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宇宙(68) 原子の正体(2)

原子の正体を導いた主な科学者をご案内する。


●元素の概念、 質量保存の法則
1785年頃 アントワーヌ・ラボアジエ(1743~1794) 51歳寿命
●定比例の法則
1799年 ジョセフ・プルースト(1754~1826) 72歳寿命
●原子論、 倍数比例の法則(1804)
1803年 ジョン・ドルトン(1766~1844) 78歳寿命
●分子の概念、 アボガドロ定数
1811年 アメデオ・アボガドロ(1776~1856) 80歳寿命
●周期表(1868年に発見、 翌年に発表)
1869年 ドミトリー・メンデレーエフ(1834~1907) 73歳寿命
●電子の存在確認
1897年 ジョセフ・ジョン・トムソン(1856~1940) 84歳寿命
●原子の実在を理論的に証明
1905年 アルバート・アインシュタイン(1879~1955) 76歳寿命
●原子の実在を実験で証明
1908年 ジャン・ペラン(1870~1942) 72歳寿命
●原子核の発見
1911年 アーネスト・ラザフォード(1871~1937) 66歳寿命
●同位体の発見
1911年 フレデリック・ソディ(1877~1956) 79歳寿命
●電子軌道に関する仮説
1913年 ニールス・ボーア(1885~1962) 77歳寿命
●電子の波動説
1924年 ルイ・ド・ブロイ(1892~1987) 95歳寿命
●電子の波動方程式
1926年 エルヴィン・シュレーディンガー(1887~1961) 74歳寿命
●中性子の発見
1932年 ジェームズ・チャドウィック(1891~1974) 83歳寿命


●元素の周期表
※「原子」と「元素」は混同しやすい。 原子とは、 「形のある粒子こと」を指し、 一方、 元素とは、 「その原子の種類をあらわす名前」である。


19世紀には次々に新しい元素が発見された。 それらをまとめたのがロシアの科学者ドミトリー・メンデレーエフ(1834~1907)である。 メンデレーエフは科学の教科書を書く中で、 元素をどのように紹介するべきか考えていた。 当時知られていたのは63種類の元素である。 メンデレーエフは、 63の元素をカードに書いて並べ、 元素を説明するのに都合のよい順番をさがした。 そしてその結果、 「似たような科学的性質を持つ元素が、 周期的に現れる」ことを発見した。 メンデレーエフは、 同じ性質を持つ元素が同じ列に来るように、 元素を原子量の小さい順に並べた。 これが最初の「周期表」である。


●原子は「それ以上に分割できない」粒子なのか。
 → 原子よりはるかに軽い「電子」が見つかった。


1)陰極線の発見
ガラス管から空気を抜き、 電圧をかけると紫色の光が内部を走る(真空放電)。 これは稲妻が起きるしくみと同じ原理。 更に空気を抜いていくと、 紫色の光は消えて、 陽極側のガラス管が蛍光を発するようになる。 これは、 陰極から出た何か(陰極線)がガラス管にぶつかったためと考えられた。


2)陰極線は直進する粒子の流れである
改造したガラス管の内部に金属の十字板を置くと、 陽極側のガラス管の壁に影ができる。 このことから正体は真っ直ぐに進む粒子の流れであると考えられた。


3)ジョセフ・ジョン・トムソンの実験
陰極線は実際には見えないが、 見えるように青色に着色し、 実験した。 トムソンは細く絞った陰極線を電極の間へ通過させた。 すると陰極線は陽極に引き寄せられて曲がった。 このことからトムソンは、 陰極線の正体を「水素原子の焼く2000分の1の質量を持つマイナスの電気を帯びた粒子の流れ」と考えた。 真空放電や稲妻は、 電子によって“興奮”(励起)させられた空気の分子が光って見えているのである。


4)電子がたくさん埋め込まれた原子モデル
電子が発見されたことで、 原子の構造について複数の原子モデルが考え出された。 その1つが、 プラスの電気を帯びた球の中にたくさんの電子が埋め込まれ、 自由に動きまわるモデルである。 ブドウパンモデルとも呼ばれる。 イギリスの物理学者ケルビン卿(本名ウィリアム・トムソン: 1824~1907)が主張した。 電子を発見したジョセフ・ジョン・トムソンも当初はこのようなモデルを考えていた。


5)長岡半太郎が考えた土星型の原子モデル
1903年、 日本の物理学者・長岡半太郎(1865~1950)は、 土星型の原子モデルを考えた。 電子同士は反発し合うので、 ブドウパンモデルより安定していると考えられた。 


6)ジョセフ・ジョン・トムソンの原子モデル
トムソンは電子が決まった道筋(軌道)の上を動くと考えた。 更に軌道は1つではなく、 複数あった方が原子全体として安定しているとした。 トムソンは、 気体の電気伝導の研究によって1906年にノーベル物理学賞を受賞した。


― - - つづく

宇宙(67) 125歳と神宮125社めぐり(4)

「神宮125社めぐり」を述べた後に、 四国八十八箇所めぐりについても述べておきたい。 これは、 瀧原宮参拝に同行した友人の話である。 88という数字も人間の寿命と関係があるという。
※日本には、 神道、 仏教があり、 私にとっては宗教というより、 人間の生きる智恵を学ぶという受け止め方をしている。 特に神道は懐がとても広く、 すべからく人を受け入れる、 人のみならず万物を受け入れる広さがあると思っている。 その意味で全世界にメッセージを発信する際好ましい環境にあるのではと考える。


四国の「四」には大きな意味がある。 まず、 霊場スタートの徳島県(一)は人間の一生で言えば、 「誕生から幼年期に相当し」、 次に、 高知県(二)は「少年期から青年期に相当」、 次に、 愛媛県(三)は「壮年期に相当」、 ここには霊峰・石鎚山(四国第六十番霊場 横峰寺)があり、 最大の難所である石鎚山を越えると、 穏やかで温暖な地域が開ける。 最後に、 香川県(四)は「老年期に相当し」、 第八十八番札所 大窪寺に至る。


古代から、 都から遠く離れた四国は辺地(へじ・へぢ)と呼ばれていた。 平安時代頃には修験者の修行の道であり、 讃岐国に生れた若き日の空海もその一人であったといわれている。 空海の入定後、 修行僧らが大師の足跡を辿って遍歴の旅を始めた。 これが四国遍路の原型とされる。 時代がたつにつれ、 空海ゆかりの地に加え、 修験道の修行地や足摺岬のような補陀洛渡海の出発点となった地などが加わり、 四国全体を修行の場とみなすような修行を、 修行僧や修験者が実行した。 また、西行の白峰御陵(白峰寺)の参拝、 弘法大師遺蹟巡礼や、 一遍の影響もあるといわれている。 室町時代には僧侶の遍路が盛んになる。


第一番札所 霊山寺
ご詠歌
りょうぜんの しゃかのみまえに めぐりきて
よろずのつみも きえうせにけり


鳴門から西へ10㌔ほどのところに、 坂東という小さな町があり、 その町外れに霊山寺がある。 仁王門を入ると、 左に鐘楼、 多宝塔、 正面に本堂、 右に紀州接待所、 大師堂、 本坊がある。 天正年間の兵火と明治二十四年の災火に遇っているが、 その後、 建物は再建され、 一番にふさわしい伽藍。 縁起によれば、 聖武天皇の勅願により、 天平のころ行基菩薩が開基し、 弘仁六年(八一五)弘法大師が二十一日ほど留まって修法され、 この間霊感を得て釈迦如来を刻み、 印度(天竺)の霊山を日本(和国)にうつされる意味から竺和山霊山寺と号し、 第一番の霊場としたと伝える。 


第八十八番札所 大窪寺
ご詠歌
なむやくし しょびょうなかれと ねがひつつ
まいれるひとは おほくぼのてら


結願への最後の十八㌔の山路をたどる。 長い遍路の旅もここが終着・結願の寺である。 「お大師さんのおかげで巡拝できた」そのよろこびははかりしれない。 寺伝によれば元正天皇のころ、 行基菩薩がこの地に留錫し、 弘法大師が唐から帰国してより、 現在の奥ノ院の岩窟で求聞持の法を修し、 大きな窪のかたわらに堂宇を建立して自刻の薬師如来を安置した。 これが大窪寺のはじまりで、 後に女人高野ともいわれ、 参拝者で賑わったという。 そそり立つ胎蔵ヶ峰を背景に本堂があり、 礼堂・中殿・奥殿(二重多宝塔)からなり、 ご本尊の薬師如来は奥殿に安置されている。 薬壺のかわりにほら貝をもった尊容をされ、 このほら貝ですべての厄難諸病をふきはらうといわれる。 堂内には松葉杖、 髪の毛の束、 ギプスやコルセットなど奉納されている。 強い信仰のささえがあってこそ巡拝中におかげをうけたのである。 打ち終えた遍路は大師堂で感謝の勤行をすませ、 杖・菅笠を納めてゆく。


読者の皆様、 日本には人間の一生をじっくり考える霊場或いは神社があることを知り、 人間の寿命或いは生き方というものを学んで参りましょう。 遺伝子も含む、 色々な角度から。 


― - - つづく

宇宙(66) 125歳と神宮125社めぐり(3)

斎宮につき、 説明する。


「宇宙(64~65)125歳と神宮125社めぐり」に於いて登場する倭姫命と深い関係がある。 時は崇神天皇(すじんてんのう)の頃、 天照大神(あまてらすおおみかみ)は倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)と共に、 宮殿の中に祭られていた。 しかし、 二柱の神を同じ場所に祭ることは不都合が多かったため、 天照大神を倭の笠縫邑(かさぬいのむら)に移して、 崇神天皇の娘・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に祀らせることとなった。 これが『斎王』の始まりである。 斎王は神の依代(よりしろ)でもあることから、 『御杖代(みつえしろ)』と呼ばれることもある。


垂仁天皇(すいにんてんのう)の時、 老齢となった豊鍬入姫は斎王の任を退き、 垂仁天皇の娘・倭姫命(やまとひめのみこと)がその後を継いだ。 この倭姫は日本古代の英雄・ヤマトタケルの叔母にあたる。 彼女は天照大神を鎮座させる場所を求めて、 宇陀(うだ)~近江~美濃を巡り、 遂に伊勢の国に至った。 ここで初めて天照大神が満足の意を表わしたので、 この国に社を建て(伊勢神宮の始まり)、 斎王が忌みこもるための宮を五十鈴川のほとりに建てた。 これが『伊勢の斎宮』の始まりである。 『斎宮』といえば、 本来は『斎王のための宮(都における天皇の宮のようなもの)』を意味していたが、 後には『斎王』自身を指すようにもなった。 なお、 この『斎宮制度』は伝説の時代を除くと、 天武天皇(てんむてんのう)皇女・大来皇女(おおくのひめみこ)から始まって南北朝に廃れるまでの約660年間続いたと言われている。


斎宮の歴史
※天皇の代替わりがあると伊勢の斎王も交代する。 斎王は皇族の未婚の姫(天皇の娘とは限らない)の中から占いで選ばれる。 大体が母親の身分が低かったり、 寵愛が薄かったりするので、 占いで決めるといっても、 あまり公平な選び方ではなかったようである。 斎王が任を終えて都に帰ることを退下(たいげ)と言う。 天皇が亡くなられた時、 または譲位した時に斎王の任が解かれる。 また斎王の父が天皇以外の場合には、 両親のどちらかが亡くなられた時に任を解かれる。 身内に犯罪者が出た時や自分が罪を犯した時(特に男性と通じた時)には、 『事故』とされ不名誉な形で都に連れ戻される。


[古代の斎宮]
・豊鍬入姫命 崇神天皇皇女
・倭姫命 垂仁天皇皇女
・五百野皇女 景行天皇皇女
・伊和志真皇女 仲哀天皇皇女?
・栲幡姫(または稚足姫)皇女 雄略天皇皇女
・荳角皇女 継体天皇皇女
・磐隈皇女 欽明天皇皇女
・菟道皇女 敏達天皇皇女
・酢香手姫皇女 用明天皇皇女


[斎宮制度成立以降の斎宮]
・673-686 大来皇女 天武天皇皇女 ・698-701 託基皇女 天武天皇皇女 志貴皇子妃 ・701-706 泉皇女 天智天皇皇女 ・706-707 田形皇女 天武天皇皇女 六人部王室 と続き、    
1333-1334 祥子内親王 後醍醐天皇皇女まで67代。


― - - つづく



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