静岡 浜松 駅近 ボディケアサロン Li・La・Mente~リラメンテ~ 熊谷亜紀子 -2ページ目

静岡 浜松 駅近 ボディケアサロン Li・La・Mente~リラメンテ~ 熊谷亜紀子

人間が本来持つ「自然治癒力」を引き出すお手伝い。デスクワークによる首こり・肩こり、五十肩、腰痛、目の疲れ、脚のむくみ、不眠、ストレスでお困りの方に。

【言志耋録 61条より】

 

善く身を養う者は
常に病を病無きに治め

善く心を養う者は
常に欲を欲無きに去る

88888888888888888888888888888888

よく身体を養う人は
常に病気を病気でない時に治めているし

精神修養に心掛けている人は
私欲の出る前にこれを取り去ってしまう

88888888888888888888888888888888

あなたは

心と身体を
よく養うことで


事なきを得ます

【言志耋録 60条より】


気(き)導(みちび)いて
体(たい)随(したが)い

心(こころ)和(わ)して
言(げん)順(したが)わば

挙手投足(きょしゅとうそく)も
礼楽(れいがく)に非(あら)ざるは無(な)し

88888888888888888888888888888888

気が先に立って
体がこれに従って動き

心が和(なご)やかで
言葉もこれに従って

温順であれば
すべての挙動は礼儀に協(かな)い
音楽の本旨に適(かな)うものである

88888888888888888888888888888888

あなたが

志に
真っ直ぐに行動すれば

世の秩序を保ち
人の心を感化する

文化となります

【言志耋録 59条より】

事有る時
此の心の寧静(ねいせい)なるは
難きに似て易く


事無き時
此の心の活 (かっぱつ)なるは
易きに似て難し

88888888888888888888888888888888

何か事件が起こった時は
心を静かに安らかに保って行くことは
困難であるようではあるが
比較的容易である

これに反して
平穏無事の時は
心の働きはだらけてしまっていて
これを活発に働かすことは
容易のようで実は難しい

88888888888888888888888888888888

あなたは

平穏無事の時こそ
意識することで

活発になることが
できます

【言志耋録 58条より】

「人の生くるや直し」

当(まさ)に
自ら反(かえ)りみて

吾が心を以て
註脚(ちゅうきゃく)と為すべし。

88888888888888888888888888888888

「人が生きておれるのは、
 正直であるからだ。」

この言葉を十分にかみしめて、
自己反省の資料とし、

自分の心をもって
この言葉の註となすべきである。

88888888888888888888888888888888


あなたは

自分の心を感じることで
中心にもどることが
できます
 

【言志耋録 57条より】

「心静にして
 方(まさ)に能(よ)く白日を知り

 眼(まなこ)明らかにして始めて
 青天を識(し)るを会(え)す」

とは

此れ
程伯(ていはく)氏の句なり


青天白日は
常に我に在り

宜しく之れを坐右に掲げ以て
警戒と為すべし

88888888888888888888888888888888

「心が静かな時に
 輝く太陽の有難さを知り

 眼が明らかな時に
 澄み渡った大空の壮快さを知る」

とは

程明道の句である


この句の通り
青天白日というものは
常に自分自身にあるのであって
自分の外にあるのではない

これを坐右に掲げて
戒めの言葉とするがよい

88888888888888888888888888888888

あなたは

自分の中にあるものよって
外にあるものを感じることが
できます

【言志耋録 56条より】

知らずして知る者は
道心なり

知って知らざる者は
人心なり

88888888888888888888888888888888

人間智によらないで
道理も見通すのが道心である

何でも知っているようで
その実
真相を把握しないのが
人心である


※道心は
 本来の心で真相を見通す心

 人心は
 欲にさえぎられて
 うわべだけで
 真相を見届けられない心

88888888888888888888888888888888

あなたは

欲にさえぎられずに
道理を見通せるように
努めます

【言志耋録 55条より】

心無きに
心有るは
工夫是れなり

心有るに
心無きは
本体是れなり

88888888888888888888888888888888

心の本体は
ないように思われるが

いや
本体はあるのだと追求し
修養につとめるのが
工夫というものだ


また反対に
心はあるとして
追求して行くと

無いという
結論に達するのが
本体である

(心の本体を追求して
 有心、無心の二面を悟るのが
 達人ということであろう)

88888888888888888888888888888888

あなたは

一つの真理に対して
多角的にとらえることができます

【言志耋録 54条より】

「惟(こ)れ精惟れ一」
とは
工夫の上に本体を説き

「声無く臭(か)無し」
とは
本体の上に工夫を説く

88888888888888888888888888888888

『書経』
「大禹謨」に

「惟れ精惟れ一
 允(まこと)に厥(そ)の中を執れ」
とある


この精一の工夫は

工夫それ自体が
本体を明らかにする
というものだ


心の本体は
どんなものかというと

『詩経』
「大雅、文王」にあるとおりで

「上天の載(こと)は
 声もなく臭もなし」である


即ち
「声なく臭なし」
という本体のありようは

同時に声をなくし
臭をなくす
工夫につながる
というわけである

88888888888888888888888888888888

あなたは

学問、読書、静坐、実践など
あらゆる形式の修養方法で
良知の本体を極めることができます

【言志耋録 53条より】

喜怒哀楽は

直ちに
面貌(めんぼう)に見(あら)わる

形影(けいえい)は一套(とう)

声響は同時

之れを心身合一と謂う

88888888888888888888888888888888

喜・怒・哀・楽の
四つの感情は

直ちに
顔色にあらわれるものである


丁度
形と影が一つであり

声と響が同時に
発せられるようなものである

これを
心と身が合一したもの
というのである

88888888888888888888888888888888

あなたは

心と体を
合わせることができます

【言志耋録 52条より】

心につきて知と曰う
知は即ち行の知なり

身に就きて行と曰う
行は即ち知の行なり

譬(たと)えば猶お
人語を聞きて
之れを了するがごとし

諾(だく)は口に就き
頷(がん)は身みに就つけども
等しく是れ一了字なり

88888888888888888888888888888888

心については
知といい

その知は
行わんがための知である

身体については
行といい

その行は
知るところのものを
行なうのである

例えば
人の言葉をきいて

これを了解する
というようなものである

この場合
口では「承知した」といい
体では「うなずいてみせる」が

何(いず)れも
了解したということである


※知と行はこんなもので
 心について言えば知
 身について言えば行
 別物ではない

 知行合一の理の入口を
 言ったものである


88888888888888888888888888888888

あなたは



言葉
全てを一致させることが
できます