第八艦隊  (第578回)

次回の話題にする予定の11月上旬の鼠輸送と、それに続く二回目の船団輸送に関連して、今回は亀井宏著「ガダルカナル戦記」を中心に、第八艦隊のこれまでについて触れておきたくなった。この月の連合艦隊は、南太平洋における陸軍の戦況悪化と、南太平洋海戦以降の海軍の損害で憂色が濃いという話の続き。

 

こうした八方塞りの状態にある連合艦隊にあって、ラバウルにあった外南洋部隊指揮官・第八艦隊長官三川中将の積極的な姿勢が目立つ。三川中将は、先にあった兵力部署移動の実施日をも考慮して、現在自分の指揮下にある駆逐艦のすべてを動かし、陸軍兵力を運ぶことを決断した。

 

 

これが上記の十一月輸送計画に関する著者の見解なのだが、それに限らず第八艦隊も、それから前回のR方面航空部隊も、輸送のみならず戦闘でもずいぶん活躍している。私もずっと裏方ばかりの職業人生なので、こういうときは感情移入しやすくできている。

 

最近あまりお目にかからないが、昔の歴史ファンは、歴史に「イフ」は禁物だがと前置きしておいて、歴史の「イフ」を語るのが常であった。いまでも前置きが無いだけで、自分も含め、イフを語らなければ歴史は面白くない。教科書を読んでいるだけになってしまう。

 

 

ただし、大抵の場合、「こうすれば上手く行ったのに」、「こうであってほしかった」または「危ないところだったが」という方向に話をもっていくのが通常で、それも空想ならばご愛敬。楽しみでやっているのだから。でも、当事者を過失、怠慢、臆病等々で攻撃する人も出る。

 

第八艦隊では、典型例が第一次ソロモン海戦で、敵輸送船団を襲撃せずに帰還した件が名高い。前掲亀井書の表現を借りれば、戦後の三川軍一氏がサイレント・ネイヴィーになったことに関連し、輸送船団に対する「二次攻撃をかけなかったことにつき戦後いろいろと素人玄人つきまぜた批判があったためと推量することができる」。

 

 

小説家亀井宏は、この心理的な要素がありそうな出来事と議論に興味を持ったようで、多くの人に取材している。人によって云うことがマチマチだった。特に、この乱闘後の帰還については惜しかったというひとと、妥当な判断だったというひとと、確かに意見が分かれている。

 

当事者はそれもまたむべなるかなで、事前の情報では(事前と言っても、まだ一日も経っていないけれど)、敵艦隊には空母あり、軍艦もありと諸情報入り乱れている中で、戦力が劣る日本側が大乱闘を仕掛けた夜中の戦いだったのだ。みな命がけで、自分の仕事に夢中になっている。

 

 

部外者が攻撃すると、こういうことになるという一例を挙げます。産経のネット記事。

https://www.sankei.com/west/news/150910/wst1509100005-n4.html

 

そのうちリンク切れになるかもしれないので、題名を書いておくと、「第1次ソロモン海戦(下) 山本五十六が激怒した重大ミス 戦果に満足し第1目標『米輸送船団』逃す」。なぜ重大ミスと判ずるのか、記事を読んでみると、山本五十六が激怒したからだというトートロジーにしか読めない。しかも、第八艦隊が「無傷のまま」帰ったというのは、事実誤認もはなはだしい。

 

 

先回登場願ったR方面の多田元参謀も、「連合軍の輸送船団を殲滅していたなら、ガダルカナル争奪戦もその後の様相を変えていたかもしれないものと惜しまれてならない」と書いている。そのとおり。そして逆に、第八艦隊が壊滅しても、様相は変わっていたはずだ。多田氏の名誉のためにも補足すると、この一文は、同艦隊が惰弱であったから、という文脈ではない。

 

その前からの「従来、我が国で踏襲してきた艦隊決戦の思想」の説明の箇所に出てきており、攻撃目標は戦艦や空母の大物ばかりで、輸送船に目もくれなかったという海軍の思想・体質に関わる意見です。さらに言えば、日本軍の基地増設や輸送補給といった、それこそ裏方仕事の軽視が、こういう結果を招くという話の筋でもある。

 

 

一休み。司馬遼太郎が「街道をゆく 42 三浦半島記」の中で、マリアナ沖の空母「大鳳」について語っている箇所があり、たいした脈略もないまま、こう、ポンと書いている。「ついでながら、日本の重巡洋艦は、姿がよかった」。

 

言われてみれば、そのとおりかな。写真は第八艦隊の旗艦、重巡「鳥海」のお姿。淵田美津雄・奥宮正武共著「機動艦隊」から拝借。

 

 

そもそも第八艦隊からして、南雲機動艦隊のような攻撃用の大艦隊とはいいかねる。大本営海軍部が山本連合艦隊司令長官に対し、第八艦隊の新編成時に出した指示は(原文カタカナ)、「第八艦隊は主として南太平洋方面における作戦に任ずるとともに、東部ニューギニアの戡定および同地以東の南太平洋方面占領地域の警備に任ず」。

 

この「戡定」という見なれない言葉は生涯二度と使わないと思うが、乱を討伐・平定するというような意味。警備となると本格的な海軍というよりも、いまの海上保安庁に近い感じがする。巡洋艦およびかき集めたような駆逐艦が主力で、ようやく兵力部署が決定したのは、1942年8月5日、連合軍のツラギ・ガダルカナル等への強行上陸の二日前。

 

 

海戦当夜、先頭の「鳥海」のうしろにいた二番艦の「青葉」に乗っていた竹村悟海軍大尉は、戦後、「実録太平洋戦争2」に寄せた回想録において、出陣の前の段階で、自分たちの艦隊のことを、「第八艦隊といっても、寄せ集めではね」と語り合ったことを記憶している。

 

その日、天候は不良だった。これは敵機による発見、妨害を防いだかもしれない。サボ島が見えたあたりで、この竹村大尉も、従軍した記録を「海戦」に書きとどめた丹羽文雄も、スコールに遭ったことを記録している。丹羽文雄は、「しょざいなくなったので、艦橋に出ることにした」ときだった。一番危ない場所であることを、考えなかったと書いている。

 

 

そのあと強いスコールの雨にたたかれて一旦引き下がると軍医に会い、この先生も気が早く心配性だったのか、「ツラギに上陸した米兵たちは、輸送船をやられてどうするつもりでしょうね」と、もう気苦労が始まっている。自分がそういう立場にたったときのことを考えなすったか。

 

また、丹羽記者は、士官たちのお喋り中に、「輸送船は沈めたくないね」という誰かの一言で、会話が途切れてしまったと書いている。これらの発言からも、これが輸送船を狙う作戦であったことは、他の資料も含めてみるに、間違いない。

 

 

作戦を練ったのは、主に先任参謀の神重徳と、作戦参謀の大前敏一だったろうと、当時「鳥海」水雷長の小屋愛之大尉が、亀井氏のインタビューに答えている。艦長も参謀長も、彼らの意見を尊重すること大であったらしい。

 

ちなみに、この大前参謀は、このブログの現時点で、宮崎参謀長とともに、ガダルカナル島に渡って会議中。神先任と彼は、本海戦の日の朝、第十七軍に速報を届け、その夜には「鳥海」に乗っている。なお、この時点で第十七軍の手持ちの全兵力はニューギニアにいる。小屋水雷長は、丹羽さんが書いたものは正確であり、会話もそのまんまだと感心した。

 

 

もう一人、その丹羽さん「海戦」に、いつもにこにこしている「太った砲術長」として出てくる「鳥海」の当時砲術長、仲繁雄氏に、亀井氏は福岡まで会いにいった。砲術長と水雷長は同じことを言っている。突入すれば、輸送船団がいるはずだった。ところが、敵戦艦がその手前をウロウロしていたのが邪魔になった。仲砲術長のお話し。

 

奥にいるじゃろう敵の本隊に気づかれてはまずいと、損得のかね合いを考慮して、駆逐艦が道をゆずったのを機に、そのまま奥に侵入していったわけですね。そして、入っていったらあんた、望遠鏡で見ると、いるもいないも、敵は意外と近いところにいた。

 

 

三川司令官は冷静だったと、多くが語っている。また、早川幹夫艦長だけが輸送船を討ちに引き返すべきだと進言したときも、艦内では神・大前参謀も含め、議論もなしに司令官の帰還命令にしたがったことを証言している。この艦長も度胸が据わっていて、後ろの僚艦が発砲し出しても、接近を止めない。仲砲術長は待ちきれない。対馬沖の「三笠」と似た光景になった。

 

いっこうに「撃ち方はじめ」の命令が艦橋から伝わってこないものだから ――艦長と私は、直通の伝声管で連絡し合っています―― もう敬語なんかつかっている心の余裕はなかったですたい。艦橋からは、右何十度といったり、左何十度といったりしてきますわい。ついしまいにこらえきれなくなって、「まだ撃たないのかっ」って大声で艦長に向かって怒鳴りましたい。

 

 

確かに福岡だな。この時点では、敵空母がいる心配が、まだある。輸送船がどこにあるかも分からない。これで無理せよというのは無理ではないのか、産経。従軍の新聞記者は皆こわがって誰ひとり観戦せず、ひとり旗甲板を歩いた丹羽文雄が大怪我をした。

 

臨時の医務室に行ったところ負傷者多数なのに驚き、軍医に、後で出直しますと言って去ろうとしたところ、応急手当はしてくれた。これで命をひろうとは、長生きしますよと参謀長に言われている。以下は「海戦」の終幕。これで無傷のままとは、私は言わない。

 

 

ある一室をのぞくと、線香が燃えていた。二三十本の小さな火から濃い白い煙をあげていた。清潔な部屋に戦死者が安置されていた。私は立ったまま合掌をした。

 

山本五十六司令長官が、「この引き揚げには、非常に不満であったという」と海軍の戦史叢書が書いている。この時期の連合艦隊の目的は敵機動艦隊の殲滅であり、敵空母を沈めるという大目標が常にあった。不機嫌だったのは、輸送船の撃ち漏らしが主因ではないように思うのだが、どうか。

 

 

 

(おわり)

 

 

 

飯田橋から水道橋へ 私の散歩道

(2019年6月25日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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