静岡 浜松 駅近 ボディケアサロン Li・La・Mente~リラメンテ~ 熊谷亜紀子 -4ページ目

静岡 浜松 駅近 ボディケアサロン Li・La・Mente~リラメンテ~ 熊谷亜紀子

人間が本来持つ「自然治癒力」を引き出すお手伝い。デスクワークによる首こり・肩こり、五十肩、腰痛、目の疲れ、脚のむくみ、不眠、ストレスでお困りの方に。

【言志耋録 41条より】

人欲起こる時
身の熱湯に在るが如く

欲念消ゆる時
浴後の醒快なるが如し

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人が一たび欲望が起こった時は
熱い湯の中にあるように感じて
もがきにもがいて
欲しい物を得ようとするが

その欲心が去ってしまうと
丁度湯から出た時のように
心がさっぱりとして
心地よいものである

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あなたは

今の自分の欲の状態を
感覚的に理解することができます

【言志耋録 40条より】

真の己れを以て
仮の己れに克つは
天理なり

身の我れを以て
心の我れを害するは
人欲なり

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自分というものには
真の自分と
仮の自分とがあって

真の自分をもって
仮の自分に克つのは
天の道理である


これに反して

物質的に
身体の欲望に
動かされる自分をもって

精神的に
生きようとする
心の自分を害して行くのは
人欲である

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あなたは

真の自分と
仮の自分を認識し
欲ではない
精神を満たすことができます

【言志耋録 39条より】

気象を理会するは
便(すなわ)ち
是れ克己の工夫なり

語黙動止
都(す)べて

篤厚(とくこう)なるを要し
和平なるを要し

舒緩(じょかん)なること勿れ
激烈なること勿れ
急速なること勿れ

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自分の気性を把握することは
即ち
己に克つ工夫である

語るも黙るも動くも止まるも
すべて
手厚く親切であり
おだやかであり
ゆるやかであることが必要だ

あらあらしくてはいけない
烈しくてもよくない
気ぜわしくてもよくない

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あなたは

自分の気質を知ることで
おだやかにいられます

【言志耋録 38条より】

「予(よ)
 言う無からんと欲す」

欲すの字の内
多少の工夫有り

「士は賢を睎(ねが)い
 賢は聖を睎(ねが)い
 聖は天を睎(ねが)い」

とは

即ち
此の一の欲の字なり

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「私は今後
 何も言うまいと欲す」

と孔子は言った


この「欲す」という字には
いろいろと工夫がある

即ち
「士(立派な人間)は
 賢人になろうと欲し
 
 賢人は
 聖人になろうと欲し
 
 さらに聖人は
 天と一つになることを欲す」

といった工合で

これらはみな
一つの「欲」の字


即ち
向上心である
(それぞれ工夫は大いに異なる)


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あなたは

欲ー向上心の
つかいどころを
工夫することができます

【言志耋録 37条より】

学を為すには
人の之れを強うるを俟(ま)たず

必ずや
心に感興(かんきょう)する所有って
之れを為し

躬(み)に
持循(じじゅん)する所有って
之れを執り

心に
和楽する所有って
之れを成す

「詩に興(おこ)り
 礼に立ち
 楽に成る」

とは

此れを謂うなり


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学問をするには
他人から
無理強いされてするのではない

必ず
自分の心に感じ
奮起する所があって之れをなし

この心を
すなおに持ち続けて
学問をつとめ行い
楽しむにいたって
学業が成就するのである


※『論語』泰伯篇より

「詩によって学をなすの心を興し
 礼によってその志と行動を確立し
 音楽によって徳を成就する」

とあるのは
まさにこのことである


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あなたは

心に感じるものがあって奮起し
遵守し実践することで
精神修養していきます

【言志耋録 36条より】

学を為すには

自然有り

工夫有り


自然は是れ順数にして
源よりして流る


工夫は是れ逆数にして
麓よりして巓(てん)す


巓(いただき)は
則ち源の在る所

麓は
則ち流れの帰する所


難易有りと雖(いえど)も
其の究は一なり


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学問(精神修養)をするには
自然的方法と
工夫的方法の二つがある


自然的方法は
自然の道理に従う方法で

例えば
水源から流れ下る
方法のようなものである


工夫的方法とは
逆に進む方法で
山の麓から
山頂に登るようなものである


山頂は
水源のある所であり

麓は
流れの帰する所で


難易の別はあるけれども
その到達する
究極の真理は一つである


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あなたは

自然の道理と
自己の考案が
同じところに到達するという
真理を理解しながら
精神修養をしていきます

【言志耋録 35条より】

吾が輩
筆硯(ひっけん)の
精良(せいりょう)を以て
娯(たのしみ)と為し

山水の遊適を以て
娯と為す

之れを
常人の楽しむ所に比すれば
高きこと一著なりと謂う可し


然れども
之れを孔・顔の
楽処に方(くら)ぶれば

翅(た)だに下ること
数等のみならず


吾人(ごじん)盍(なん)ぞ
反省せざるや

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自分は
精選された良い筆や硯(すずり)を
用いることを楽しみとしている

また
心のおもむくままに
山水に遊んで楽しんでいる

これを
普通の人々の楽しみと比べれば
一段優れているといってよいであろう


しかし
これを
孔子や顔回(がんかい)の
楽しむ所と比べれば

ただに
数等下るばかりではない


大いに
反省しなければならない


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『論語』述而篇より
孔子の楽処:

疏食を飯(くら)い
水を飲み
肱(ひ)を曲げて
之を枕とす

楽もまた
其の中にあり

不義にして富み
且つ貴きは
我において浮雲の如し


貧しき生活の中にも楽しみはある
不正による豊かさなど
はかなきものだ

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『論語』雍也篇より
孔子に評された
顔回の楽処:

一箪(たん)の食(し)
一瓢(ぴょう)の飲
陋巷(ろうこう)にあり

人その憂に堪えず
回やその楽を改めず


竹のわりご一杯のめし
ひさごのお椀一杯の飲みものといった
狭い路地での粗末な暮らしに粗末な食事
そんな貧窮の環境下でも
自分の楽しみを知る

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あなたは

どのような状況下でも
楽しみを知ることができます

【言志耋録 34条より】

楽の字に
真仮有り

苦の字にも亦
真仮有り

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楽しみにも
苦しみにも

本物と
にせ物がある

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あなたは

本物とにせ物が
存在することを
理解していきます

【言志耋録 33条より】

得意の事多く
失意の事少なければ
其の人知慮を減ず

不幸と謂う可し


得意の事少なく
失意の事多ければ
其の人知慮を長ず

幸いと謂う可し

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平常得意の事が多く
失意の事が少なければ

真剣に考えることがないから
思慮分別が減少してゆく

実に
不幸といわなければならない


これに反して
得意のことが少なく
失意の事が多ければ

まずい事をはねのけようと
種種思いめぐらすから
智慧や思量が増えて行く

却(かえ)って
幸いであるといってよい

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あなたは

どのような状態を
幸と捉えるかで
人生は好転していきます

【言志耋録 32条より】

得意の物件は
懼る可くして
喜ぶ可からず

失意の物件は
慎む可くして
驚く可からず

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自分の意に叶った物事は
実は恐るべきものであって
決して喜ぶべきではない

失敗は
多くこの得意の時に起るものである


これに反して
物事が思うに任せない失意の時は
慎まなければならないけれども
決して驚くべきものではない

この時こそ
自己を反省し
鍛錬する好機であるからである


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あなたは
 

あなた次第で

どのような状況からも

学びを得ることができます