【言志耋録 41条より】
人欲起こる時
身の熱湯に在るが如く
欲念消ゆる時
浴後の醒快なるが如し
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人が一たび欲望が起こった時は
熱い湯の中にあるように感じて
もがきにもがいて
欲しい物を得ようとするが
その欲心が去ってしまうと
丁度湯から出た時のように
心がさっぱりとして
心地よいものである
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あなたは
今の自分の欲の状態を
感覚的に理解することができます
【言志耋録 40条より】
真の己れを以て
仮の己れに克つは
天理なり
身の我れを以て
心の我れを害するは
人欲なり
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自分というものには
真の自分と
仮の自分とがあって
真の自分をもって
仮の自分に克つのは
天の道理である
これに反して
物質的に
身体の欲望に
動かされる自分をもって
精神的に
生きようとする
心の自分を害して行くのは
人欲である
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あなたは
真の自分と
仮の自分を認識し
欲ではない
精神を満たすことができます
【言志耋録 39条より】
気象を理会するは
便(すなわ)ち
是れ克己の工夫なり
語黙動止
都(す)べて
篤厚(とくこう)なるを要し
和平なるを要し
舒緩(じょかん)なること勿れ
激烈なること勿れ
急速なること勿れ
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自分の気性を把握することは
即ち
己に克つ工夫である
語るも黙るも動くも止まるも
すべて
手厚く親切であり
おだやかであり
ゆるやかであることが必要だ
あらあらしくてはいけない
烈しくてもよくない
気ぜわしくてもよくない
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あなたは
自分の気質を知ることで
おだやかにいられます
【言志耋録 38条より】
「予(よ)
言う無からんと欲す」
欲すの字の内
多少の工夫有り
「士は賢を睎(ねが)い
賢は聖を睎(ねが)い
聖は天を睎(ねが)い」
とは
即ち
此の一の欲の字なり
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「私は今後
何も言うまいと欲す」
と孔子は言った
この「欲す」という字には
いろいろと工夫がある
即ち
「士(立派な人間)は
賢人になろうと欲し
賢人は
聖人になろうと欲し
さらに聖人は
天と一つになることを欲す」
といった工合で
これらはみな
一つの「欲」の字
即ち
向上心である
(それぞれ工夫は大いに異なる)
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あなたは
欲ー向上心の
つかいどころを
工夫することができます
【言志耋録 37条より】
学を為すには
人の之れを強うるを俟(ま)たず
必ずや
心に感興(かんきょう)する所有って
之れを為し
躬(み)に
持循(じじゅん)する所有って
之れを執り
心に
和楽する所有って
之れを成す
「詩に興(おこ)り
礼に立ち
楽に成る」
とは
此れを謂うなり
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学問をするには
他人から
無理強いされてするのではない
必ず
自分の心に感じ
奮起する所があって之れをなし
この心を
すなおに持ち続けて
学問をつとめ行い
楽しむにいたって
学業が成就するのである
※『論語』泰伯篇より
「詩によって学をなすの心を興し
礼によってその志と行動を確立し
音楽によって徳を成就する」
とあるのは
まさにこのことである
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あなたは
心に感じるものがあって奮起し
遵守し実践することで
精神修養していきます
【言志耋録 36条より】
学を為すには
自然有り
工夫有り
自然は是れ順数にして
源よりして流る
工夫は是れ逆数にして
麓よりして巓(てん)す
巓(いただき)は
則ち源の在る所
麓は
則ち流れの帰する所
難易有りと雖(いえど)も
其の究は一なり
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学問(精神修養)をするには
自然的方法と
工夫的方法の二つがある
自然的方法は
自然の道理に従う方法で
例えば
水源から流れ下る
方法のようなものである
工夫的方法とは
逆に進む方法で
山の麓から
山頂に登るようなものである
山頂は
水源のある所であり
麓は
流れの帰する所で
難易の別はあるけれども
その到達する
究極の真理は一つである
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あなたは
自然の道理と
自己の考案が
同じところに到達するという
真理を理解しながら
精神修養をしていきます
【言志耋録 35条より】
吾が輩
筆硯(ひっけん)の
精良(せいりょう)を以て
娯(たのしみ)と為し
山水の遊適を以て
娯と為す
之れを
常人の楽しむ所に比すれば
高きこと一著なりと謂う可し
然れども
之れを孔・顔の
楽処に方(くら)ぶれば
翅(た)だに下ること
数等のみならず
吾人(ごじん)盍(なん)ぞ
反省せざるや
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自分は
精選された良い筆や硯(すずり)を
用いることを楽しみとしている
また
心のおもむくままに
山水に遊んで楽しんでいる
これを
普通の人々の楽しみと比べれば
一段優れているといってよいであろう
しかし
これを
孔子や顔回(がんかい)の
楽しむ所と比べれば
ただに
数等下るばかりではない
大いに
反省しなければならない
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『論語』述而篇より
孔子の楽処:
疏食を飯(くら)い
水を飲み
肱(ひ)を曲げて
之を枕とす
楽もまた
其の中にあり
不義にして富み
且つ貴きは
我において浮雲の如し
↓
貧しき生活の中にも楽しみはある
不正による豊かさなど
はかなきものだ
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『論語』雍也篇より
孔子に評された
顔回の楽処:
一箪(たん)の食(し)
一瓢(ぴょう)の飲
陋巷(ろうこう)にあり
人その憂に堪えず
回やその楽を改めず
↓
竹のわりご一杯のめし
ひさごのお椀一杯の飲みものといった
狭い路地での粗末な暮らしに粗末な食事
そんな貧窮の環境下でも
自分の楽しみを知る
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あなたは
どのような状況下でも
楽しみを知ることができます
【言志耋録 34条より】
楽の字に
真仮有り
苦の字にも亦
真仮有り
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楽しみにも
苦しみにも
本物と
にせ物がある
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あなたは
本物とにせ物が
存在することを
理解していきます
【言志耋録 33条より】
得意の事多く
失意の事少なければ
其の人知慮を減ず
不幸と謂う可し
得意の事少なく
失意の事多ければ
其の人知慮を長ず
幸いと謂う可し
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平常得意の事が多く
失意の事が少なければ
真剣に考えることがないから
思慮分別が減少してゆく
実に
不幸といわなければならない
これに反して
得意のことが少なく
失意の事が多ければ
まずい事をはねのけようと
種種思いめぐらすから
智慧や思量が増えて行く
却(かえ)って
幸いであるといってよい
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あなたは
どのような状態を
幸と捉えるかで
人生は好転していきます
【言志耋録 32条より】
得意の物件は
懼る可くして
喜ぶ可からず
失意の物件は
慎む可くして
驚く可からず
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自分の意に叶った物事は
実は恐るべきものであって
決して喜ぶべきではない
失敗は
多くこの得意の時に起るものである
これに反して
物事が思うに任せない失意の時は
慎まなければならないけれども
決して驚くべきものではない
この時こそ
自己を反省し
鍛錬する好機であるからである
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あなたは
あなた次第で
どのような状況からも
学びを得ることができます