なぜ、気付きに、肯定も否定もせずに無条件に許容することが必要なのか?
例えば、暑いのを恐れて、エアコンを使って過剰に室内を冷やします。
室内を冷やしたのはよいが、エアコンの室外機の放熱により、外は逆に暑さを増します。
室内=自分の思考の中、室外=自分の思考を超えたところと置き換えてみてください。
室内が暑いから、エアコンで冷やして涼しくしたいと、目に見える形のあるものの見返りを求め、自分にとって都合の悪い室内の熱を、自分の目には見えないところである室外に捨てようとします。
自分にとって、涼しいことは光であって、暑いことは闇とすると、涼しいという光のみ肯定し、暑いという闇を否定し排除しようとします。
しかし、実際は、室内から排除して、自分の思考の中から消えたと思っていた暑さは、室外をさらに暑くして、自分が室外に出たときには、猛烈な暑さとして、その熱害を受けて闇を経験することになります。
つまり、自分にとって都合の悪い暑さを、自分の思考の中で否定して、自分の思考の外に排除したとしても、その暑さを否定して排除しようとした思考が影となり、室外(=思考の外側)に投影され、室外では、猛烈な暑さとして、闇を経験することになるのです。
その経験により暑さを恐れ、自分をその暑さから守るために、エアコンで室内をさらに過剰に冷やしたいという思考につながり、ますます思考による影が強くなり、その投影である深い闇を経験することになります。
自分の思考を超えた目には見えない形のないところでは、自分の室内だけをエアコンで冷やしても、根本的に暑さから逃れることはできないということに気付くことができますが、自分の思考の中だけで考えた場合、外の暑さがなぜ増すのかが見えないために、暑さという自分に恐れをもたらす対象から自分を守るために、さらにエアコンの設定温度を下げて、室内の熱を室外に排除しようとすることになります。
自分の室内(=思考の中だけの話)だけを冷やしていれば、恐れをもたらす暑さから逃れられるという、目に見える形のあるものに対する囚われから抜け出さない限り、自分を暑さという恐れから守るために、思考の中では冷やしているつもりでも、思考の外側の、思考を超えたところでは、実は、外側からさらに暑くしているという、灼熱地獄から抜け出すことは永久にできないということになります。
だから、自分の思考の中だけに凝縮された意識から抜け出すために、自分の思考を超えたところで気付いて、意識を拡大しなければならないのです。
そして、その気付きには、暑さも涼しさも、どちらも肯定も否定もせずに、無条件に許容して、ただ、喜びのまま在ることが必要なのです。
その状態にあれば、自分の思考の中(=室内)だけで冷やしても、自分の思考の外側(=室外)は、逆に暑くなっているから、涼しさを得るために、暑さを否定して排除するやり方では、根本的に涼しくならない(=永続性を得られない)ということを、目には見えない形のないものを見ることができる、心の目により見ることができるようになります。
室内を冷やしたのはよいが、エアコンの室外機の放熱により、外は逆に暑さを増します。
室内=自分の思考の中、室外=自分の思考を超えたところと置き換えてみてください。
室内が暑いから、エアコンで冷やして涼しくしたいと、目に見える形のあるものの見返りを求め、自分にとって都合の悪い室内の熱を、自分の目には見えないところである室外に捨てようとします。
自分にとって、涼しいことは光であって、暑いことは闇とすると、涼しいという光のみ肯定し、暑いという闇を否定し排除しようとします。
しかし、実際は、室内から排除して、自分の思考の中から消えたと思っていた暑さは、室外をさらに暑くして、自分が室外に出たときには、猛烈な暑さとして、その熱害を受けて闇を経験することになります。
つまり、自分にとって都合の悪い暑さを、自分の思考の中で否定して、自分の思考の外に排除したとしても、その暑さを否定して排除しようとした思考が影となり、室外(=思考の外側)に投影され、室外では、猛烈な暑さとして、闇を経験することになるのです。
その経験により暑さを恐れ、自分をその暑さから守るために、エアコンで室内をさらに過剰に冷やしたいという思考につながり、ますます思考による影が強くなり、その投影である深い闇を経験することになります。
自分の思考を超えた目には見えない形のないところでは、自分の室内だけをエアコンで冷やしても、根本的に暑さから逃れることはできないということに気付くことができますが、自分の思考の中だけで考えた場合、外の暑さがなぜ増すのかが見えないために、暑さという自分に恐れをもたらす対象から自分を守るために、さらにエアコンの設定温度を下げて、室内の熱を室外に排除しようとすることになります。
自分の室内(=思考の中だけの話)だけを冷やしていれば、恐れをもたらす暑さから逃れられるという、目に見える形のあるものに対する囚われから抜け出さない限り、自分を暑さという恐れから守るために、思考の中では冷やしているつもりでも、思考の外側の、思考を超えたところでは、実は、外側からさらに暑くしているという、灼熱地獄から抜け出すことは永久にできないということになります。
だから、自分の思考の中だけに凝縮された意識から抜け出すために、自分の思考を超えたところで気付いて、意識を拡大しなければならないのです。
そして、その気付きには、暑さも涼しさも、どちらも肯定も否定もせずに、無条件に許容して、ただ、喜びのまま在ることが必要なのです。
その状態にあれば、自分の思考の中(=室内)だけで冷やしても、自分の思考の外側(=室外)は、逆に暑くなっているから、涼しさを得るために、暑さを否定して排除するやり方では、根本的に涼しくならない(=永続性を得られない)ということを、目には見えない形のないものを見ることができる、心の目により見ることができるようになります。