Ⅳ 暗い喜劇
伝統的ロマンスの恋愛はパロディー化が強まりながらも、近代ロマンスの明るい世界が信頼と和解と秩序をもたらしながら『十二夜』まで進んできた。しかし、1600年に入って数年間に書かれた喜劇3作は、その世界をだいぶ異にするものとなった。
『終わりよければすべてよし』(All's well that End's well)1602-05
『以尺報尺』(Measure for Measure。『尺には尺を』) 1603-04
『トロイラスとクレシダ』(Troilus and Cressida) 1601-02
Shakespeareはいずれも愛をテーマとた深刻で道義的な問題に取組んでいる。
明るい機知がしばしば辛辣と混じるようになり、陽気な求愛が欲情に取って代り、信頼が不信に傾き、和解が不和に陥りそうになる。しばしば陰惨な雰囲気が入り込んでいる。こうして、道徳に対し暗い懐疑の雲が覆い、これが社会的秩序にかかわるようになる。
(3作の暗い面を受けながら)
主に姦淫と裏切りの悪徳が人間の心に巣食って純潔を生贄にしようとする勢力が、善の勢力とぶつかるさまが葛藤となってドラマとなるが、これは『暗い喜劇』前に書かれた『ハムレット』の主人公の独白の領域─人間とは天使にして獣である─である人間観に通じるものである。
それは秩序が本能と退廃によって崩壊に瀕している世界である。しかし、ここでは喜劇としてハピー・エンドに終らせるために、もちろん善が勝利を得、悪玉は悔改めて許されることになるが、当時の基準では善といい倫理といい、その究極的基準はキリスト教の教えが最高の権威であるために、悪と善との葛藤は宗教によって裁断されるのである。
『以尺報尺』では、姦淫(adultery)は宗教的大罪のみならず法律的にも死罪となっている。しかし、キリスト教の教えにあるように、悪徳を犯した者は悔改めることで許され、悪人も他人に慈悲(mercy)を施すことで自らも慈悲を施される。他人に慈悲を与えることを拒むことは法律的に正しくともキリスト教の教えには背くことになる。この正義と慈悲の相剋は慈悲が勝利を収めることになるのである。
『以尺報尺』(Measure for Measure)という題名はマタイ伝第7章の冒頭の言葉から取られている。「なんじら人を審くな、審かれざらん為なり。己がさばく審判にて己もさばかれ、己がはかる量(measure)にて己も量らる(measure)べし」というものである。異教徒シャイロックはこの掟に背いて滅びたが、「暗い喜劇」では人間性の唾棄すべき悪の面が最終的にわずかにキリスト教の光に当てられ、葬られるようである。
さて、明るい喜劇から変化した由来はどこになるのか。これら三作は『ハムレット』や『オセロウ』が書かれた大悲劇創作時代にはさみ込まれているが、この時代、1600年を境にして文芸上では伝統的ロマンスが崩壊していくのであり、1603年のエリザベス女王の死と共に徐々に社会・政治上に新しい動きが出てくるようになった。
すなわちジェームズ王朝ではピューリタニズムが勢力を得てアングリカニズムと対立し、専制主義と議会主義の抗争が問題化し、ピューリタニズムの地盤の中産階級が台頭した。また、ジェームズ王朝では健康なルネッサンス精神が勢いを失って退廃に傾いていった。
一方、この時期はベン・ジョンソンの諷刺劇が成功した頃でもあり、一般に諷刺文学が興隆しはじめるのである。
これら三作はよく「問題劇」(problem plays)と呼ばれるが、それは主要登場人物の言葉と行為や動機と行為の間に裂け目があり、読者・観客の判断を戸惑わせるあいまいさがあるとして問題が生じる、という意味で、そう呼ばれる。
『終わりよければすべてよし』(All's well that End's well)
この劇は1602-3年頃に書かれたもので、ボッカチオ(Boccaccio)の『デカメロン』の「三日目の第九話」に大筋を求めている。
……作者がほどこしたこの仕組みは、『夏の夜の夢』の明るい恋の気まぐれではなく、暗い恋の気まぐれの一正体を残酷にあらわすことを意図したふうに思えてくる。
パートラムの堕落は非難できても、誰も彼に恋を押しつけることはできないとはシェイクスピアのよく知るところであったに違いない。ここにこの喜劇の悲劇的要因がある。恋(fancy)は人知の及ばぬもの、自然の理さえも動かすことができぬものとは当時の恋の公理のようなものであったが、その暗黒面がここではその悲劇味まで達している。
こうして、一方の世界において快楽が追求され、堕落あるいは本王が古い道徳の秩序を破り、他方ではキリスト教倫理の上に立つ秩序が尊重実行され、劇は両者の葛藤をいただいて、これを融合しようとして最終幕に進む。
すべての投げうって求めた男性の倫理観はかくの如きものであったと作者は皮肉な結論を導きだしているのではあるまいが、二つの世界の和解が達成されている感がなく、終りよければすべてよしという訳にはいかない後味の悪さが残るのは否めない。
『以尺報尺』(Measure for Measure,『尺には尺を』)
この劇は1603-4年頃書かれたもので、1578に出版されたジョージ・ウェトストーン(George Whetstone)の劇『プロモスとカサンドラ』(Promos and Cassandra)を種本にしている。
アンジェロの法的倫理思想がイザベラの美に会って、脆くも崩れ、代わって彼は欲情のとりこになる。アンジェロの欺瞞は1600年前後のイギリスの清教徒の倫理観を諷刺しているのだという説がある。
法も死も、死後の世界も、慈悲も悔恨も人間文化の権威が、一切合財、一瞬の間にひっくり返って何の役にも立たなくなる。バーナダインや喜劇的役割を演じる市井の者たちは、法の権威の土台そのもの、慈悲と純潔の美徳の観念そのものに現実味に風穴をあけるのである。かくして、法の権威は現実的に試される。この次元に立つのは作者だけであって、公爵は決して『お気に召すまま』のロザリンドのように劇のこの次元に立つ者ではないのである。公爵の慈悲心やイザベラの純潔が観念的所産の臭いを帯び、万人の胸に納得がいかない所以がここにあり、二人の性格の解釈の多様性が生れる根本理由もここにあると考える。
『トロイラスとクレシダ』(Troilus and Cressida)
(略」
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本論稿は、池上忠弘、石川実、黒川高志、金原正彦共著『シェイクスピア研究』(慶應義塾大学出版会)の大要をまとめたものです。私自身の学習を目的としたものですので、論文・レポートなどでの本文からの引用はお控えください。
