霊訓では、霊的真理の普及に障害になるとして、物質主義と利己主義を駆逐すべきと書かれています。
以前にも書きましたが、結局「死」を人生の終点と捉えるか、通過点と捉えるかで人生観は全く違ってきます。死が人生の終点なら、物質主義に何の落ち度もないことになるし、利己的にも成らざるを得ないと思います。
産業革命以来(あるいはルネサンス以来?)、科学万能主義が主流派となり、データを取れない死後の問題は即宗教あるいはオカルトとして普通の人にとって人生のメインテーマとしてはまじめに取り扱われて来ませんでした。
メディアも教育も大方はその立場ですから、物質主義に基づく価値観の社会が出来上がり、弱肉強食、人生は他人との競争、利他的では生きていけないといった思い込みが広まったのです。
人はそれでも霊的な存在ですから、何となくそうではないとは感じるのですが、「現実的に」ものを考えるとどうしても頭でっかちになり、肉体的な生存とそのための物質的必要に縛られた考え方しかできなくなる。他者に尽くす、というテーマはどこか遠い国の話だったり、せいぜい映画や小説の中だけの話で、人生における清涼剤的な扱いです。
本当は、順序が逆なのです。そう霊訓には書かれています。
生活の必要を満たすために働く、というのではなく、他者に尽くすために働く。そうすると生活の必要は摂理に従って与えられるのです。
それに霊(私たちの本質)の立場からすれば、今生は永遠の人生の内の一瞬に過ぎないのですから、その一瞬の間だけ霊格の向上に反する生き方をする理由はどこにもないわけです。(誘惑の多い地上であえてそれを貫くことで、さらに進化向上できるのです。)
「死」は通過点に過ぎない。人は死なない。これを信じることさえできれば考え方は全く変わります。
takao
以前にも書きましたが、結局「死」を人生の終点と捉えるか、通過点と捉えるかで人生観は全く違ってきます。死が人生の終点なら、物質主義に何の落ち度もないことになるし、利己的にも成らざるを得ないと思います。
産業革命以来(あるいはルネサンス以来?)、科学万能主義が主流派となり、データを取れない死後の問題は即宗教あるいはオカルトとして普通の人にとって人生のメインテーマとしてはまじめに取り扱われて来ませんでした。
メディアも教育も大方はその立場ですから、物質主義に基づく価値観の社会が出来上がり、弱肉強食、人生は他人との競争、利他的では生きていけないといった思い込みが広まったのです。
人はそれでも霊的な存在ですから、何となくそうではないとは感じるのですが、「現実的に」ものを考えるとどうしても頭でっかちになり、肉体的な生存とそのための物質的必要に縛られた考え方しかできなくなる。他者に尽くす、というテーマはどこか遠い国の話だったり、せいぜい映画や小説の中だけの話で、人生における清涼剤的な扱いです。
本当は、順序が逆なのです。そう霊訓には書かれています。
生活の必要を満たすために働く、というのではなく、他者に尽くすために働く。そうすると生活の必要は摂理に従って与えられるのです。
それに霊(私たちの本質)の立場からすれば、今生は永遠の人生の内の一瞬に過ぎないのですから、その一瞬の間だけ霊格の向上に反する生き方をする理由はどこにもないわけです。(誘惑の多い地上であえてそれを貫くことで、さらに進化向上できるのです。)
「死」は通過点に過ぎない。人は死なない。これを信じることさえできれば考え方は全く変わります。
takao