思考が記憶をつなぐことによって、時間が流れている、時間が存在しているという、幻想を作り出している
形が変化しなければ、動かなければ、それを見て人は、時間が存在しない、時間が止まっていると言います。
形としてすべてが同時に存在しているとは、時間が存在せずに、時間が止まっている状態のことを言います。
例えば、自動車事故で衝突する瞬間に、その状況が止まって見えた、あるいは、スローモーションのように見えたということがありますが、これは、意識が思考を離れて拡大することによって、本当はすべては、形が変化せずに動かずに存在しており、形が変化して動いて見えるのは、思考が最初からすべてが同時に存在しているものを、過去の状態、現在の状態、未来の状態というタイムラインを作り出して、時間が流れている、形が変化している、動いているという幻想(=動画)を作り出しているからということになります。
つまり、これは、思考が記憶(=静止画)をつなぐことによって、時間が流れている、時間が存在しているという経験(=動画)を作り出しているということになります。
だから、寝ているときに、肉体としての自分は存在しているのかと考えた場合、すべては、形が変化せずに動かずに、同時に存在しているが、思考が記憶をつないでいない間は、肉体としての経験をしていない、あるいは、あまりしていないということになるでしょう。
肉体的な意識がない間に、人は存在しているのかと問われたら、存在しているが、肉体の経験はしていないということになるのです。
新しいもの、古いものという概念は、思考が記憶をつなぐことによって作り出している、経験であり、本来は、すべてが、同時に、形は変化せず、動かずに存在しているのですから、記憶(=思考)を超えた、本当の自分の意識に拡大したときには、新しいも、古いもないというのが真実であると思い出します。
老化しないもの、劣化しないものがあり得るのかと考えてみたときに、思考が記憶をつないで、老化や劣化の経験を作り出しているのですから、思考を超えた本当の自分の意識まで拡張できれば、老化しないもの、劣化しないものを経験することも可能でしょう。
老化する、劣化するという物質的な経験をしたうえで、老化しない劣化しない物質の経験というものも、拡張した意識のバージョンでなら可能ということになります(注:思考を超えて拡張した意識は、思考をも含みますが、思考は、拡張した意識を含まないということです。)
思考が記憶(=静止画)をつないで経験(=動画)を作り出しているのですから、思考が過去の記憶(=過去に見た静止画や動画)だけを頼りに、経験を作り出そうとすると、過去の記憶を超えた新たな経験を作り出すことはできないということになります。
だから、自動車で衝突しそうになったときに、思考が過去の記憶だけをたよりに、こういう場合は、衝突して怪我をして、へたをすれば肉体的な命を失ってしまうという、ネガティブな感情(=恐怖)を作り出してしまう場合は、事故を回避できないという経験を作り出し、逆に、思考を超えた拡張した意識を働かせれば、時間がスローになり、すべてが形として変化していない、時間が存在しない、動いていない状態を同時に見ることにより、衝突を回避するための静止画を選択し、つなぎあわせ、動画にし、回避するための経験を作り出すことができるということになります。
新しいも古いもなく、すべてが同時に存在し、選択により経験を作り出すことができるのなら、思考により、過去の経験に頼って、同じような経験を作り出すという旧来のやり方を止めて、今、この瞬間に同時に存在しているすべてのものを肯定も否定もせずに、無条件に許容し、ただ喜びのまま在ることによって、思考を超えた、形に囚われない、心の目に見えるものを、思考(=選択)によりつないで動画にし、経験を作り出しいくという、新たな経験をするというのも、選択により決めることができるのです。
+
形としてすべてが同時に存在しているとは、時間が存在せずに、時間が止まっている状態のことを言います。
例えば、自動車事故で衝突する瞬間に、その状況が止まって見えた、あるいは、スローモーションのように見えたということがありますが、これは、意識が思考を離れて拡大することによって、本当はすべては、形が変化せずに動かずに存在しており、形が変化して動いて見えるのは、思考が最初からすべてが同時に存在しているものを、過去の状態、現在の状態、未来の状態というタイムラインを作り出して、時間が流れている、形が変化している、動いているという幻想(=動画)を作り出しているからということになります。
つまり、これは、思考が記憶(=静止画)をつなぐことによって、時間が流れている、時間が存在しているという経験(=動画)を作り出しているということになります。
だから、寝ているときに、肉体としての自分は存在しているのかと考えた場合、すべては、形が変化せずに動かずに、同時に存在しているが、思考が記憶をつないでいない間は、肉体としての経験をしていない、あるいは、あまりしていないということになるでしょう。
肉体的な意識がない間に、人は存在しているのかと問われたら、存在しているが、肉体の経験はしていないということになるのです。
新しいもの、古いものという概念は、思考が記憶をつなぐことによって作り出している、経験であり、本来は、すべてが、同時に、形は変化せず、動かずに存在しているのですから、記憶(=思考)を超えた、本当の自分の意識に拡大したときには、新しいも、古いもないというのが真実であると思い出します。
老化しないもの、劣化しないものがあり得るのかと考えてみたときに、思考が記憶をつないで、老化や劣化の経験を作り出しているのですから、思考を超えた本当の自分の意識まで拡張できれば、老化しないもの、劣化しないものを経験することも可能でしょう。
老化する、劣化するという物質的な経験をしたうえで、老化しない劣化しない物質の経験というものも、拡張した意識のバージョンでなら可能ということになります(注:思考を超えて拡張した意識は、思考をも含みますが、思考は、拡張した意識を含まないということです。)
思考が記憶(=静止画)をつないで経験(=動画)を作り出しているのですから、思考が過去の記憶(=過去に見た静止画や動画)だけを頼りに、経験を作り出そうとすると、過去の記憶を超えた新たな経験を作り出すことはできないということになります。
だから、自動車で衝突しそうになったときに、思考が過去の記憶だけをたよりに、こういう場合は、衝突して怪我をして、へたをすれば肉体的な命を失ってしまうという、ネガティブな感情(=恐怖)を作り出してしまう場合は、事故を回避できないという経験を作り出し、逆に、思考を超えた拡張した意識を働かせれば、時間がスローになり、すべてが形として変化していない、時間が存在しない、動いていない状態を同時に見ることにより、衝突を回避するための静止画を選択し、つなぎあわせ、動画にし、回避するための経験を作り出すことができるということになります。
新しいも古いもなく、すべてが同時に存在し、選択により経験を作り出すことができるのなら、思考により、過去の経験に頼って、同じような経験を作り出すという旧来のやり方を止めて、今、この瞬間に同時に存在しているすべてのものを肯定も否定もせずに、無条件に許容し、ただ喜びのまま在ることによって、思考を超えた、形に囚われない、心の目に見えるものを、思考(=選択)によりつないで動画にし、経験を作り出しいくという、新たな経験をするというのも、選択により決めることができるのです。
+