辛抱をし続けてきた甲斐があり、ちょっとした充実感というものも醸成された気がします。

 

ほんの少し目標に届きませんでしたが、正直なところ年齢的にこれ以上の〝駆け馬に鞭〟は厳しそうですので、足るを知るといったところでしょう。

 

今回も食事に関して家内に協力してもらっていましたので、人間ドック後はリバウンドしないことを念頭におきながら美味しいものを堪能したいと思っています。

あまりに急なこと

今月15日、義母が急逝。

 

亡くなる1週間前まで元気そうに話をしていましたので、あまりに急な展開で驚きました。

独り住まいの自宅で亡くなったことで警察による実況見分が行われ、医師からの診断で死因は心臓病ということが判明。

 

これまで本人から心臓に問題を抱えていることなど寸毫も聞かされてなかったので、家内と顔を見合わせて意外な死因に驚かされました。

 

私と家内は中学校の同級生でした。

クラスが同じになったことはありませんが、学校の授業参観日などで家内と義母が校舎通路を一緒に歩いていたところを見かけたのが義母の初見だったと記憶しています。

見た目通り優しそうな印象が残っていました。

 

その頃は愛知県北西部に住んでいたのですが、義父が定年退職したことで、義父の実家である岐阜県関市に移り住んで余生を過ごすことになりました。

その義父も10年前に他界し、家内が一人娘であったことで、既述のように義母は独りでの生活を強いられていました。

 

義父亡き後は毎週土曜か日曜日のどちらかに東海北陸道を利用して片道30分掛けて岐阜県関市に向かい様子を見ることに。

世話をするというようなこともなく、昼の食事を摂りながら話し相手になるという程度のもの。

そして月に1、2度は、義母の気分転換も兼ねて一緒に外食することを心がけていました。

 

ここ数年は、ひ孫の画像を携帯で眺めて楽しんでいた姿を思い出します。

そして、私がよほど貧乏にみえたのか、この歳になっても義母からはお年玉や誕生日のお祝いを頂戴していました。

本当に誰に対しても優しい義母だっただけに残念でなりません。

 

区切りがついた段階で、義母が日頃お世話になった方々への挨拶回りをし、徐々に遺品整理などにも手をつけることになります。

主がいなくなった庭もどこか寂しげに映っていました。

昨日購入した国芳の錦絵

昨日、名古屋市内の古書店で国芳の錦絵を購入。

今回購入したのは大判竪絵の「太平記英雄傳 笹井右近尚直」です。

〝笹井右近尚直〟とありますが、題名に添えられた内容で「坂井政尚」になります。

 

実名に類似した仮名を用いているのは、江戸幕府によって、天正年間(1573~1592年)以後の武将や事件については、絵を描いたり名前を出したりすることを禁じられていたため。

 

こうして江戸時代の出版統制令をかいくぐり版行されたのが「織豊時代」を題材にした「太平記英雄傳」シリーズ全50点となります。

ある意味、国芳の徳川幕府の規制をも恐れない反骨精神のあらわれかもしれません。

 

このシリーズが描かれたのは弘化・嘉永年間(1847-1852)とされていますので、今からおおよそ18年くらい前の作品です。

 

さて、笹井右近尚直ならぬ坂井政尚はというと、はじめ美濃の斎藤氏に仕えていましたが、その後に転仕して信長の家臣となります。

 

永禄11年(1568)9月の上洛の際は、柴田勝家・蜂屋頼隆・森可成らとともに先鋒として出陣し、京都および畿内の軍事・行政を担当する奉行のひとりとなり、禁制や課税などの実務を任されました。

 

元亀元年(1570)には越前遠征や小谷城攻めに従軍し、姉川の戦いでは織田軍の先鋒を務めた勇将でしたが、同年の志賀の陣において堅田砦で浅井・朝倉連合軍の猛攻に遭い戦死したとされています。

信長の宿老格に近い重臣のひとりとして扱われました。

 

今後は自社商品の図版として使用することになります。

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