静岡 浜松 駅近 ボディケアサロン Li・La・Mente~リラメンテ~ 熊谷亜紀子 -3ページ目

静岡 浜松 駅近 ボディケアサロン Li・La・Mente~リラメンテ~ 熊谷亜紀子

人間が本来持つ「自然治癒力」を引き出すお手伝い。デスクワークによる首こり・肩こり、五十肩、腰痛、目の疲れ、脚のむくみ、不眠、ストレスでお困りの方に。

【言志耋録 51条より】

人は童子たる時
全然たる本心なり

稍(やや)長ずるに及びて
私心稍生ず

既に成立すれば
則ち更に
世習を夾帯(きょうたい)して

而(しこう)して
本心殆(ほとん)ど亡ぶ

故に此の学を為す者は
当(まさ)に
能(よ)く斬然として
此の世習を袪(さ)り

以て本心に復すべし

是れを要と為す

88888888888888888888888888888888

人は幼い時は
完全に真心をもっている

やや長ずるに及ぶと
私心が少しずつ起きてくる

そして
一人前になると

その上さらに
世俗の習慣に馴染んで

真心を殆(ほと)んど失ってしまう


故に
この聖人の学をなす者は
常によくきっぱりと
この世俗の習慣を振り払って

その真心に
復帰すべきである

このことが
最も肝要である

88888888888888888888888888888888

あなたは

幼いころの
無垢な心にかえることで

世の習慣の囚われや
勝手の心を
断ち切ることができます

【言志耋録 50条より】

端坐(たんざ)して
内省し
心の工夫を做(な)すには

宜しく先(ま)ず
自ら其の主宰を認とむべきなり

省する者は我れか
省せらるる者は我れか

心は固(も)と
我れにして
軀(み)も亦た我れなるに

此の言を為す者は
果して誰(たれ)か

是れを之れ自省と謂う

自省の極は
乃(すなわ)ち霊光(れいこう)の
真の我れたるを見る

88888888888888888888888888888888

きちんと坐って
内心をかえりみ
心の修養をするには

まず
自ら自己の本体を
認識しなければならない

「内省するのも自己であるのか。

 それとも内省されるものが
 自己であるのか。

 心はもとより自己であり
 肉体もまた自己であるのに

 この言葉を発する主体は
 果して誰であるのか」

と。

こうするのを
自己反省というのである

このような
自己反省の窮極に至って

霊妙な良心の光が
真の自己である事を
知るに至るのである

88888888888888888888888888888888

あなたは

内省し

良心に従うことで
真の自己が
仮の自分の人欲に克ちます
 

【言志耋録 49条より】

喜気は
猶お春のごとし
心の本領なり

怒気は
猶お夏のごとし
心の変動なり

哀気は
猶お秋のごとし
心の収斂なり

樂気は
猶お冬のごとし
心の自得なり

自得は又
喜気の春に復す

88888888888888888888888888888888

喜びは
春のようなもので
これは心の本来の姿である

怒りは
夏のようなもので
心の変動した姿である

哀れみは
秋のようなもので
心のひき締った姿である

楽しみは
冬のようなもので
心に自ら得る姿を示している

この自得の姿が
また喜びの春に
復(かえ)ってゆくのである

88888888888888888888888888888888

あなたは

喜怒哀楽による
心の変化によって
成長していきます
 

【言志耋録 48条より】

喜怒哀楽の四情


常人に在りては

喜怒の発する
十に六七

哀楽の発する
十に三四にして

過失も亦
多く喜怒の辺に在り


警(いま)しむ可し

88888888888888888888888888888888

人には
喜・怒・哀・楽の四つの情がある


普通の人ならば

喜びや怒りの起こることが
十のうち六、七であり

悲しみや楽しみの起こるのは
十のうち三、四である

このように
喜怒の方が多いから

過りや失敗も
喜びや怒りを起こした場合に多い


警戒しなければならない

88888888888888888888888888888888

あなたは

感情の変動に気づくことで
注意することができます
 

【言志耋録 47条より】

凡(およ)そ
活き物は
養わざれば則ち死す

心は則ち
我れに在るの一大活物なり

尤(もっと)も
以て養わざる可からず

之れを養うには
奈何(いか)にせん

理義の外に
別方(べっぽう)無きのみ

88888888888888888888888888888888

およそ
生命ある物は
之を養わないと死んでしまう

心は即ち
各自が有する一大活物であるから
一番よく養わねばならない

これをよく養う方法はどうか

それはただ
道理を明らかにし

各自の心を
その道理に照らしてみる外には
別の方法はないのである

88888888888888888888888888888888

あなたは

物の道理に照らすことで
心を養うことができます
 

【言志耋録 46条より】

一旦豁然(いったんかつぜん)
の四字

真に是れ
海天出日の景象なり

認めて
参禅頓悟(さんぜんとんご)の
境と做(な)すこと勿れ

88888888888888888888888888888888

「一旦豁然」の四字は

例えば書物を読んで
わからなかった問題が

苦心に苦心を重ねて
「アアわかった」と思った時

これが一旦豁然で

丁度
海上に旭(あさひ)が昇った
有様である


この一旦豁然は
学理上の問題が
わかった時のことで

参禅をして
はっと悟る
というようなものではない

(禅の場合は
 心の問題或は
 霊的な場合である)


88888888888888888888888888888888

あなたは

ある段階にくると
自分の心の全体が
明らかになってきます
 

【言志耋録 45条より】

主宰より
之れを理と謂い

流行より
之れを気と謂う

主宰無ければ
流行する能(あた)わず

流行して然る後
其の主宰を見る

二に非ざるなり

学者
輒(やや)もすれば
分別に過(す)ぎ
支離の病を免がれず

88888888888888888888888888888888

宋儒の理・気説に従えば
理は本体
気は運用である


(一斎先生がいわれるには)

万物を統(す)べ
司どっているという点からいえば
理であり

万物が生成し
流行しているという点からいえば
気である

ところで
主宰なければ
流行することも出来ないし

その流行があるから
主宰を見るのである

丁度
水あるが
故に波あり

波あるをもって
水を知るようなもので

この理と気は
二つではない

しかるに
学者の中にはややもすると
分ち過ぎて

離ればなれに見る病が
あるものがいる


※この考え方は
王陽明の
「理は気の条理、気は理の運用」
という見方からいったもので

当時の朱子学者に
警告を発せられたものである


88888888888888888888888888888888

あなたは

理と気
二つで一つの事柄を
理解していきます
 

【言志耋録 44条より】

一息の間断無く
一刻の急忙無し

即ち是れ
天地の気象なり

88888888888888888888888888888888

天地の気象の変化を
観察すると

一瞬として休むことがなく

また
いつ見ても
あわただしく動くこともない

88888888888888888888888888888888

あなたは

天地の気象を観察することで
感じること、学べることが
たくさんあります
 

【言志耋録 43条より】

衣食住は
並びに欠く可からず

而(しこう)して
人欲も亦
此(ここ)に在り


其の甚しき者は食なり

故に
飲食を菲(うす)うするは
尤(もっと)も先務たり

88888888888888888888888888888888

衣服と食物と住居の三つは
生活の根本で欠くことはできない

従って
人間の欲望もここにある

そのうちで
一番甚(はなはだ)しいものは
食物である


だから
(栄養不足になっては困るが)

飲食を節約することが
一番先にやることである


88888888888888888888888888888888

あなたは

どの欲望を抑え
生きるべきかを理解しています
 

【言志耋録 42条より】

人欲の中(うち)
飲食を以て
尤(もっと)も甚(はなはだ)しと為す


賤役庶徒(せんえきしょと)を観るに
隘巷(あいこう)に居り

襤褸(らんる)を衣る


唯(ただ)に
飲食に於いては
則ち都(す)べて過分たり

得る所の銭賃は
之れを飲食に付し

毎(つね)に輒(すなわ)ち
衣を典して以て
酒食に代うるに至る


況(いわん)や
貴介の人は
飲食尤も豊鮮たり


故に聖人は
箪食瓢飲(たんしひょういん)を以て
顔子を称し

飲食を菲(うす)くするを以て
大禹を称せり

其の易事に非(あら)ざること
推(すい)す可きなり


88888888888888888888888888888888

人の欲望の中で
飲食の欲望が一番甚しい

自分が
賤しい労役に従事している人々を
観察すると

せまくるしい小路に住み
身にはボロをまといながら

ただその飲食物にだけは
すべて分に過ぎた事をしている


そして
日々働いて得た賃金は
飲食に使ってしまう

また
常に自分の衣類を質に入れて
酒や肴の代に替えている


身分の高い人々の飲食は
なおさら豊富で新鮮なものである


こんなわけだから
孔子は

非常な粗食に甘んじながら
道を楽しんだ
弟子の顔回を称揚(しょうよう)し

また
自分の飲食物をきりつめて
神さまに供物を差上げた
大禹(たいう)を称揚したのである


以上に依って見ても
飲食に対する欲望を抑制することは
容易でないことが推察できる


88888888888888888888888888888888

あなたは

飲食の欲に流されず
清貧に甘んじ
捧げる生き方ができます。