【言志耋録 51条より】
人は童子たる時
全然たる本心なり
稍(やや)長ずるに及びて
私心稍生ず
既に成立すれば
則ち更に
世習を夾帯(きょうたい)して
而(しこう)して
本心殆(ほとん)ど亡ぶ
故に此の学を為す者は
当(まさ)に
能(よ)く斬然として
此の世習を袪(さ)り
以て本心に復すべし
是れを要と為す
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人は幼い時は
完全に真心をもっている
やや長ずるに及ぶと
私心が少しずつ起きてくる
そして
一人前になると
その上さらに
世俗の習慣に馴染んで
真心を殆(ほと)んど失ってしまう
故に
この聖人の学をなす者は
常によくきっぱりと
この世俗の習慣を振り払って
その真心に
復帰すべきである
このことが
最も肝要である
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あなたは
幼いころの
無垢な心にかえることで
世の習慣の囚われや
勝手の心を
断ち切ることができます
【言志耋録 50条より】
端坐(たんざ)して
内省し
心の工夫を做(な)すには
宜しく先(ま)ず
自ら其の主宰を認とむべきなり
省する者は我れか
省せらるる者は我れか
心は固(も)と
我れにして
軀(み)も亦た我れなるに
此の言を為す者は
果して誰(たれ)か
是れを之れ自省と謂う
自省の極は
乃(すなわ)ち霊光(れいこう)の
真の我れたるを見る
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きちんと坐って
内心をかえりみ
心の修養をするには
まず
自ら自己の本体を
認識しなければならない
「内省するのも自己であるのか。
それとも内省されるものが
自己であるのか。
心はもとより自己であり
肉体もまた自己であるのに
この言葉を発する主体は
果して誰であるのか」
と。
こうするのを
自己反省というのである
このような
自己反省の窮極に至って
霊妙な良心の光が
真の自己である事を
知るに至るのである
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あなたは
内省し
良心に従うことで
真の自己が
仮の自分の人欲に克ちます
【言志耋録 49条より】
喜気は
猶お春のごとし
心の本領なり
怒気は
猶お夏のごとし
心の変動なり
哀気は
猶お秋のごとし
心の収斂なり
樂気は
猶お冬のごとし
心の自得なり
自得は又
喜気の春に復す
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喜びは
春のようなもので
これは心の本来の姿である
怒りは
夏のようなもので
心の変動した姿である
哀れみは
秋のようなもので
心のひき締った姿である
楽しみは
冬のようなもので
心に自ら得る姿を示している
この自得の姿が
また喜びの春に
復(かえ)ってゆくのである
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あなたは
喜怒哀楽による
心の変化によって
成長していきます
【言志耋録 48条より】
喜怒哀楽の四情
常人に在りては
喜怒の発する
十に六七
哀楽の発する
十に三四にして
過失も亦
多く喜怒の辺に在り
警(いま)しむ可し
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人には
喜・怒・哀・楽の四つの情がある
普通の人ならば
喜びや怒りの起こることが
十のうち六、七であり
悲しみや楽しみの起こるのは
十のうち三、四である
このように
喜怒の方が多いから
過りや失敗も
喜びや怒りを起こした場合に多い
警戒しなければならない
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あなたは
感情の変動に気づくことで
注意することができます
【言志耋録 47条より】
凡(およ)そ
活き物は
養わざれば則ち死す
心は則ち
我れに在るの一大活物なり
尤(もっと)も
以て養わざる可からず
之れを養うには
奈何(いか)にせん
理義の外に
別方(べっぽう)無きのみ
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およそ
生命ある物は
之を養わないと死んでしまう
心は即ち
各自が有する一大活物であるから
一番よく養わねばならない
これをよく養う方法はどうか
それはただ
道理を明らかにし
各自の心を
その道理に照らしてみる外には
別の方法はないのである
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あなたは
物の道理に照らすことで
心を養うことができます
【言志耋録 46条より】
一旦豁然(いったんかつぜん)
の四字
真に是れ
海天出日の景象なり
認めて
参禅頓悟(さんぜんとんご)の
境と做(な)すこと勿れ
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「一旦豁然」の四字は
例えば書物を読んで
わからなかった問題が
苦心に苦心を重ねて
「アアわかった」と思った時
これが一旦豁然で
丁度
海上に旭(あさひ)が昇った
有様である
この一旦豁然は
学理上の問題が
わかった時のことで
参禅をして
はっと悟る
というようなものではない
(禅の場合は
心の問題或は
霊的な場合である)
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あなたは
ある段階にくると
自分の心の全体が
明らかになってきます
【言志耋録 45条より】
主宰より
之れを理と謂い
流行より
之れを気と謂う
主宰無ければ
流行する能(あた)わず
流行して然る後
其の主宰を見る
二に非ざるなり
学者
輒(やや)もすれば
分別に過(す)ぎ
支離の病を免がれず
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宋儒の理・気説に従えば
理は本体
気は運用である
(一斎先生がいわれるには)
万物を統(す)べ
司どっているという点からいえば
理であり
万物が生成し
流行しているという点からいえば
気である
ところで
主宰なければ
流行することも出来ないし
その流行があるから
主宰を見るのである
丁度
水あるが
故に波あり
波あるをもって
水を知るようなもので
この理と気は
二つではない
しかるに
学者の中にはややもすると
分ち過ぎて
離ればなれに見る病が
あるものがいる
※この考え方は
王陽明の
「理は気の条理、気は理の運用」
という見方からいったもので
当時の朱子学者に
警告を発せられたものである
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あなたは
理と気
二つで一つの事柄を
理解していきます
【言志耋録 44条より】
一息の間断無く
一刻の急忙無し
即ち是れ
天地の気象なり
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天地の気象の変化を
観察すると
一瞬として休むことがなく
また
いつ見ても
あわただしく動くこともない
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あなたは
天地の気象を観察することで
感じること、学べることが
たくさんあります
【言志耋録 43条より】
衣食住は
並びに欠く可からず
而(しこう)して
人欲も亦
此(ここ)に在り
又
其の甚しき者は食なり
故に
飲食を菲(うす)うするは
尤(もっと)も先務たり
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衣服と食物と住居の三つは
生活の根本で欠くことはできない
従って
人間の欲望もここにある
そのうちで
一番甚(はなはだ)しいものは
食物である
だから
(栄養不足になっては困るが)
飲食を節約することが
一番先にやることである
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あなたは
どの欲望を抑え
生きるべきかを理解しています
【言志耋録 42条より】
人欲の中(うち)
飲食を以て
尤(もっと)も甚(はなはだ)しと為す
余
賤役庶徒(せんえきしょと)を観るに
隘巷(あいこう)に居り
襤褸(らんる)を衣る
唯(ただ)に
飲食に於いては
則ち都(す)べて過分たり
得る所の銭賃は
之れを飲食に付し
毎(つね)に輒(すなわ)ち
衣を典して以て
酒食に代うるに至る
況(いわん)や
貴介の人は
飲食尤も豊鮮たり
故に聖人は
箪食瓢飲(たんしひょういん)を以て
顔子を称し
飲食を菲(うす)くするを以て
大禹を称せり
其の易事に非(あら)ざること
推(すい)す可きなり
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人の欲望の中で
飲食の欲望が一番甚しい
自分が
賤しい労役に従事している人々を
観察すると
せまくるしい小路に住み
身にはボロをまといながら
ただその飲食物にだけは
すべて分に過ぎた事をしている
そして
日々働いて得た賃金は
飲食に使ってしまう
また
常に自分の衣類を質に入れて
酒や肴の代に替えている
身分の高い人々の飲食は
なおさら豊富で新鮮なものである
こんなわけだから
孔子は
非常な粗食に甘んじながら
道を楽しんだ
弟子の顔回を称揚(しょうよう)し
また
自分の飲食物をきりつめて
神さまに供物を差上げた
大禹(たいう)を称揚したのである
以上に依って見ても
飲食に対する欲望を抑制することは
容易でないことが推察できる
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あなたは
飲食の欲に流されず
清貧に甘んじ
捧げる生き方ができます。