右:パブリック・プレイハウスの原型
左:第2期ブラックフライヤーズ座の原型
Ⅲ 劇 場
シェイクスピアが属していたChamberlain’s Menのために脚本を書いた劇場は、ショアディッチのシアター座、ついでその近くのカーテン座、そしてテムズ河南岸のバンクサイドに建設したグローブ座、そして最後に使用したブラックフライヤー座の4軒である。
パブリック・プレイハウス(Public Playhouse)‘public’劇場の特徴は大きくて円形の野外劇場で2,500人程収容できた。HenryⅤの冒頭に‘this wooden O’(Prologue13)[1]とある。あらゆる社会階層の人々を観客とした。フォーチュン座のみ例外で矩形であった。おそらく動物いじめ場(baiting house)と芝居宿をモデルとして、1576年ジェームズ・バーベッジ(James Burbage)は最初の本格的劇場シアター座をロンドン市北郊に建てた、多角形の円形に近い大きな木造の建築物であるが、いくつかの点を改良した(改良点5点は省略)。劇場構造の基本的資料はきわめて少なく、述べられている事柄は仮設・推定であることに注意が必要である。重要な資料は、当時出版された戯曲の本文およびト書(stage directions),1595年に建てられたスウォン座の内部を1596年ごろオランダ人ヨハンネス・ウィット(Johannes De Witt)がスケッチしたものの写し(Arend van Buchellが写し、元のものは消失)、Hensloweが建築業者と交わしたフォーチュン座契約書(1600)とホープ座契約書(1613)、およびヴィッシャー(J.Visscher)のロンドン鳥瞰図(1616)とホラー(Wenzel Hollar)のロンドン鳥瞰図(1647)である。
スウォン座のスケッチはどの程度正確かはわからないが、当時の劇場内部を描いた唯一の資料である。動物いじめを見る演劇場と同じように内部全体が円形をなしている。3階建ての桟敷がぐるりとあって、屋根はわらか瓦で葺いてある。その1階には両側に入口がついている。構内の広場には大きくて高い舞台が突き出るように設けられ柱で支えられている。舞台後方はローマ風の太い柱によって屋根を支え、さらにその上には小屋があって戸口でトランペットが吹かれ、わらぶきの屋根には白鳥の図の旗が立っている。舞台の一番奥には平らな壁があり二つの量開きの戸口がつき、壁に‘mimorum aides’と書いてあるのはその背後に楽屋があることを示している。楽屋のちょうど真上にあたる2階部分が問題になる箇所である。5ほんの小さな柱があって6つに仕切られているようで、8人の人物が見える。観客か、音楽師か、役者であるかは定かではない。もう一つの問題点はかつて‘inner stage or study’と呼ばれた舞台の奥の部分である。最近の研究によって、主として演技は広い矩形の舞台で行い、舞台奥や2階を使用することは比較的少ないことがわかった。2階(‘above’‘aloft’)に役者が現れるのは短い場面で、動作よりもセリフを言うだけの場合が多いので、芝居に利用した特等席(Lords’ room)あるいは音楽師の部屋に使われたものと推定される。舞台の奥(rear)では人物を隠したり発見したりする幕を引いた部分が必要である。これについてはそのための部分が常設されていたのではなく、必要に応じてドアの前にカーテンをつるしたり、仕切り(booth)やテントを設けたであろうと考えている(られる)。
HensloweとAlleynが建設業者(Peter Street)と交わした1599年1月8日付のフォーチュン座建築契約書(The Fortune Contract)は極めて重要な文書である。付いていたらしい図面は失われているが、契約書の中にグローブ座をモデルにするようにという注文が見られる上に、Street自身グローブ座を建てた業者でもあるので、これによってある程度グローブ座を想像することができる。建物は四角で、外枠は80×80フィート、内枠は55×55フィートの大きさ、基礎はレンガで木造。3階建てで、桟敷は、1階の高さは12フィート、2階は11フィート、3階は9フィート、奥行きはそれぞれ12フィート6インチ、屋根は瓦ぶき。紳士の部屋(gentlemen’s room)4室、天井つきの普通席(twopenny rooms)を設ける。舞台は幅43フィートで土間の中央まで突き出し、奥行きは26フィート6インチ、高さ5フィート6インチ。舞台の上に屋根をつけ、支えは四角の壁柱。土間と1回桟敷の境に鉄パイプの柵を設ける。建設費は440ポンド。1600人収容の小型の劇場である。もう一つのホープ座建築契約書(1613)は、スウォン座をモデルにし、動物いじめ演技場と劇場双方に使えるように工夫した建物であった。HensloweとAlleynは主として桟敷料の半分を取って建物の修理などにあて、劇団側は残りの半分と入場料(1人1ペニー)を取って上演に必要な一切の費用をまかない、さらに利益の4分の1を幹部役者8人で分配した。
資料の僅少な第1期グローブ座(1599-1613)の推定される要点は、①24面の多角形の円形に近い建物で、直経100フィート、高さは約33フィート。②外側に階段がつき、さらに二つ階段があった。③出入りするには二つの狭い戸口があった。④屋根がわらぶきであった。⑤「小屋」となっている舞台の上部構造があった。⑥舞台の屋根を支えたのは太い円柱。⑦観客は入口で1ペニー、桟敷席にはさらに1ペニーを払った。その他考えられものとしては、大きな矩形の舞台、その中央に落し戸(trap door)、楽屋と舞台に出る戸口が二つ、舞台の上の桟敷はボックス(box)に分けられていたことがある。
プライヴェイト・プレイハウス(Private Playhouse) ‘private’劇場の特徴は小さな矩形の室内劇場である。ろうそくの照明を使い、6ペンスを払った観客を700人程度収容できた。観客は上流、金持階級でみな座席についてみた。Shakespeareとの関連で第2期ブラックフライヤーズ座(1596-1655)のみに触れる。この建物は名前が示すとおり元ドミニコ会修道院跡(市内の西端)で、1596年2月バーベッジ(James Burbage)が買取って、2階の食堂を劇場用に改造したものである。その後、少年劇団のthe Children of the Quern’s Chapel(1600-3)と the Children of the Queen’s Revels(1604-8)に貸していたのである。
この種の劇場の原型は、宮廷の大広間(Great Hall)、貴族の邸の広間、大学などの広間に見出すことができよう。ブラックフライヤーズ座は2階の66×46フィートの広間につくられた。北側の階段をのぼり、6ペンス払って入場することになる。①部屋の南側の端に46×12フィートの楽屋を設けた。②舞台と楽屋の仕切りには当時の広間をモデルにして3つの戸口がつくられ、その前面にカーテンがつるされた。③舞台は高さ4フィート6インチと低く、29×18.6フィートの大きさで、‘public’劇場の約半分ぐらいの広さであった。舞台中央には落し戸(trap)があった。④部屋の3面にはぐるりと桟敷席(galleries)が設けられた。1階のボックス席は舞台と同一平面にあった。平土間(pit)は29×27フィートの広さである。
椅子やベンチが用意されて、さらに1シリング以上払って観客は全員坐って観劇した。⑤屋根には穴が開いていて役者を引上げたり下したりする装置(suspension gate)がくみこまれてあった。⑥楽屋の真上の部分はいくつかのボックスに仕切られていれ、役者が高い場所に現われる動作や‘discoveryspace’に利用されたり、また音楽師の部屋にもなっていた。‘private’劇場用の戯曲を見ると、幕(Act)の区分けが殆どなされているが、これは幕が終るごとに音楽が奏されたことを意味し、劇中でも音楽が使われるので一つのボックス席にはつねに音楽師がいたことになる。1609年ごろからKing’s Menは‘public’劇場でも音楽を使うようになった。室内故に天候に関係なく、ロウソクの人工照明を活用した。週に1、2回の公演であった。
その後「ワイトフライヤーズ座」(The Whitefriars,1608-29)、「コックピット座」(The Cockpit,1616-c.64)、「ソールズベリ・コート座」(Salisbury Court,1629-66)が市の西郊に開場されていった。これは時代への移行を暗示しているように思われる。
[1] wooden O;劇場がO字型の木造小屋であった、円形劇場だったことを示す。
本論稿は、池上忠弘、石川実、黒川高志、金原正彦共著『シェイクスピア研究』(慶應義塾大学出版会)の大要をまとめたものです。私自身の学習を目的としたものですので、論文・レポートなどでの本文からの引用はお控えください。