【その3】昔の自分を思い出す | 気まぐれ日々

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気まぐれに思った事、感じた事を綴ります。

前記事からの続き。



電気工事士の会社は小さく、社長・課長・主任・他自分を含めて4名。
社長は電気工事士の資格は無く、課長と主任が有資格者だった。

なので、実質は課長が現場で一番権力がある。
その課長が厄介な人物で、人間としてどうかという性格だ。
40歳代で結婚して妻もいるが『俺が家に帰って飯が出て来るのは当たり前』とか、プライドが高く、常に人を見下している節がある。

仕事中でも、見た事も無い古いケーブルの端末を修理をして『初めて見るモノでも直せちゃうのが俺なんだなぁ』と自画自賛する場面も見た。
仕事の実力はある、でも人間として嫌い。

先日書いた、光ファイバーケーブルの件では、
会社に初めて光ファイバーケーブルが届き、端末処理の仕方を書いた説明書があったが、課長は先に主任や平社員にやらせた。
光ファイバーの断面を紙ヤスリで丁寧に磨かないと、光の伝達にノイズなどの支障が出る。
ヤスリで磨く時にチカラが均一じゃないと、断面に傷が残ったり断面の端が欠けたりして、やり直しとなる。
本番でこのような失敗を繰り返すと、光ケーブルがどんどん短くなるので、仕事から会社に戻った時間で練習する。

そこでの課長の動きは、散々部下に練習させて、失敗するのを見てる。
ある程度、課長が目処を付けた時に課長が光ケーブルの端末の処理を始める。
そして、課長の端末に光を通してみると見事な出来栄えだった。
こうして、課長は1度も部下に光ケーブルの端末処理の失敗を見せないで『俺は新しいモノが来ても出来ちゃうんだなぁ』と自画自賛した。

ズルいやり方だと思ったが、これはこれで課長の知恵だと思った。
人間として嫌いだが、ズル賢く生きる事も時には必要と学ばせてもらった。腹立つけど。

電気工事士の仕事は毎日ある訳では無かったが、現場の無い日は、会社の作業場で様々なケーブルの処理を練習する。
だから、実質ヒマな時間は無かったが、この練習の時に課長が居ると一気に今現代でいうパワハラの時間になる。

新人に対して容赦なくダメ出しをする。
仕事に関係のある、ケーブルの処理の仕方に文句を言われるのは耐えられる。
何せ、こちとら素人なので下手なのは当然。逆にありがたく思う事に決めていたが、人間的な蔑視や仕事とは関係無い課長の無駄話に付き合わされるのがキツかった。
これで辞めた後輩もいる。


電気工事の仕事は夕方には終わるので、18時頃には全員会社に居る。
翌日の現場が決まっていたら、その準備(必要な工具やケーブル等を車に載せて)で、その日の仕事は終わりだが、ここからすぐには帰る事は出来なかった。

私が入社する前からの習慣なのか、課長が帰ると言わないと帰れない風潮だったのだ。
課長は大のおしゃべり好き。
その話を聞かずに帰ろうとすると、その人に人間蔑視の罵倒タイムになるのだ。

だから、帰って休みたくても帰れない。
夕方から課長の下らないおしゃべりが続く。
課長が話す内容によっては何故か主任に八つ当たり的なスイッチが入る時がよくあった。
あの主任は私より数年くらいの歳上だが、よく耐えていたと思う。耐えていたのかスルースキルがあったのか。
この無駄話に付き合うくらいなら、作業場で練習して帰れない方がよっぽどマシだ。
18時頃から、20時~21時くらいまで課長の独壇場が毎日続く。
現場で6時間作業する方が時間が早く感じるほど、苦痛で長い時間だ。

課長は会社内で好きに出来るから、会社に居る事が楽しいのだろうが、付き合わされる社員は毎朝疲れが取れてない顔で出社する。
私もそうだ。

半年ほど経った辺りでこの会社を辞めた。
仕事のスキルが身に付く前に、疲れを回復出来ない状況に未来を見出だせなかったからだ。

「上司に恵まれなかった」
このキーワードは後々、あるドラマの台詞に出て来るが当時は、モヤモヤした感じをしていた。

23歳、また職探し。
電気工事の会社の状況下にいる限り、転職活動の時間が全く無く、無職で職探し。

今度は[社員待遇有り]のアルバイトを探す事にした。

相変わらず世の中は不景気で、なかなか見つからない。
職安から面接に行った事もあったが、ある面接で『職安の人間は何でもかんでも人をよこす。勘弁して欲しいよ』と訳のわからない愚痴を聞かされる事があった。
でも、そのおかげで職安の紹介は大してアテにならない事実を知る事が出来た。

おかしな面接は他にもあった。
これも職安を通しての面接だったが『ウチの会社はね、あと1人でも社員が増えると潰れてしまうんだよ!』。
私は「だったら何で求人募集かけてるんだ?」と心の中で突っ込んだ。
追求はしなかったが、職安と企業の間に何かがあるのだと感じたが、私の知る所ではないので、私は私の職場を探す事に専念した。
電気工事の会社以外にも、おかしい会社は沢山あるんだなと勉強になった。

面接は基本、会社が雇用者を判断する場だが、雇用希望者側から会社を判断する余裕まで出て来た。
だから、気持ち悪いくらいに『とにかく早く来て欲しい』とかいう返事の会社は、あえて断った。

そして、電気工事士を辞めて数ヶ月。
電気工事士の道も意識はしていたが、全く畑の違う[水産加工工場]の作業員になる事にした。

実はこの水産加工工場は、電気工事士の仕事をする前に面接をして落ちていたのだが、
2度目の面接に気付いた社長と工場次長が覚えてくれていて、まずはアルバイトから、という話で入社する事になった。

私が電気工事士になる前から求人があって、まだ募集してるという事は、相当キツい仕事なのか、入っても辞めて行く人が多いのか、色々と不安があったが、とりあえず現場を見てみない事には何とも判断が出来ないので、水産加工工場のアルバイト要員として、この会社でスタートをした。


朝は電気工事士よりはるかに早い時間に起きる。
自宅から近いバス停の始発6:45だったかに乗って出社。
帰りは、その日の工場の終わり具合にもよるが、19時~20時台のバスに乗って帰宅。

工場現場の社員は数名だが、パートのオバチャンが30名くらい居て、工場特有の[流れ作業]で、体力以外にも集中力が要る。

海産物とは縁の無い土地で学生時代を過ごしたので、知らない事やモノで溢れていた。

工場にあるモノや用語や知らない言葉を覚えるのにいっぱいいっぱい。
23歳とは素晴らしいモノで、余計な価値観が無い分、新しい事はどんどん吸収出来た。

女性であるパートのオバチャンには出来ない、力仕事は男性社員・アルバイトに架かって来るが、それは想定内だ。

ただ、私は以前コンビニの仕事で[椎間板ヘルニア]を発症しているので、そこは細心の注意を払った。

そして、3ヶ月くらいだったかアルバイトとしての試用期間を終え、水産加工工場の社員になる事が出来た。
社長からは、1度目の面接で私を落とした事を後悔した、と言われた。
私と同じ時期にアルバイトから社員になった同期が1人いた。
その同期も居たからここまで来れたと思った。

アルバイトは順調だったので、社員になってから何が変わるのか不安はあったが、同期もいるし、頑張ろうと思った。
ちゃんと社会人としてのスタートラインにようやく立てた気がした。


しかし、社会の厳しさをこれから味わう事になる…。


…続く。