「想定の範囲外です。」「記憶にございません。」と言わせる、思考の自己凝縮作用。
よく、「想定の範囲外だから、事故を避けることはできなかった。」と言うのを聞きます。
これは、思考で想定した範囲から外れているから、事故が起こっても、自分は責任をとる必要はないという、自分を守るための言動でしょう。
事故が起こった時に責任を取ることに対して恐れがあり、その恐れから自分を守るための言動です。
想定の範囲外と言うけれども、本当は、事故になるのを避けることができないようなことが起こりうるということは知っているから、思考が自分を守るためにだけ発する言葉です。
思考が自分を守るために言う「想定の範囲外」は、思考の内側での想定の範囲外であり、思考を超えた想定の範囲外ということではない、ということに注意する必要があります。
なぜなら、思考を超えた拡大した意識の範囲であれば、事故を避けることができますが、思考内での想定範囲外では、事故が起こった時に責任を取らなければならないという、恐れから自分を守るよう意識が働くので、その通りに事故を避けることができない状況を経験することになるからです。
思考が記憶をたよりに、恐れから自分を守ろうとする。
もうひとつよく聞く言葉に「記憶にございません。」というのがありますが、
これも想定の範囲外と同様に、自分の記憶の中にあることにしたら、自分が責任を取らなければならないという、恐れから自分を守るために発する言動です。
本来、記憶(=思考により形作られたもの)を超えた意識の範囲であれば、「記憶にございません。」と言って、自分を守るための言葉を発せなければならないような状況にはなりませんが、記憶の中での記憶の範囲外なので、思考が自分を守るために、「記憶にございません。」と言うわけです。
これは、この国の記憶の中の記憶テストに慣らされた人たちは、思考により形作られた自分(=記憶)を守るために、思考により狭い意識の範囲に自分を閉じ込めておく、凝縮させておくことを身に付けてきたということでしょう。
自分というものを他人とはっきりと区別するために、記憶テストにより、序列をつけて、分類、管理してきたということです。
記憶を超えた範囲に意識を拡大させるためには、思考により形作れれた自分(=記憶)を恐れから守るために、思考の範囲内(=想定の範囲内)に意識を凝縮させようとする、思考の自己凝縮作用を助長させている、思考に頼った記憶テストをやめた方がよいでしょう。
思考に頼るのをやめるために、思考を使って、肯定したり否定したり、判断を下すのをやめて、すべてを無条件に許容して、ただ喜びのまま在ることによって、意識を思考を超えた範囲に拡大する必要があります。
思考の自己凝縮作用は、自分と他人を区別することにより生じる、恐れが原動力(=ネガティブなエネルギー)となっていますから、そのエネルギーを、思考を超えた範囲の意識に拡大するポジティブなエネルギーに転換すればよいということになります。
これは、思考で想定した範囲から外れているから、事故が起こっても、自分は責任をとる必要はないという、自分を守るための言動でしょう。
事故が起こった時に責任を取ることに対して恐れがあり、その恐れから自分を守るための言動です。
想定の範囲外と言うけれども、本当は、事故になるのを避けることができないようなことが起こりうるということは知っているから、思考が自分を守るためにだけ発する言葉です。
思考が自分を守るために言う「想定の範囲外」は、思考の内側での想定の範囲外であり、思考を超えた想定の範囲外ということではない、ということに注意する必要があります。
なぜなら、思考を超えた拡大した意識の範囲であれば、事故を避けることができますが、思考内での想定範囲外では、事故が起こった時に責任を取らなければならないという、恐れから自分を守るよう意識が働くので、その通りに事故を避けることができない状況を経験することになるからです。
思考が記憶をたよりに、恐れから自分を守ろうとする。
もうひとつよく聞く言葉に「記憶にございません。」というのがありますが、
これも想定の範囲外と同様に、自分の記憶の中にあることにしたら、自分が責任を取らなければならないという、恐れから自分を守るために発する言動です。
本来、記憶(=思考により形作られたもの)を超えた意識の範囲であれば、「記憶にございません。」と言って、自分を守るための言葉を発せなければならないような状況にはなりませんが、記憶の中での記憶の範囲外なので、思考が自分を守るために、「記憶にございません。」と言うわけです。
これは、この国の記憶の中の記憶テストに慣らされた人たちは、思考により形作られた自分(=記憶)を守るために、思考により狭い意識の範囲に自分を閉じ込めておく、凝縮させておくことを身に付けてきたということでしょう。
自分というものを他人とはっきりと区別するために、記憶テストにより、序列をつけて、分類、管理してきたということです。
記憶を超えた範囲に意識を拡大させるためには、思考により形作れれた自分(=記憶)を恐れから守るために、思考の範囲内(=想定の範囲内)に意識を凝縮させようとする、思考の自己凝縮作用を助長させている、思考に頼った記憶テストをやめた方がよいでしょう。
思考に頼るのをやめるために、思考を使って、肯定したり否定したり、判断を下すのをやめて、すべてを無条件に許容して、ただ喜びのまま在ることによって、意識を思考を超えた範囲に拡大する必要があります。
思考の自己凝縮作用は、自分と他人を区別することにより生じる、恐れが原動力(=ネガティブなエネルギー)となっていますから、そのエネルギーを、思考を超えた範囲の意識に拡大するポジティブなエネルギーに転換すればよいということになります。
パラレルワールドに移行する瞬間に、時間は止まっていると気付く。
もう一度、同じようにやってみてと言われて、思考では意識的に同じようにできないことが、思考を超えた拡大した意識によりできることです。
朝、まだ暗いときに自転車で走っていて、歩道にあるポールにぶつかりそうになりました。
そこで、通常であれば、思考を使って、ぶつかったらケガをするという映像が頭に浮かんで、恐れからブレーキをかけて止まることによって、衝突を回避しようとするところですが、実際は、ブレーキをかけて止まろうとすれば、急ブレーキになってしまい、自転車がスリップして、激しく転倒し、強く路面に叩きつけられてケガをしてしまうでしょう。
しかし、そのとき、思考を使わないモードでは、ブレーキをかけずに、自転車から手を離し、ポールをかわしたところで、自転車から身体は離れて、宙を舞い、自転車は身体より前方に進んで転倒し、身体は、宙を舞った後に、自然と受身を取る姿勢で着地しました。
通常であれば、宙を3メートルぐらい舞って、地面に落ちたらけがをすると思いますが、擦り傷も打撲もほとんどなく、すぐに起き上がって、また自転車に乗って走り出せました。
普通であれば、ぶつかりそうになって転倒して運が悪かったと思いますが、私は、衝突を回避して、無傷だったことに何か意味があったのだろうかと考えましたが、自転車も、身体も無傷だったけれど、左腕につけていた腕時計が壊れていたということが後からわかりました。
やはり、こういう場合は、ただ、運が悪かったで、済ますことなのでしょうか?
その壊れた時計の針は、午前6時1分9秒で止まっていました。
これは衝突しそうになって、衝突を回避して地面に着地したときに、衝撃で止まったものです。
そうです。
これは、すべての瞬間は、同時に無限に存在していて、思考を超えた拡大した意識により、衝突を回避したパラレルワールドに、瞬間的に移行したということを教えているのです。
これは、思考を使って、意識的にもう一度やってみてと言われてもできないことです。
だから、思考を使って、意識的にもう一度やって見せることができない経験が、思考を超えた拡大した意識によりなされれる経験であり、一見ネガティブな経験を、無意識のうちに、ポジティブな経験に、瞬間的に変えることができる、気付きを得ることができる経験ということになります。
朝、まだ暗いときに自転車で走っていて、歩道にあるポールにぶつかりそうになりました。
そこで、通常であれば、思考を使って、ぶつかったらケガをするという映像が頭に浮かんで、恐れからブレーキをかけて止まることによって、衝突を回避しようとするところですが、実際は、ブレーキをかけて止まろうとすれば、急ブレーキになってしまい、自転車がスリップして、激しく転倒し、強く路面に叩きつけられてケガをしてしまうでしょう。
しかし、そのとき、思考を使わないモードでは、ブレーキをかけずに、自転車から手を離し、ポールをかわしたところで、自転車から身体は離れて、宙を舞い、自転車は身体より前方に進んで転倒し、身体は、宙を舞った後に、自然と受身を取る姿勢で着地しました。
通常であれば、宙を3メートルぐらい舞って、地面に落ちたらけがをすると思いますが、擦り傷も打撲もほとんどなく、すぐに起き上がって、また自転車に乗って走り出せました。
普通であれば、ぶつかりそうになって転倒して運が悪かったと思いますが、私は、衝突を回避して、無傷だったことに何か意味があったのだろうかと考えましたが、自転車も、身体も無傷だったけれど、左腕につけていた腕時計が壊れていたということが後からわかりました。
やはり、こういう場合は、ただ、運が悪かったで、済ますことなのでしょうか?
その壊れた時計の針は、午前6時1分9秒で止まっていました。
これは衝突しそうになって、衝突を回避して地面に着地したときに、衝撃で止まったものです。
そうです。
これは、すべての瞬間は、同時に無限に存在していて、思考を超えた拡大した意識により、衝突を回避したパラレルワールドに、瞬間的に移行したということを教えているのです。
これは、思考を使って、意識的にもう一度やってみてと言われてもできないことです。
だから、思考を使って、意識的にもう一度やって見せることができない経験が、思考を超えた拡大した意識によりなされれる経験であり、一見ネガティブな経験を、無意識のうちに、ポジティブな経験に、瞬間的に変えることができる、気付きを得ることができる経験ということになります。
思考が記憶をつなぐことによって、時間が流れている、時間が存在しているという、幻想を作り出している
形が変化しなければ、動かなければ、それを見て人は、時間が存在しない、時間が止まっていると言います。
形としてすべてが同時に存在しているとは、時間が存在せずに、時間が止まっている状態のことを言います。
例えば、自動車事故で衝突する瞬間に、その状況が止まって見えた、あるいは、スローモーションのように見えたということがありますが、これは、意識が思考を離れて拡大することによって、本当はすべては、形が変化せずに動かずに存在しており、形が変化して動いて見えるのは、思考が最初からすべてが同時に存在しているものを、過去の状態、現在の状態、未来の状態というタイムラインを作り出して、時間が流れている、形が変化している、動いているという幻想(=動画)を作り出しているからということになります。
つまり、これは、思考が記憶(=静止画)をつなぐことによって、時間が流れている、時間が存在しているという経験(=動画)を作り出しているということになります。
だから、寝ているときに、肉体としての自分は存在しているのかと考えた場合、すべては、形が変化せずに動かずに、同時に存在しているが、思考が記憶をつないでいない間は、肉体としての経験をしていない、あるいは、あまりしていないということになるでしょう。
肉体的な意識がない間に、人は存在しているのかと問われたら、存在しているが、肉体の経験はしていないということになるのです。
新しいもの、古いものという概念は、思考が記憶をつなぐことによって作り出している、経験であり、本来は、すべてが、同時に、形は変化せず、動かずに存在しているのですから、記憶(=思考)を超えた、本当の自分の意識に拡大したときには、新しいも、古いもないというのが真実であると思い出します。
老化しないもの、劣化しないものがあり得るのかと考えてみたときに、思考が記憶をつないで、老化や劣化の経験を作り出しているのですから、思考を超えた本当の自分の意識まで拡張できれば、老化しないもの、劣化しないものを経験することも可能でしょう。
老化する、劣化するという物質的な経験をしたうえで、老化しない劣化しない物質の経験というものも、拡張した意識のバージョンでなら可能ということになります(注:思考を超えて拡張した意識は、思考をも含みますが、思考は、拡張した意識を含まないということです。)
思考が記憶(=静止画)をつないで経験(=動画)を作り出しているのですから、思考が過去の記憶(=過去に見た静止画や動画)だけを頼りに、経験を作り出そうとすると、過去の記憶を超えた新たな経験を作り出すことはできないということになります。
だから、自動車で衝突しそうになったときに、思考が過去の記憶だけをたよりに、こういう場合は、衝突して怪我をして、へたをすれば肉体的な命を失ってしまうという、ネガティブな感情(=恐怖)を作り出してしまう場合は、事故を回避できないという経験を作り出し、逆に、思考を超えた拡張した意識を働かせれば、時間がスローになり、すべてが形として変化していない、時間が存在しない、動いていない状態を同時に見ることにより、衝突を回避するための静止画を選択し、つなぎあわせ、動画にし、回避するための経験を作り出すことができるということになります。
新しいも古いもなく、すべてが同時に存在し、選択により経験を作り出すことができるのなら、思考により、過去の経験に頼って、同じような経験を作り出すという旧来のやり方を止めて、今、この瞬間に同時に存在しているすべてのものを肯定も否定もせずに、無条件に許容し、ただ喜びのまま在ることによって、思考を超えた、形に囚われない、心の目に見えるものを、思考(=選択)によりつないで動画にし、経験を作り出しいくという、新たな経験をするというのも、選択により決めることができるのです。
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形としてすべてが同時に存在しているとは、時間が存在せずに、時間が止まっている状態のことを言います。
例えば、自動車事故で衝突する瞬間に、その状況が止まって見えた、あるいは、スローモーションのように見えたということがありますが、これは、意識が思考を離れて拡大することによって、本当はすべては、形が変化せずに動かずに存在しており、形が変化して動いて見えるのは、思考が最初からすべてが同時に存在しているものを、過去の状態、現在の状態、未来の状態というタイムラインを作り出して、時間が流れている、形が変化している、動いているという幻想(=動画)を作り出しているからということになります。
つまり、これは、思考が記憶(=静止画)をつなぐことによって、時間が流れている、時間が存在しているという経験(=動画)を作り出しているということになります。
だから、寝ているときに、肉体としての自分は存在しているのかと考えた場合、すべては、形が変化せずに動かずに、同時に存在しているが、思考が記憶をつないでいない間は、肉体としての経験をしていない、あるいは、あまりしていないということになるでしょう。
肉体的な意識がない間に、人は存在しているのかと問われたら、存在しているが、肉体の経験はしていないということになるのです。
新しいもの、古いものという概念は、思考が記憶をつなぐことによって作り出している、経験であり、本来は、すべてが、同時に、形は変化せず、動かずに存在しているのですから、記憶(=思考)を超えた、本当の自分の意識に拡大したときには、新しいも、古いもないというのが真実であると思い出します。
老化しないもの、劣化しないものがあり得るのかと考えてみたときに、思考が記憶をつないで、老化や劣化の経験を作り出しているのですから、思考を超えた本当の自分の意識まで拡張できれば、老化しないもの、劣化しないものを経験することも可能でしょう。
老化する、劣化するという物質的な経験をしたうえで、老化しない劣化しない物質の経験というものも、拡張した意識のバージョンでなら可能ということになります(注:思考を超えて拡張した意識は、思考をも含みますが、思考は、拡張した意識を含まないということです。)
思考が記憶(=静止画)をつないで経験(=動画)を作り出しているのですから、思考が過去の記憶(=過去に見た静止画や動画)だけを頼りに、経験を作り出そうとすると、過去の記憶を超えた新たな経験を作り出すことはできないということになります。
だから、自動車で衝突しそうになったときに、思考が過去の記憶だけをたよりに、こういう場合は、衝突して怪我をして、へたをすれば肉体的な命を失ってしまうという、ネガティブな感情(=恐怖)を作り出してしまう場合は、事故を回避できないという経験を作り出し、逆に、思考を超えた拡張した意識を働かせれば、時間がスローになり、すべてが形として変化していない、時間が存在しない、動いていない状態を同時に見ることにより、衝突を回避するための静止画を選択し、つなぎあわせ、動画にし、回避するための経験を作り出すことができるということになります。
新しいも古いもなく、すべてが同時に存在し、選択により経験を作り出すことができるのなら、思考により、過去の経験に頼って、同じような経験を作り出すという旧来のやり方を止めて、今、この瞬間に同時に存在しているすべてのものを肯定も否定もせずに、無条件に許容し、ただ喜びのまま在ることによって、思考を超えた、形に囚われない、心の目に見えるものを、思考(=選択)によりつないで動画にし、経験を作り出しいくという、新たな経験をするというのも、選択により決めることができるのです。
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