南太平洋海戦はどのような位置づけのものなのか、まずは古典的な海軍の通史のひとつ、高木宗吉著「太平洋海戦史」(岩波文庫)を読み直します。初版は1949年と戦後まもなくであり、編集者のまえがきには、著作の性格上、「敵という文字の使用を避けることができなかった」とある。

 

大変な気の使いようだ。私なぞ何度、当然のごとく使ったか。正直なところ、スポーツの敵地みたいな感覚しか持っていない。なお、同書は一度だけ統計資料等の改訂をしただけで版を重ねており、私が持っている本は、2013年の第34刷。ロング・セラーです。

 

なお、高木氏は南太平洋海戦時は、陸上勤務だった。経歴は全般に「赤レンガ」。ミッドウェーで空母と共に沈んだ「蒼龍」の柳本柳作、「飛龍」の加来止男の両艦長とは、海軍大学校の同期生だったそうだ。

 

 

高木宗吉元海軍軍人の名を知ったのは、そう遠い昔ではなく、マリアナの戦いを調べ始めた三年くらい前、東条英機の暗殺計画を練った人物という物騒なエピソードによる。しかし本書は冷静になってから書いたからか、むしろ淡々とした筆致になっている。

 

本書の編者と著者の問題意識は、戦争があったという事実から早くも国民が目を背けつつある風潮に対し、「歴史的資料として保存される価値のあるもの」は、後世のために残す責務があるといった趣旨。まず印象に残った、「マライ沖海戦の脅威」という章から引用します。

 

 

マライ沖海戦は真珠湾と異なり、敵艦隊の塒(ねぐら)を襲ったものではなかったのだ。英海軍航空隊のために、独新戦艦ビスマルクが撃沈されたのであったが、空母か戦艦かはいまだ定説に至っていなかったのである。

 

この真珠湾とマライ沖海戦の革命的意義をいち早く把握し、破天荒の決断を以て陸海空の大改革を実現したのは、皮肉にも緒戦の苦杯を交わった米国自身で、日本はむしろ戦勝気分の陶酔をつづけ、航空準備の拡張整備には全く立ち遅れてしまった。

 

 

なんせ古い本なので、旧字体が並んでおり、たとえば真珠湾は「眞珠灣」である。「ねぐら」にこういう漢字表記があったのを初めて知った。そのまま転載すると日が暮れるので、適宜、今の漢字に換えています。

 

日本軍が太平洋戦争開始時に全身全霊を尽くしたのは疑う余地がないが、上記によれば、平たく言うと、敵サンにその極意を伝授したような展開になった。確かに、ドイツは欧州亜大陸では陸戦であり、対英戦は空襲とUボートで、上陸作戦はしていないはず。

 

 

厳しい指摘としては、転載箇所の最後にある「日本はむしろ戦勝気分の陶酔をつづけ、航空準備の拡張整備には全く立ち遅れてしまった」という点であり、「航空準備」というからには、航空機や空母の開発製造、そして搭乗員の育成というあたりが基礎か。

 

ではその航空機同士の決戦となった南太平洋海戦に関する章に移ります。勝った負けたの評価はしておらず、むしろ簡潔に戦闘経緯が記されている。

 

この章の直前に、ガダルカナル陸軍の十月総攻撃の記述がある。この本は「海戦史」なのだが、陸海一方のことばかり書いているような他の戦史とは、この点が異なる。なお戦艦数などのデータは、追って逐次記載しますので、ここでは数字は省きます。

 

 

この陸上戦闘と協同するため、ソロモン群島の東方海上を南下した機動部隊は、二十五-二十六日の夜半、敵の接触機に爆撃され、はじめて索敵に先んじられたことを知り、即時反転、北上して先制空襲をかわした。

 

払暁になって、南方約二百浬に二群の大部隊を発見し、三回の空襲で重大な打撃を与えたので、米機動部隊は被害に堪えず総潰れとなって退いた。

 

わが艦隊は夜戦を目論見て追撃したが、炎上中の空母ホーネットを撃沈した外に、敵を捕捉することができず、翌二十七日も敵影を見ないうちに、燃料に欠乏して追撃を打切り、基地に帰ることになったのである。

 

 

句読点を補ってあります。この文章に続く日本側の損害についての説明では、「飛行機喪失六十九機に達した」、「艦艇の沈没は意外に少なかったものとみられる」とある。なお、文中の「追撃」が、全艦隊を挙げてのものだったかどうかは検討を要する。

 

続きが陸軍で、「夜襲本位を思い止まり、第三十八、五十一両師団を送り」、「重火器の正攻法に移る方針に変更されたのであるが」、この追加の大規模輸送を行うためには、輸送船で150隻、もし鼠輸送の駆逐艦を使うなら800隻という、海軍の実力を超えたものになる。東ニューギニアの戦線も、「壊滅の一歩手前に陥っていた」。

 

 

米軍は、「その戦力の消耗を意に介しない米人特有の強靭性(タフネス)」を示し、十一月に入ってからは、日本海軍の消耗度合いも厳しさを増す。陸軍は島上で干上がり、第八軍の編成に至るが、わが航空部隊はその上空の攻撃も中絶せざるを得ないほどに弱体化した。

 

対する米国の艦隊、航空隊の増強は活発化し、「陸海空共に、日米の戦略的形勢逆転は、ようやく表面に現れてきた」というのが総括です。この先、このブログが沈鬱な記事の連続にならないようにするためには、よほどの奮闘努力が必要になりそうな予感がする。

 

 

 

 

十月桜と雪柳  (2019年3月27日撮影)

 

 

連合艦隊は、ガダルカナル島の陸軍を艦砲射撃や輸送で支援しつつ、ミッドウェー以来念願の機動部隊決戦のための索敵行動を続けている。なかなか敵は出て来なかった。南太平洋で出動可能な空母が、一隻しかなかったのも一因だろう。

 

海戦に向けての本格行動は、そのさみしい留守番役だった「ホーネット」に加え、第二次ソロモン海戦のダメージから回復した「エンタープライズ」がハワイから戻り、ニューへリブデス諸島の北西海上で合流した1942年10月24日からだろう。「エンタープライズ」はニミッツの命令により、48時間で修理したと米軍資料にある。

 

 

児島襄「太平洋戦争」に、南太平洋海戦の戦果に関する10月27日の大本営発表が掲載されている。「空母四、戦艦一、艦形未詳一を撃沈」(以下略)。二隻中、四隻を撃沈したのだが、これは宇垣纒「戦藻録」によれば、大本営の脚色ではなく、連合艦隊からの報告時点でそうなっている。

 

後に三隻、二隻とだんだん現実に近づく方向で修正されていくのだが、大本営陸軍部は勝報に接して力んだのか、後述するように戦線の再構築に大忙しのガダルカナル第十七軍との間で、作戦構想に、さっそく食い違いが生じてしまう。このため、東京の服部作戦課長とラバウルの宮崎参謀長が、それぞれガダルカナル島に赴くことになった。

 

では、いきなり戦闘経過に入る前に、次回からしばらくは周辺情報や、過去の書き漏らしなどの補足から始めます。これまで陸軍の戦史叢書や回想録ばかり読んできたが、海軍もソロモンでは、高木宗吉いわく、「わが中央、現地ともに渾身の力を傾けても足らぬ難事であった」。

 

 

(おわり)

 

 

 

五二型  (2019年3月17日)

 

 

 

 

 

 

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