気まぐれ日々 -11ページ目

気まぐれ日々

気まぐれに思った事、感じた事を綴ります。

前記事からの続き。



水産加工工場の会社は、社長や営業・総務・事務がある事務所。
魚の干物を扱う第一工場。
1階数の子・2階シシャモを扱う第二工場。
配送や出荷を扱う配送課。
会社の扱う商品や原料を保管する冷凍保管倉庫。
段ボールや商品をラッピングする資材を保管してる資材庫。

大体こんな感じで構成されている。

私は、第二工場の数の子工場に配属された。
同期も同じ所だ。

数の子は、生食なので雑菌・細菌などが一番の大敵である。

作業の切替え時には必ず、塩素などで殺菌する。

さらに、日常の気温は雑菌が増えやすい温度なので、菌が繁殖しないように数の子工場内は常に10℃前後だ。

数の子工場を出入りする際も、塩素入りの殺菌液に足元(長靴着用)を浸す。

第一工場である魚工場は菌だらけなので、上司に用事があって第一工場に行く時は、第一工場のモノをなるべく触らない。

そんなオペレーションだから、体は常に塩素臭い。
家に帰っても塩素臭い。

仕事だから、仕方ない。
実は第一工場の方が魚の生臭さが強く、それに比べたら第二工場の塩素臭い方がまだ清潔だ。

数の子というのはお正月に一番売れるので、数の子工場の1年はそれに合わせた動きをする。

1月から9月くらいまでは、ひたすら原料から規格(サイズや重さ・質)などの選別作業。
規格別に選別された数の子の原料を飽和塩水のペールに保管して、冷凍保管倉庫へしまう。

10月あたりから年末まで、その選別された数の子を塩抜きしながら、商品化していく。

大雑把な流れはこうだが、お正月向け以外にも、日常的に出してる商品もあるので、1月から9月の間も選別された数の子のペールを開けて商品化したり、原料の選別からペールに保管せずに直接商品にする事もある。

世の中、色々な食品工場があるけど、数の子は作業を機械化するのは難しい類いだ。
せいぜい、選別時のベルトコンベア、塩水を作るタンク、ザルやバットを洗浄する洗浄器、調味料を作る機械、真空パックの機械、くらいしか機械化導入は難しい食品だ。

手作業が多いと、当然その都度殺菌が必要になる。商品にも作業場にも。

なので、数の子工場は、いつも清潔にしている、と言いたい所だが、現状は違う。

いくら低温作業していても、常に水を扱っているので、黒カビなど油断をすると、あらゆる所に発生する。

1ヶ月に数回は、工場全体を殺菌清掃する為に、夜遅く残業をする事が必要だ。

ここまで、ざっと仕事内容を紹介したが、社員になって変わった事。
[残業代は無し]
[工場の施設の管理・維持]
が加わった。

手取りの給料がアルバイトの時よりもかなり下がった。
でも、責任ある仕事内容にやりがいを感じていたので、特に不満は無かった。

第二工場・数の子工場の責任者に従い、まだ私はそんなに責任重大な位置にいなかった平社員だ。
だが、私が社員になって1年も経たない辺りで、その責任者は[社会福祉士]への道に行くと言って会社を辞めた。
元々数の子工場のやり方にも不満を持っていて、ずっと続ける気は無いとは聞いていた。

この水産加工工場には[工場長]が居ない。
私が入社する数年前に[優退]されて、[次長]と呼ばれる上司が実質、第一・第二工場の全体の責任者だった。
理由は知らないが、次長が工場長に繰り上げにはなってなく、次長は次長のままだった。

この[次長]と数の子工場責任者とソリが合わなかったのが原因のひとつのようだった。
まあ、どの会社にもあって不思議のない話だ。

しかし、その話が先の数の子工場責任者が辞めた事により、私が[数の子工場責任者]になり、身を以て痛感する事になる。
まず給与の面では数の子工場責任者になったら、責任者手当てが5000円付いただけだった。

同期の人も残っていたが、同じく次長や会社のやり方に不満を感じて辞めてしまった。

その間にも、試用アルバイトで何人も入って来るが、辞める人が続出。
基本みんな『(体力的に)キツい』と言って去っていく。
中には『自分、柔道をやってたので体力には自信あります』と言ってた男が数週間で『(体力的に)キツい』と辞めていったのが印象に残ってる。

私の当時の体格は、特別優れてはなく、むしろ細身の方だった。
筋力が無いから、重たい物はコツを探してこなす。
数の子の保存や塩締めなどに使う塩水を作るのに、1個25㎏の塩袋を1日に100個以上開けるのは当たり前。

1日に入る数の子の原料は約1トン。
その約1トンを段階的な塩締めや塩抜きに使ってるタンクが5基。

塩水の含んだ数の子の出し入れは毎日。
1個のカゴが約20㎏チョイが10段重ねられるタンクだ。

確かに、数の子のタンクの出し入れが一番キツいし、キャスターに乗せて運ぶにも重いモノは車輪が付いていても重い。

低温作業であったにも関わらず数の子工場では、男は汗だらけになる(またその汗も数の子に落とすと菌が繁殖するので気を使う所だった)。

私よりはるかに体格の良い柔道経験者は[筋力]に頼ったから長く持たなかったのだろうと思った。

私は[数の子工場責任者]という立場で、前責任者がやってきた少ない期間の事を思い返しながら、数の子工場のスケジュールを日々立てる。

年末の忙しい時期は次長が中心に指示してくれたので、責任的には楽だったが、次長の仕事のペースが恐ろしく早くて体力的にはキツくなった。

次長が介入すると[殺菌作業]がかなり出来なくなる。
[殺菌作業]をさせるヒマを与えられないくらいに忙しい思いをさせられる。
そのやり方が、先の責任者や同期が辞める理由のひとつにもなっていた。

また、新しく入ったアルバイトも次長が数の子工場にいる日に当たると、あまりのキツさに辞めてしまう人もいた。

アルバイトを入れるのは以前の記事にも書いた通り、社長と次長が面接して決める。
面接に工場も見学させる。かつて私も通った道のりだ。

アルバイト候補の人もやる気にあふれて入ってきたと思うが、社長か次長の見る目が悪いのか、数日で辞める人が後を絶たず。

あるいは[数の子工場責任者]の私の指導のしかたが悪いのか。
アルバイトが入って来て、工場の事を教えて、仕事の流れを説明して。
辞められたら、また新しいアルバイトに指導して。

数の子工場全体の流れを操作しながらの幾多の新人指導は、思い返すとよくやってたと思う。

25歳、まだ自分の限界を知らない歳だった。
『この仕事をやれ』と言われたら、やらなきゃいけないと思っていた歳だった。

私には仕事を辞める理由が無かった。
ただそれだけで仕事をしていた気がする。
とにかく体力を使う仕事なので、帰ったら夜ご飯を食べて寝る。
ひたすらそんな毎日。

日曜日は休日と決まっていたので、その日は仕事を完全に休む事が出来たが、若さゆえ、遊ぶ元気もあった。

だが、日曜日の夜、布団に入る前はいつも不安が襲った。
当時、ブルーマンデーと言う言葉が存在したかどうか把握はしてなかったが、心の中で「仕事と寝るだけの毎日で将来、結婚して子供を育てられるのだろうか?」

私は仕事より、家庭を優先したい思想なので、とても不安になっていた。

当時、現在と違う女性と交際していたが、その女性と結婚したいという思いもあって、正社員になったのだけど、プライベートの時間はあまり無かった。

「こんな状況で家庭を持つ自信が無い。」
正直、仕事をこなすのでいっぱいいっぱい。
給料面でも、家庭を養う程の収入は無い。
「家庭を持ってる人達は、どうやって暮らしているのか?」

やがて、私自身も現在の仕事について考え始めた。


そうした中、ある年のゴールデンウィークの前日。
ゴールデンウィークには当時の彼女と出掛ける予定だったが、
私は仕事中に、ある事故に遭ってしまう。


…続く。

前記事からの続き。



電気工事士の会社は小さく、社長・課長・主任・他自分を含めて4名。
社長は電気工事士の資格は無く、課長と主任が有資格者だった。

なので、実質は課長が現場で一番権力がある。
その課長が厄介な人物で、人間としてどうかという性格だ。
40歳代で結婚して妻もいるが『俺が家に帰って飯が出て来るのは当たり前』とか、プライドが高く、常に人を見下している節がある。

仕事中でも、見た事も無い古いケーブルの端末を修理をして『初めて見るモノでも直せちゃうのが俺なんだなぁ』と自画自賛する場面も見た。
仕事の実力はある、でも人間として嫌い。

先日書いた、光ファイバーケーブルの件では、
会社に初めて光ファイバーケーブルが届き、端末処理の仕方を書いた説明書があったが、課長は先に主任や平社員にやらせた。
光ファイバーの断面を紙ヤスリで丁寧に磨かないと、光の伝達にノイズなどの支障が出る。
ヤスリで磨く時にチカラが均一じゃないと、断面に傷が残ったり断面の端が欠けたりして、やり直しとなる。
本番でこのような失敗を繰り返すと、光ケーブルがどんどん短くなるので、仕事から会社に戻った時間で練習する。

そこでの課長の動きは、散々部下に練習させて、失敗するのを見てる。
ある程度、課長が目処を付けた時に課長が光ケーブルの端末の処理を始める。
そして、課長の端末に光を通してみると見事な出来栄えだった。
こうして、課長は1度も部下に光ケーブルの端末処理の失敗を見せないで『俺は新しいモノが来ても出来ちゃうんだなぁ』と自画自賛した。

ズルいやり方だと思ったが、これはこれで課長の知恵だと思った。
人間として嫌いだが、ズル賢く生きる事も時には必要と学ばせてもらった。腹立つけど。

電気工事士の仕事は毎日ある訳では無かったが、現場の無い日は、会社の作業場で様々なケーブルの処理を練習する。
だから、実質ヒマな時間は無かったが、この練習の時に課長が居ると一気に今現代でいうパワハラの時間になる。

新人に対して容赦なくダメ出しをする。
仕事に関係のある、ケーブルの処理の仕方に文句を言われるのは耐えられる。
何せ、こちとら素人なので下手なのは当然。逆にありがたく思う事に決めていたが、人間的な蔑視や仕事とは関係無い課長の無駄話に付き合わされるのがキツかった。
これで辞めた後輩もいる。


電気工事の仕事は夕方には終わるので、18時頃には全員会社に居る。
翌日の現場が決まっていたら、その準備(必要な工具やケーブル等を車に載せて)で、その日の仕事は終わりだが、ここからすぐには帰る事は出来なかった。

私が入社する前からの習慣なのか、課長が帰ると言わないと帰れない風潮だったのだ。
課長は大のおしゃべり好き。
その話を聞かずに帰ろうとすると、その人に人間蔑視の罵倒タイムになるのだ。

だから、帰って休みたくても帰れない。
夕方から課長の下らないおしゃべりが続く。
課長が話す内容によっては何故か主任に八つ当たり的なスイッチが入る時がよくあった。
あの主任は私より数年くらいの歳上だが、よく耐えていたと思う。耐えていたのかスルースキルがあったのか。
この無駄話に付き合うくらいなら、作業場で練習して帰れない方がよっぽどマシだ。
18時頃から、20時~21時くらいまで課長の独壇場が毎日続く。
現場で6時間作業する方が時間が早く感じるほど、苦痛で長い時間だ。

課長は会社内で好きに出来るから、会社に居る事が楽しいのだろうが、付き合わされる社員は毎朝疲れが取れてない顔で出社する。
私もそうだ。

半年ほど経った辺りでこの会社を辞めた。
仕事のスキルが身に付く前に、疲れを回復出来ない状況に未来を見出だせなかったからだ。

「上司に恵まれなかった」
このキーワードは後々、あるドラマの台詞に出て来るが当時は、モヤモヤした感じをしていた。

23歳、また職探し。
電気工事の会社の状況下にいる限り、転職活動の時間が全く無く、無職で職探し。

今度は[社員待遇有り]のアルバイトを探す事にした。

相変わらず世の中は不景気で、なかなか見つからない。
職安から面接に行った事もあったが、ある面接で『職安の人間は何でもかんでも人をよこす。勘弁して欲しいよ』と訳のわからない愚痴を聞かされる事があった。
でも、そのおかげで職安の紹介は大してアテにならない事実を知る事が出来た。

おかしな面接は他にもあった。
これも職安を通しての面接だったが『ウチの会社はね、あと1人でも社員が増えると潰れてしまうんだよ!』。
私は「だったら何で求人募集かけてるんだ?」と心の中で突っ込んだ。
追求はしなかったが、職安と企業の間に何かがあるのだと感じたが、私の知る所ではないので、私は私の職場を探す事に専念した。
電気工事の会社以外にも、おかしい会社は沢山あるんだなと勉強になった。

面接は基本、会社が雇用者を判断する場だが、雇用希望者側から会社を判断する余裕まで出て来た。
だから、気持ち悪いくらいに『とにかく早く来て欲しい』とかいう返事の会社は、あえて断った。

そして、電気工事士を辞めて数ヶ月。
電気工事士の道も意識はしていたが、全く畑の違う[水産加工工場]の作業員になる事にした。

実はこの水産加工工場は、電気工事士の仕事をする前に面接をして落ちていたのだが、
2度目の面接に気付いた社長と工場次長が覚えてくれていて、まずはアルバイトから、という話で入社する事になった。

私が電気工事士になる前から求人があって、まだ募集してるという事は、相当キツい仕事なのか、入っても辞めて行く人が多いのか、色々と不安があったが、とりあえず現場を見てみない事には何とも判断が出来ないので、水産加工工場のアルバイト要員として、この会社でスタートをした。


朝は電気工事士よりはるかに早い時間に起きる。
自宅から近いバス停の始発6:45だったかに乗って出社。
帰りは、その日の工場の終わり具合にもよるが、19時~20時台のバスに乗って帰宅。

工場現場の社員は数名だが、パートのオバチャンが30名くらい居て、工場特有の[流れ作業]で、体力以外にも集中力が要る。

海産物とは縁の無い土地で学生時代を過ごしたので、知らない事やモノで溢れていた。

工場にあるモノや用語や知らない言葉を覚えるのにいっぱいいっぱい。
23歳とは素晴らしいモノで、余計な価値観が無い分、新しい事はどんどん吸収出来た。

女性であるパートのオバチャンには出来ない、力仕事は男性社員・アルバイトに架かって来るが、それは想定内だ。

ただ、私は以前コンビニの仕事で[椎間板ヘルニア]を発症しているので、そこは細心の注意を払った。

そして、3ヶ月くらいだったかアルバイトとしての試用期間を終え、水産加工工場の社員になる事が出来た。
社長からは、1度目の面接で私を落とした事を後悔した、と言われた。
私と同じ時期にアルバイトから社員になった同期が1人いた。
その同期も居たからここまで来れたと思った。

アルバイトは順調だったので、社員になってから何が変わるのか不安はあったが、同期もいるし、頑張ろうと思った。
ちゃんと社会人としてのスタートラインにようやく立てた気がした。


しかし、社会の厳しさをこれから味わう事になる…。


…続く。
前記事からの続き。


次は、派手な営業ではなく、落ち着いた感じの営業を探そうとして…、
受かったバイトは[健康食品]を売る、室内の仕事だ。

警備の仕事で、健康を意識したのか、それ系で探して働く事になったが…。

私は、世間知らずだったので、その仕事に衝撃を受けた。
[健康食品]とうたっているが、要は必要の無い、訳のわからない身体に良さそうなサプリメントや食品を、お年寄りに言葉巧みに売り付ける仕事だったのだ。

今現在も似たような[健康食品]のプレハブやテナントビルの1階を見ると当時を思い出す。
毎回開催時間を看板に出してお年寄りの方が15人~30人くらい集まれるスペースがあった。

その[健康食品]の会社では、先輩達(私より3~5年ほど歳上)が巧みに、お年寄りにこの商品がスゴく身体に良いと口説いている。

新人の私の初日は、その現場を見る事だけだった。
(商品も知らないのに、いきなりやれ、は不可能だからね)

集まったお年寄りたちは、次々と商品を買う契約をする。半年契約とか1年契約とか。

少し心理学をかじっていた私は、集団心理を利用してると感じた。

また、契約したお年寄りが友人の方にも『あんたも買った方がいいでしょ!』と勧めているのだ。
この光景を見て、一種の宗教めいた恐ろしさを感じた。

さらに恐ろしかったのは、私が行った現場の責任者(この人は30歳代)は、会社の誰かと電話していて
『俺達は、お金と時間が余ってる60歳~の人をターゲットに商売してる訳。なぜなら時間が余ってるから話相手になってやってるし、余ってるお金の使い道まで教えて(健康食品を買わせて)やってるんだから、何が悪い?』

…この責任者の電話を聞かなかったら、この健康食品の仕事を[人の為]と少しは頑張ったかもしれないが、明らかに詐欺まがいの金儲けの手段で、お年寄りからお金を搾取してる会社と確信したので、2日目の研修の最後まで、その会社の営業のやり方を観察した後、責任者に「私には出来ない仕事です。お年寄りを騙す事は出来ません」と語彙力が無い私はストレートに伝えた。

すると責任者からは当然怒られたが、社会人として2日目で辞めるなんてと怒られてる分には全く反論は無かったが『俺達の商売は正義』みたいな長々とした説教には怒りを覚えた。

社会で生きて行くには、汚れなければならないのか。
自分の事を清潔とは思ってないが、あれほど卑劣な仕事で生きて行ける程汚れてはいない。

たった2日で仕事を辞めて、また仕事を探さなくてはならない。

今度は、コンビニでのアルバイトが決まった。
オープンしてから2ヶ月しか経ってない新しいお店だ。
夜中の方が時給が良いので、22時~翌7時のシフトで働く事になった。


コンビニの仕事は程好く忙しかった。
何せ、入りたての時は覚えないといけない事が多い。
接客にはじまり、多く扱ってる商品を覚える。
沢山種類のあるタバコの銘柄を小さなノートにメモをして覚えた。

コンビニは高校生でも出来るから誰でも出来る、というのは少し違う。
高校生が働けてるのは、高校生が出来る範囲の仕事しか与えていない、のが正しい。

実際に成人としての仕事は、責任が伴う。
私が働いたコンビニはオーナー店で、本部直営店ではなかったので、オーナー・店長が居ない真夜中の時間帯を任されているのだ。

数ヶ月で、オープンから居た先輩が違う進路を見つけて辞めて行ったので、私が真夜中の責任者のようになった。

先に居た先輩2人は、怠けたりサボったり、勝手に店の商品を飲み食いしていて、私の嫌いな人種だったが、居なくなってようやく呼吸が出来る気持ちになった。

私は、そのコンビニの店長(オーナーの息子・実質経営者)と真夜中の事を報告して、昼間と夕方と1日全体の流れの話が出来るようになって、真夜中のシフトの人間が出来る仕事を引き受け、また真夜中から朝のシフトへの引き継ぎを明確に伝えるようにした。

お店のオープンから2ヶ月経ってからの私の登場だったが、店長たちからは『真夜中のシフトの基盤を築いた人』と称えられた。

コンビニはアルバイトで成り立ってるので、大学生が真夜中のシフトに入って来る事が多かった。
私がこのコンビニを辞めるまでの約2年間に沢山の後輩を育ててきた。もちろん、私のチカラだけではない。
他の時間帯とのパイプを強くしたので、お店のスタッフみんなで成長していった。

コンビニの仕事は楽しかった。
広く深くやろうと思えば、飽きが来ない。
こだわりを持たなければ、どんな仕事にも飽きが来る。

しかし、コンビニで働き始めて1年過ぎのある時、椎間板ヘルニアを発症してしまう。

椎間板の2箇所が潰れた状態で、神経を圧迫していた。
21歳の私に医師は『君はまだまだ若いので筋肉のコルセットを付けるように周りの筋肉を鍛えなさい。』と言った。

本当に若かったので、約2週間で痛みが和らいできた。
その約2週間はお休みを頂いたが、コンビニの現場へ復帰した。

が、しかし、また腰が痛み出してきた。
コンビニの商品棚は、商品を陳列や棚を清掃する時に中腰になりがちで、重い物を持っていなくても、腰には負担のかかる職業だとわかった。

そして、私の心の中で、そろそろ正社員の仕事を探してアルバイトを卒業する気持ちが芽生える。

コンビニのアルバイトでは収入に限界はあるし、病欠した時は保障が無かったし(今思えば労災だが、当時は労災という言葉を知らなかった)、将来結婚して…などを考えると…。
私が正社員を探す事を店長に話して、納得してもらった。

ここのコンビニでの約2年間のアルバイト生活は、人生で一番働いていて楽しい思い出となった。

そして、正社員を目指して就いた仕事は[電気工事士]だ。
特に工業高校の出ではないので、知識は無に等しいが、資格など取れれば将来性があると思ったので、小さな有限会社だが入社した。

電気工事屋にも色々あるが、私が入社したのは軽電の方で、テレビアンテナ工事や、電話回線工事など、比較的安全な電気工事屋だ。
私が22歳のこの頃の電話回線は、まだ6芯や4芯が主流だった。
インターネット回線もダイアルアップが当たり前で、ADSLなんてまだ高価で新しい時代。
光ファイバーケーブルが登場したてで、ケーブルの先端を綺麗に磨いて、傷が無いか光を当てて目で確認して接続していた、今現代では信じてもらえないような時代だった。

そんな電気工事士の仕事は…。



…続く。
1日ほど前に高須院長が発信した『甘ったれるな若者!』のツイートがあって、反響が大きくてニュースになっていたのを先ほど知った。

私はTwitterアカウントを持っていないので、ニュースで知る事になったが、賛否両論あったようだ。
意見は色々あって良いと思う。
ただ、人権差別的な言葉を安易に使う(院長の事を老害とか罵る)人は、人として礼を失している。

高須院長のツイートの内容は検索すると出て来るので、ここでは割愛します。


私の経験談になります。
主観的な書き方なので、語弊があると思いますが、綴ります。

私が社会に出たのは専門学校を卒業した20歳。
今から23年ほど昔。
バブルは弾けた後で、社会は暗黒な雰囲気を醸していた。

私の世代は『団塊2世』と呼ばれる世代で、とても同世代が多かった。
高校進学するときも新聞には『倍率過去最高』
大学には行かなかったが、新聞には『入試倍率過去最高』
就職する20歳の時は『就職倍率過去最高』『深刻な失業率』
そんな新聞記事を当たり前に目にして来た。

私は美術専門学校を卒業したが、その専門職には就けなかった。
いくつもの面接を受けたが『倍率』に負けた人間だ。

親元から離れ、親とは違う街で独り暮らしをしていたので、働かなければ生きて行けない。

専門職に関係無い、それこそ高校を卒業していればオッケー的なアルバイトの面接も随分と受けたが『倍率』にかなりやられた。

逆に、美術専門学校を卒業したのが面接に悪い影響が出た場合もあった。
『美術専門学校を卒業して、何で(美術とは関係の無い)弊社の仕事をしたいと思ったのかね?』と面接官に問われる。
「生活の為だよ!」とは言えず、色々と興味を持った体をとったが、見破られていた。

専門学校を卒業したてで、まだ親から就職するまで仕送りをして貰っていたので、生活は出来たが、若い時の時間の流れは密度が高く、無職でいると暇な時間が苦痛だった。

暇な時間は、専門学校の友達などで埋めたが、無職でお金が無いので大した事は出来ない。

就職がなかなか決まらず、アルバイトの方へ重心を向けて、最初に決まったのが[警備員]のアルバイトだった。
[施設警備員]ではなく[工事作業現場警備員]の方である。
言い方は失礼だが、少々お歳を召した方々も出来る仕事だ。
日給計算の月給制で、時給制の仕事より貰えるお金が多かったから、そこに決めただけだった。

工事の現場へ行き、ダンプカー・トラックの出入りを警備する。
片側交互通行になった工事現場で、一般車両の通行を誘導する。

仕事は簡単だった。いや、単調だった。
時間の流れの密度の高い20歳という若者の私には、警備の仕事に「暇疲れ」を感じる。
外の仕事なので、もちろん雨風にさらされたり、太陽の真下で焼ける思いもする。
もともと美術専門学校を卒業した人間なので、一日中外気の変化にさらされると身体がおかしくなってきた。
車が行き交う場所での警備の日は、仕事が終わって鼻をかむとティッシュが砂埃で真っ黒だ。
喉にも砂のザラザラが残っている。
なので、風邪の時に使うマスクを着用して警備にあたるが、
白いマスクはほんの1時間で、鼻の穴が描かれたように黒くなって、1日に何枚も取り替える。

マスクを着用して仕事したにも関わらず、帰宅して鼻をかむとティッシュが砂埃で真っ黒。
しないよりはマシだが、マスクの効果は薄かった。

そのうち、咳が出るようになり、痰と一緒に砂埃が出て来る。
その事で特に体調は崩してはいないが、こんな砂埃や排気ガスを毎日吸っていたらヤバいと感じた私は、働きながら別のバイトを探す。

バイトが受かったので、警備を辞めた。お歳を召した人でも出来ると思った警備の仕事は、実は身体にリスクの高いモノと知った。
それでも、いい歳で工事現場警備員をやってる人は、それが合う人か、その仕事を続けるしかない状況下にいるのか…考えさせられた。

ずるいようだが、私はまだ20歳だったので、まだ選べる。

次に私が選んだ仕事は[携帯電話販売の営業]だった。
現在は携帯・スマホは当たり前だが、約23年前は『電話なんて、いちいち持ち歩かないよ』というのが当たり前だった。
ちょうど携帯電話が小型化に成功して、電話会社が『売り込むぞー』と活気が良い時期だった。

私の父親は、ある会社の営業マンだ。
畑は違えど、営業マンの世界を父親に重ねて体験したかった。
というのは建前で、警備の給料を体験したら時給とかは安くて、給料の良い飛び込み営業にチャレンジする事になった。

当時、動画を撮る事が可能だったら是非観てもらいたいくらい『携帯電話?何それ?月額そんなに払って電話なんて持たねぇよ』という反応が約9割の世の中!

私がその携帯電話販売の営業マンの時は、まだ[メール]という機能が無かったので、そりゃ特殊なお仕事の人しか持たないわな、というスペックだった。

2ヶ月勤めたが、結局1件も契約が取れず、自分で自分の携帯を契約して1件契約を取ったのが唯一。
『親でも親戚でも知り合いにでも、契約とってこい!』と会社は言っていたが、私には出来なかったというか、そういうやり方が嫌いなので、やらなかった。

飛び込み営業で、当時まだ存在してたサラ金業者のお店にも行った事がある。
法人契約が取れると、当然複数回線契約がGETできるので、法人狙いはよくやったが、サラ金業者の人でさえ『携帯電話?はぁ?いらん』という時代だった。

携帯電話販売営業マンに課せられたノルマは1日3回線以上の契約。
朝礼では昨日の結果を各々の営業マンが自ら発表し、3回線以上の契約が取れた人には[みんなで拍手]、取れなかった人には[沈黙]。

携帯電話販売の営業マンの仕事も、求人広告には高額給料の待遇の良さをうたっていたけど、ほぼ毎日ノルマを達成しないとその高額給料は貰えませんでした。
…当たり前ですね。

ノルマを1度も達成出来ず『要らない』と言う人にゴリ押し出来ない性格の私は、この仕事を辞める事にしました。

次は、派手な営業ではなく、落ち着いた感じの営業を探そうとして…、
受かったバイトは[健康食品]を売る、室内の仕事だ。

警備の仕事で、健康を意識したのか、それ系で探して働く事になったが…。



つづく…
昨日は、おじいちゃんのお通夜。
7月上旬並みの暖かい晴れた日だった。
お通夜が終わって、おそらくみんな家に着いてゆっくりしている夜の遅い時間に雨が降りだした。
まるで悲しみの雨のように。

翌朝には雨は止んでいたが、雨で気温が下がり、少し寒く曇った天気で、少し重かった。

お葬式が行われ、柩のおじいちゃんに花を捧げた。
曇り空の中、お寺から出棺し、火葬場に向かう。

約2時間後、おじいちゃんの肉体は天へ昇り、お骨へと姿が変わったおじいちゃんを箱へ納めた。

お骨を再びお寺へ運び、繰り上げ法要を行うのだが、
お寺に向かうバスに乗る時には、空はすっかり晴れていて、眩しかった。

そして、暑すぎず心地よい晴れが続いた。朝の重さが嘘のように軽くなっていた。

繰り上げ法要を終え、私の役割は全て終えた。


そして、春の涼しい陽気。
おじいちゃんを天気で表現すると、こういう事なんだと感じた。

やさしく、大きな空が、私の瞳を濡らす。
雨ではない。

悲しいというより、あまりにも広い空に感激していた。

この空はおじいちゃんそのもの。
そう感じた。


さらに、やさしい暖かさに包まれた外の空気。

また、視界がボヤけてくる。


今日は、とても穏やかな日。
おじいちゃんの身体が、天に昇った日。


今日の天気は『私のおじいちゃん』。


おじいちゃん、とてもやさしい日をありがとう。

※モバゲー日記からの転載。

 

昨日、祖父が逝去しました。
100歳を越えた大往生でした。
日付が変わった本日は、帰省して準備をして、30日に通夜。
5月1日にお葬式に行きます。

モバ活動は少しお休みさせて頂きます。

大好きなおじいちゃん、ありがとう。
ちゃんとお別れしないと。
おばあちゃんが亡くなって20年以上、おじいちゃんはちゃんと仏壇を護っていたね。
おじいちゃんはおばあちゃんに会いに行く準備をしないとね。
だから、ぼくらはそのお手伝いに行くんだ。

 

昨日、親から電話が来て、祖父が逝去したと伝えられた。
日付が変わった本日、実家へ帰省して準備をして、さらに親の実家の町へ行き30日に通夜。
5月1日にお葬式。

おじいちゃんが100歳の時に会いに行ったのが最後になってしまった。
あれから5年は経っただろうか。
大往生だったと思う。

100歳になったら内閣総理大臣から賞状を貰えるのを、初めて知った。
あの時の内閣総理大臣は野田佳彦だった。
自民党が野党だった珍しいタイミングの100歳の賞状。

自慢のおじいちゃんだ。
私が幼い頃は、ひょうきんで、よく笑わせてくれた。

私が20歳の時に、おじいちゃんは、
『知恵は持っているだけではだめだ。
知恵は使わなければ意味が無い。
知恵はお金に変えなければだめだ。
お金は持っているだけではだめだ。
お金は使わなければ意味が無い。
物事には意味があり、何事も行動しなければ、その意味が現れない。
意味を見極め、使い道を誤ってはいけない。』と。
成人20歳となった私に初めて、大人な話をしてくれた。
この言葉の意味が深くて、理解するのに、かなり年月を要した。

そして、この言葉は私の人生の場面で所々思い出される金言だったと解った。

おじいちゃんは凄い。
時代が変わっても、通用する真理を孫の私に真剣に伝えてくれた。
私は孫なので、わからなかったが実際のおじいちゃんは自分の息子・娘達には厳しかったらしい。
私が物心がついた時は、ほとんどの息子・娘達が結婚していたので、厳しいおじいちゃんを知らない。

私が幼い頃は、ひょうきんなおじいちゃん。
私が成人してから、ひとりの大人として接してくれたおじいちゃん。

100歳の時に会った時は『あまり長生きすると息子や娘達に迷惑ばかりかけるから、そろそろいかないと申し訳ない。』と言っていたのが胸に刺さって、それ以来おじいちゃんが元気かどうか毎年、親に様子を聞くようになった。

おじいちゃんは、いつも自分より周りの人々を大切に思っていた。

100歳越えても車椅子は使っていなくて、杖をついて自分の足で歩いていた。
少しでも周りに心配させないという気迫か、大病にもならなかった。
正確には大腸癌を患っていたけど、発症した年齢が年齢だけに癌細胞も成長出来ず、手術で摘出するまでもない状況だった。

昨日、何が原因で亡くなったのかは、まだ詳しく聞いてないが、容態が急変して亡くなったらしい。
おそらく、それまでは普通におじいちゃんの毎日を過ごしていたと思う。
何かあったら困るので施設には入ってはいたけど、介護があまり必要ではない珍しいおじいちゃんだった。

私は100年生きれる自信は無い。
実際に100年生きてる人を見ると、とてもたどり着けそうにない。
100年生きれるというのは、ある種、次元を越えた感じがする。

そんなおじいちゃんも、ついに逝ってしまいました。
覚悟はしていたけど、やはり悲しい。
偉大な人には、いつまでもいて欲しい。
しかし必ず死は訪れる。
その師たる存在の死を乗り越えて生きなければならない。
だからこそ、お通夜とお葬式にはきちんと出たい。




大好きなおじいちゃん、ありがとう。
ちゃんとお別れしないと。
おばあちゃんが亡くなって20年以上、おじいちゃんは、ちゃんと仏壇を護っていたね。
おじいちゃんはおばあちゃんに会いに行く準備をしないとね。
だから、ぼくらはそのお手伝いに行くんだ。

本日、DEMENTOのアイテム回収率100%の動画を

4パートに分けてYouTubeにアップしました。

 

わかりやすいように追跡者ごとにパートを分けて公開しました。

 

 

[字幕動画]デメント DEMENTO アイテム回収率100%を達成【01】 〜Haunting Ground Treasure Hunter

https://youtu.be/MhyTzJKo6cA

 

 

[字幕動画]デメント DEMENTO アイテム回収率100%を達成【02】 〜Haunting Graund Treasure Hunter

https://youtu.be/Gh-gE9VFgJ4

 

 

[字幕動画]デメント DEMENTO アイテム回収率100%を達成【03】 〜Haunting Graund Treasure Hunter

https://youtu.be/rl2l5HGt-yc

 

[字幕動画]デメント DEMENTO アイテム回収率100%を達成【04 END】 〜Haunting Graund Treasure Hunter

https://youtu.be/LUE60VEiOzE

 

 

 

DEMENTO Treasure Hunter 100% 再生リスト

https://www.youtube.com/watch?v=MhyTzJKo6cA&list=PLgz7_BGdaw7spaJmieBbfqQeNgArXc6vD

 

 

本当は、本日から1本づつ、4日に分けて公開予定でしたが、

先程、祖父が亡くなったとの連絡を受け、明日から急遽帰省する事になったので

まとめて4本を公開しました。

 

動画は、早送り形式で、どのように行けばどのアイテムが拾えるか

わかりやすいかと思います。

早送りのスピードはやや早目ですが、どのルートで移動しているのかは充分にわかるかと思います。

 

この動画を参考に、デメントをプレイして称号「トレジャーハンター」をGETしてもらえたら幸いです。

よろしくお願いします。

 

デメントのアイテム拾い、
2日間使えばやりきれると思っていたけど、ミスが多く倍近くの時間を使ってしまいました。

デメントでは、アイテム回収率が80%以上だと『Treasure Hunter』の称号が貰えます。

今回は、究極の『アイテム回収率100%の動画』を完成させました。
週末にはYouTubeでアップする予定です。

アイテムを拾う場所がわかりやすいように、動画をカットしないで早送りで短縮した形をとりました。

攻略本や攻略サイトにあるような、どこどこの何階の何の部屋に何々、みたいな表示だと判りにくいので、それを動画で通訳した感じをイメージしました。

アイテム回収率100%の動画なので、当然エンディングまでプレイしてますが、補足程度に攻略ポイントも字幕で紹介してます。
そう、このデメントの動画は生声解説はありません。

どこにアイテムがあるのかを観てもらうのに、生声は邪魔だと思ったので所々に字幕を入れて制作しました。

先週のテストプレイではアイテム回収率が96%から上がらなくて色々検証したら無事に解決しました。

ニコニコ動画はチェックしてませんが、YouTubeでデメントのアイテム回収率100%動画は、世界の誰もやっていないようだった(海外版はDEMENTOではなくHaunting Ground)ので、海外からの視聴も期待して、動画名に『Haunting Ground』も入れます。

2005年に発売された、今となっては古いゲームなので、視聴回数はあまり期待はしませんが、海外版もアイテム配置の仕様は同じなので、言語が違っていても物好きな方に観て頂けたら幸いです。

最後のYouTube投稿から1カ月を過ぎて、久々の投稿になりますが、生声無しの動画の視聴回数の動きが楽しみであり、不安でもあります。

無名のプレイヤーなので、多分そんなに変化はないと予想。
オマケに、アイテム回収率100%なんてマニア志向の主旨だし…。

でも、YouTubeが無かったらアイテム回収率100%なんてやらなかったと思うので、良い経験をさせてもらいました♪

昨日は、大学病院からの遅い紹介状を持って脳神経外科へ行き、
検査結果と紹介状をもらったので、今日ようやく行き付けの眼科で診てもらう事が出来た。
視界が無くなった症状から約半月で一段落した。

結果は、以前くらいに視界は回復して、脳神経外科でも頸動脈から眼動脈にかけての異常が無いという事だった。

眼科の先生から『異常出なかったね…』と、原因不明のままだが、とりあえず今日の診察でも異常が無かったので、来月に検査通院する事になった。

明日は、また彼女の違う科の定期通院があり、明後日は彼女と私の歯医者への定期通院がある。

時間のスキをついて、デメントのゲームプレイ動画を外出中の時間を利用してパソコンに取り込んでる段階。
デメントのアイテム拾い、攻略本を何度見てプレイしても回収率が96%なのは何故だろう?
私が見落としてるのか、攻略本が完璧ではないのか…。

最近は、1日1日があっという間に感じる。