------時給数百円のフリーターが学ぶ本当の愛 -9ページ目

自分自身で恐れを作り出さなくなったところに、ただ、本当の自分の意識が喜びのままに在る。

気付いて意識が変わったということは、その意識の周波数に応じたパラレルワールドに移行したということです。

今この瞬間に、すべての可能性が同時に存在しているということを、頭で理解するのではなく、実際にそうなのだということに、気付く経験をすることが、今、もっとも重要なことであると思います。

それは、日常からかけ離れた、大きな出来事でなくてもよくて、逆に、日常の些細な出来事の中で、気付くことが重要なのです。

自分が今、経験していることは、自分の今の意識が反映されたものであり、自分の心(=意識)の持ち方次第で、どのようにも変えることができる、自分の経験する現実は、他の誰かではなくて、自分が主体となって創造しているということに気付くことが重要なのです。

そのことに気付きたいという意図(=意識)を持って、日常を過ごしていれば、その、今自分が持っている意識に応じて、パラレルワールドが存在し、自分の今の意識を変えることによって、どのような世界も選択が可能なのだということを経験することが大切なのです。

変えることができないと思っているのは、今の自分が持っている形作られた意識が、変えることによって、自分が失われてしまうという、強い恐れを持っているからです。

思考により形作られた(=狭い範囲に偏って凝縮した)意識が本当の自分であると思っている限りは、自分が今経験している現実は、他の誰かではなくて、自分自身が主体となって創造しているということに気付くことができないのです。

思考により形作られた狭い範囲に凝縮した意識では、今の自分以外にも、同時に、別の可能性を経験している他の自分が存在しているということに気付くことができないのです。

別の可能性を経験している他の自分が居るということに気付くと、今、経験している自分の存在が失われてしまうのではないかという恐れを持っているから、わざと意識を狭くしたまま、気付かないようにしていると言えるかもしれません。

だから思考を超えて意識を拡大するとは、思考が作り出している恐れを超えて、意識を拡大するということになります。

つまり、恐れは自分の思考が作り出しているものであるから、自分自身で必ず解消することができる(=自ら助けるものが救われる、逆に言えば、他の誰かによっては、自分の恐れを解消することはできない)ということを思い出してください。

恐れは自分以外の誰かや何かの出来事によって、自分に与えられているのではなくて、自分の思考が自分自身で作り出しているのだということを思い出せば、思考を超えた本当の自分に気付くことができるのです。

なぜなら、自分自身で恐れを作り出さなくなったところにこそ、本当の自分の意識が、ただ、喜びのまま在るということに気付くことができるからです。










肯定も否定もせずに、ただ、喜びのまま在るところに、本当の自分が在る、と気付いたときに思考を超える

精神体の低次マインドである思考が、固定観念と感情を作り出します。

自分の持っている固定観念が否定されるような状況に直面すると、思考は自分を守るために、自分の持っている固定観念の方を肯定し、相手の持っている固定観念を否定し排除しようとします。

つまり、思考は固定観念によって形作られたものであり、本当の自分ではないということです。

自分の持っている固定観念が否定され排除されようとすることは、思考にとっては、自分の存在自体が否定され、無くされてしまうようなものですから、自分の存在が消失してしまうという、最大の恐れに支配され、自分の持っている固定観念よりも、相手の持っている固定観念の方を否定し排除しようとします。

だから、自分の思考の中だけに限定された凝縮された狭い意識では、自分の持っている固定観念により形作られた自分が、本当の自分であるという思い込み(=目に見える形のあるものへの囚われ)によって、自分の思考を超えた、形への囚われから自由になった、拡大した意識である、本当の自分の存在が在る、ということに気付くことができないのです。

今、自分が創造している現実を一旦すべて捨ててしまえるくらいの意識の大転換がないと、本当の自分に気付くことができないとは、今自分が持っている固定観念により、形作られた自分(=思考)が、そのまま反映されて今の現実が創造されているのですから、その反映されるものを変えるためには、形作られた自分(=思考)が今持っている固定観念を捨てて、自分の思考を超えた拡大した意識(=本当の自分)によって、新たな観念を持ち、その意識が反映された現実を見なければならないということです。

肯定も否定もせずに、ただ、喜びのまま在るとは、思考により形作られた自分(=凝縮した狭い意識)によって、自分の持っている固定観念(=形への囚われ)の方を肯定し、相手の持っている固定観念を否定・排除しようとするのではなく、思考によって固定観念を、肯定も否定もするのを止めて、凝縮した意識である固定観念の密度を、無条件に許容することによって薄くし、思考によって形作られた自分の枠を外して、意識を拡大させ、本当の自分である無条件の愛の波動と意識をシンクロさせて、形作られない、元から在る、本当の喜びに気付くということになります。

自分を守るために、思考で相手を否定して排除しようとする、強い感情に気付いたら、凝縮した固定観念により生じる恐怖がそうさせているということを、思い出してください。

自分が恥をかきたくないがために、相手の方を否定して、自分を守ろうとするのは、もう終わりにしましょう。

肯定も否定もせずに、ただ、喜びのまま在るところに、本当の自分が在ると気付きましょう。

恥をかいてもいいではないですか。

肯定も否定もされない、無条件に許容されたところに、ただ、喜びのまま、本当の自分が在る、ということに気付けるのですから................




なぜ、気付きに、肯定も否定もせずに無条件に許容することが必要なのか?

例えば、暑いのを恐れて、エアコンを使って過剰に室内を冷やします。

室内を冷やしたのはよいが、エアコンの室外機の放熱により、外は逆に暑さを増します。

室内=自分の思考の中、室外=自分の思考を超えたところと置き換えてみてください。

室内が暑いから、エアコンで冷やして涼しくしたいと、目に見える形のあるものの見返りを求め、自分にとって都合の悪い室内の熱を、自分の目には見えないところである室外に捨てようとします。

自分にとって、涼しいことは光であって、暑いことは闇とすると、涼しいという光のみ肯定し、暑いという闇を否定し排除しようとします。

しかし、実際は、室内から排除して、自分の思考の中から消えたと思っていた暑さは、室外をさらに暑くして、自分が室外に出たときには、猛烈な暑さとして、その熱害を受けて闇を経験することになります。

つまり、自分にとって都合の悪い暑さを、自分の思考の中で否定して、自分の思考の外に排除したとしても、その暑さを否定して排除しようとした思考が影となり、室外(=思考の外側)に投影され、室外では、猛烈な暑さとして、闇を経験することになるのです。

その経験により暑さを恐れ、自分をその暑さから守るために、エアコンで室内をさらに過剰に冷やしたいという思考につながり、ますます思考による影が強くなり、その投影である深い闇を経験することになります。

自分の思考を超えた目には見えない形のないところでは、自分の室内だけをエアコンで冷やしても、根本的に暑さから逃れることはできないということに気付くことができますが、自分の思考の中だけで考えた場合、外の暑さがなぜ増すのかが見えないために、暑さという自分に恐れをもたらす対象から自分を守るために、さらにエアコンの設定温度を下げて、室内の熱を室外に排除しようとすることになります。

自分の室内(=思考の中だけの話)だけを冷やしていれば、恐れをもたらす暑さから逃れられるという、目に見える形のあるものに対する囚われから抜け出さない限り、自分を暑さという恐れから守るために、思考の中では冷やしているつもりでも、思考の外側の、思考を超えたところでは、実は、外側からさらに暑くしているという、灼熱地獄から抜け出すことは永久にできないということになります。

だから、自分の思考の中だけに凝縮された意識から抜け出すために、自分の思考を超えたところで気付いて、意識を拡大しなければならないのです。

そして、その気付きには、暑さも涼しさも、どちらも肯定も否定もせずに、無条件に許容して、ただ、喜びのまま在ることが必要なのです。

その状態にあれば、自分の思考の中(=室内)だけで冷やしても、自分の思考の外側(=室外)は、逆に暑くなっているから、涼しさを得るために、暑さを否定して排除するやり方では、根本的に涼しくならない(=永続性を得られない)ということを、目には見えない形のないものを見ることができる、心の目により見ることができるようになります。