『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の社会学における意義と限界 | 文字の風景──To my grandchildren who will become adults someday

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慶應義塾大学文学部 英米文学専攻(通信教育課程)を卒業後、シェイクスピア『ハムレット』の研究に専念しながら、小説、ノンフィクションなどの分野で執筆活動をしています。日本シェイクスピア協会会員。

 

 

 

 マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の大要、ならびに本書の社会学上の意義と限界について述べる。マルクスは、1848年2月の2月革命によって成立したフランスの第2共和政の歴史、すなわち1848年12月10日のルイ・ボナパルトの大統領選挙の当選から1851年12月2日のクーデタまでの政治情勢を分析の中心にあてている。とりわけ、民主主義高揚の頂点ともいうべき2月革命から一変して、軍事独裁体制へと移行していったのはどうしてなのか?──マルクスはこの謎を「史的唯物論」に立脚して解き明かしている。

 

Ⅰ 2月革命からボナパルトのクーデタに至る経過

 

 7月王政下のフランスでは産業革命の進行とともに労働者の間では共和主義や社会主義の傾向が強まりをみせた。特に厳しい制限のある選挙制度に対する不満は強く、1848年2月、選挙法改正を要求する集会が弾圧されたことが契機となってパリで革命が起こった。この2月革命によって7月王制は倒れ共和政が樹立された。臨時政府は、普通選挙を導入して、同年4月に選挙を実施し、国民多数を占める農民が支持したため自由主義的な共和政府が樹立された。同年12月10日の大統領選挙では、ナポレオン1世の甥のシャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルトが当選した。彼は、秩序党(第二共和政期に形成された王党派,反共和主義派。大地主を代表するブルボン正統主義者と、金融貴族や大商工業資本家の利益を代弁するオルレアン王朝派との協力関係によって成立)の内紛を利用して、51年議会に大統領の再選を禁止する憲法条文の改正を提案した。しかし、議会がこれを拒否すると、彼は王党派議会との政治的軋轢に業を煮やし、51年 12月2日クーデタを決行した。国民議会の閉鎖を宣言するとともに、普通選挙制の復活を告げ、そのおよそ半月後に実施された国民投票で皇帝になり、ナポレオン3世と称した。

 

 何故にルイ・ボナパルトのクーデタが承認されたか──これについてマルクスは次のように述べている。「フランスの農民事情は私たちに12月20日と21日の国民投票[がクーデタを承認した]という謎を解き明かしてくれる。」(註2)その謎について論をすすめる。

 

Ⅱ ボナパルトを支持した分割地農民をはじめとする諸階級の状態

 

 1.分割地農民とのかかわり

 

 1848年の大統領選挙では、ルイ・ボナパルトは保守勢力の支持のもとに立候補したにもかかわらず、都市部のみならず農村部でも大きな支持を得た。マルクスは「ボナパルトは一つの階級を代表している。しかもそれはフランス社会で最も数の多い階級だ。それはあの分割地農民なのだ。‥‥ボナパルトは農民の王朝なのだ」(註3)と述べ、その理由を二つあげている。

 一つは、第一次フランス革命の後、農民たちは半ば奴隷的な状態から自由な土地所有者になり、分割地農民の社会経済的地位は安定をみせた。しかし、ボナパルト時代になると彼らの安定が崩れて、没落が進行してきた。マルクスによれば、農民没落の原因は、「彼の区画地そのもの」(註4)であり、「あの『ナポレオン的』所有形態は、19世紀初期にはフランスの農村住民を解放し、裕福にするための条件だったのだが、今世紀の時の流れの中で、彼らを隷従させ貧しくさせる法則へと変貌してしまった」(註5)のである。こうして、2月革命の時代ともなれば、分割地農民は経済的にはもはやボナパルト家の階級的支持基盤たる実態を失いつつあった。これが理由の一つである。

 

 2つには、分割地農民の生活様式や利害や教養が他の階級とは違うという点で、彼らは一つの階級を形成しているが、それだけで彼らの共同や政治的な組織なりが生まれるということではなかった。つまり、彼らは階級を形成していない、とマルクスはいう。「彼らは自分を代表することができないので、代表してもらうしかない。彼らの代表はしかも、彼らの主人として、彼らの上に立つ一人の権威者として現われるほかない。他の階級から彼らを守り、彼らに上から雨や日照りを恵む無制限の統治権力として現われるほかないのだ。」(註6)

 

 この2つの理由から「フランス農民のあの奇跡信仰が生れた。それは、ナポレオンという名の男が自分たちに栄光を全て取り戻してくれるだろうというものだった」(註7)。この奇跡信仰にもとづいて、分割地農民たちはボナパルトを支持したのである。経済的理由はすでにその実態を失いつつあるにもかかわらず、いわばイデオロギーの側面としての「ナポレオン伝説」の果した重要な役割をマルクスは指摘している。

 

 2.ボナパルトと中間階級 

 

 ルイ・ボナパルトの権力が、分割地農民やルンペン・プロレタリアートを政治的支持基盤にしているにしても、彼のクーデタは、議会のブルジョアジーと決裂した議会外のブルジョアジー大衆、とりわけ工業ブルジョアジーによって支えられた。彼はブルジョア的秩序を維持するために、保護政策によって商業、工業、銀行の事業といった中間階級の物質的力を上から保護し、発展させなければならなかった。しかし、それは、必然的に、中間階級の政治力をあらたにつくり出すことでもあった。ボナパルトは、中間階級の政治力に反対しながらも、他方では彼らの経済力を高めることによって、結果的には、彼らの政治力を強めるという複雑な矛盾に陥るのだった。それ故、彼は、「中間階級の代表」をもって終始することができなくなる。そこで彼は、こんどは「ブルジョアジーとの対抗上、自分のことを農民の代表であり人民一般の代表であると思う。市民社会の中で下層の人民諸階級に幸福をもたらしたいと願う代表だと自認する」(註8)のである。そのことをマルクスは皮肉を込めて批判している。

 

 「この男のこの矛盾に満ちた使命から分かるように、彼の統治は矛盾だらけだ。だから、あっちによろよろこっちにふらふらしてハッキリしないし、ある時はこの階級を、また別の時はあの階級を、味方にしようとしたり、やっつけようとしたりして、結局全ての人々を一様に怒らせてしまうのだ。」(註9)

 

 3.ボナパルトとルンペン・プロレタリアートの関係

 

 ボナパルトはフランス社会のあらゆる階級の代表者たろうとする。しかし、結局のところ固有の安定した階級的基盤を持つことはできないのである。その点を踏まえた上で、ボナパルトとルンペン・プロレタリアート(以下「ルン・プロ」という)との関係は他と諸階級とは異なっていた。ボナパルトはルン・プロの集団である12月10日会のボスであり、「それは、彼の作品であり、まさに彼の独創的な産物だった。」(註10)ルン・プロを構成するのは「貴族の放蕩衆崩れで生業も素性もいかがわしい連中のほかに、‥‥放浪者、除隊兵士、前科者、ガレー船脱走囚」(註11)等々であり、彼らはボナパルトの「固有の党派戦力」(註12)であった。「彼のために俄仕立ての聴衆を演じ、世間の熱狂を演じて、万歳皇帝と叫び、共和主義者たちを侮辱し、暴行した。」(註13)さらにルン・プロには「彼自身も、彼の周囲の者たち、彼の政府も、彼の軍隊も属していて、軍事的官僚的な統治機構を確立していた。まさにボナパルトと彼らは運命共同体的な関係にあった。(註14)

 

Ⅲ ボナパルティズムとは何か

 

 以上述べたようにボナパルトの手法にみられる典型的な国民支配の権力形態をボナパルティズムという。つまり、ブルジョアジーが自由主義的議会制によって政治的主導権を確立しえない状況下にあって、特に農民の支持を背景にして確立された独裁的統治体制をさす。しかし、単なる上からの専制ではなく、国民投票や普通選挙などの民主主義制度を導入した国民主権の原理に立ち、体制の正統性を保持している点に基本的な特色がある。支配者は国民のナショナリズムを喚起しつつ、諸階級の利害を超越した国家的見地に立つことを強調するが、現実には諸階級の「物質的な生存諸条件」(註15)を踏まえた資本主義的経済発展を強力に推進して、ブルジョアジーの政治的主導権を代行する役割を果たす。すなわち、対立するブルジョアジーとプロレタリアのどちらも政治の主導権を握れず、その均衡に立脚し、保守的な農民を支持基盤に生まれる権威主義的・独裁的な体制こそが「ボナパルティズム」を生む土壌である。

 

Ⅳ 『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の意義と限界

 

 本書で解明されたのはフランス第2帝政の樹立は、「フランスにおける階級闘争というものが事態や情況をつくり出して、そのおかげで、平凡で馬鹿げた一人物が主役を演じることができるようになった」(序文[第2版への マルクス]184-185)のは何故かということである。マルクスは歴史の動きや社会の仕組みを階級闘争を基底に捉える史的唯物論の立場で、第二帝政の基礎がフランス社会の独特な階級構造にあること、そしてボナパルティズムの本質、その成立条件、その特徴について明らかにし、「農民の王朝」などの欺瞞性を暴露し、ボナパルティズム軍隊と官僚に依拠するブルジョアジーの独裁であることを明瞭にしたのである。

 

 本書の批判的な側面としては、マルクスが「ルイ・ボナパルトの権力の開発性、革新性を無視し、権威帝制と自由帝制という第二帝制の双面的性格についても、もっぱら前者の側面を誇張することになった」(註16)、「第二帝制を国家権力の終局形態と見なすことにもなった。‥‥マルクスの所論には、ブルジョア国家が所有する柔軟な発展能力についての過小評価がつきまとっていた。」(註17)との指摘がある。しかし、マルクスが明らかにしたかったことは、エンゲルスが次のように述べていることに端的に示されている。 「(歴史というものの大きな運動)法則が本書でもまた、フランス第二共和制の歴史を理解する鍵を彼に与えたのだ。この歴史的な出来事に際して彼は本書で自分が発見した法則を検証した。‥‥いまもなお、この検証が見事な成績をおさめているということなのである。」(註18)つまり、上記批判の領域についてはマルクスの検証すべき対象から除外されていたのである。特に、「第二帝制を国家権力の終局形態と見なす」との批判は、歴史には発展法則があるとしたマルクスの思想を軽視した主張である。

 

<引用註>

1  那須     102頁。

2 マルクス   173頁。

3 同上     162頁。

4 同上     167頁。

5 同上     167頁。

6 同上     163頁。

7 同上     163-164頁。

8 同上     175-176頁。

9 同上     176頁。

10 同上      99頁。

11 同上      97頁。

12 同上      99頁。

13 同上       99頁。

14 同上       99-101頁参照。

15 同上       61頁。

16 中谷      263頁。

17 同上      263頁。

18 マルクス    189頁。

 

<文献表>

・   マルクス 市橋秀泰訳 『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』 新日本出版社 2014

・   中谷猛、足立幸男編著 『概説西洋政治思想史』 ミネルヴァ書房 1994

・   那須壽『クロニクル社会学』有斐閣 1997

 

<参考文献>

・   市橋秀泰 「訳者あとがき」(『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』所収)新日本出版社 2014

・   植村邦彦 「マルクスにおける歴史認識の方法:『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』をめぐって」(『関西大学経済論集』47号所収) 1997

・   高村忠成 『ナポレオンⅢ世とフランス第二帝政』 北樹出版 2004