もし奈良に大地震が起きたとした場合、人命救助が第一である事は勿論ですが、そこに存在する多くの貴重な文化財の救出も大きな課題だと思います。 

 慶長元年(1596)閏7月12日、奈良に甚大な被害をもたらした地震の時には薬師寺や唐招提寺でも、かなりの被害が出た事が知られていますが、この時の一番の損失は大安寺の本尊で今で言うなら国宝クラスの釈迦如来坐像が失われた事だと思います。

 天智天皇の御代に造られたと考えられる、この釈迦如来坐像は脱活乾漆造の丈六像であったと考えられ平安時代後期、保延六年(1140)に南都を巡礼した大江親通は「七大寺巡礼私記」の中で薬師寺の仏像の素晴らしさを誉めながら、それらも大安寺の釈迦如来坐像よりは劣るという趣旨の記載をしており、その像容が、いかに素晴らしいものであったか想像出来ます。

 大安寺は、寛仁元年(1017)の大火災で主要伽藍を焼失しましたが金堂に安置されていた釈迦如来坐像は奇跡的に救出されました。

 そして再建された金堂に安置されて文明七年(1475)までは存在した事が確認されていますが、慶長元年(1596)の大地震で大安寺が壊滅した時、この像も失われたと考えられます。 

 現在、地震に備えて、免震構造を取り入れた安置方法を取っている所もあるようですが、それは、まだ奈良全体の文化財から見れば、ごく一部のようです。 

 万が一の時に貴重な文化財が失われる事のないよう、早急に万全の対策が取られる事を願っています。

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「大阪新四十八願所 阿弥陀巡礼」ガイドブック表紙
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「南無阿弥陀佛」の御朱印

谷町筋沿いに歩き、生國魂神社を目指しましたが、その途中にあった安楽寺に御朱印が有る事が分かり、ご住職に書いていただきました。

また、ご住職から、こちらのお寺は「大阪新四十八願所 阿弥陀巡礼」の札所だと教えていただき、そのガイドブックを購入させてもらいました。

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飛鳥園発行「大和地蔵十福」表紙
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室生寺の地蔵菩薩(重文、平安時代)上記本より
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御朱印台帳表紙
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室生寺の御朱印

 昨日、室生寺を拝観した一番の目的は、昨年末に「大和地蔵十福」の御朱印を満額成就しましたが、今月22日までの金堂の外陣での特別拝観が出来る間に地蔵菩薩像を拝し、新しい御朱印台帳をもらって「大和地蔵十福」の再巡をスタートさせるためでした。 

 新しい御朱印台帳を授与してもらうために売店に、まず立ち寄った所、写真を載せた飛鳥園発行の「大和地蔵十福」のガイドブックを入手しました。 

 初版発行は平成24年4月になっています。 

 このガイドブックが出る事は全然知らずに「大和地蔵十福」の再巡を決めましたが、そのスタートの月にガイドブックが発行されていた事に、ご縁を感じます。 

 ガイドブックの表紙は十輪院蔵の地蔵菩薩と裏表紙に書かれていたので、この像も十輪院を訪ねた時には拝したいと思います。 

 表紙は大野寺の枝垂れ桜、矢田寺の紫陽花、室生寺の金堂と紅葉を入れた合成写真になっていますが、その室生寺金堂から再巡がスタート出来るのも幸先良いなと感じました。 

 ガイドブックの室生寺のページは地蔵菩薩の写真以外に太鼓橋と表門、錦秋の鎧坂と金堂、五重塔、室生三本松中村区所蔵の地蔵菩薩像のカラー写真が載せられ、室生寺の網代副住職による、縁起と沿革、地蔵菩薩の謎についての文が載せられています。 

 お寺の年中行事、拝観時間、ホームページのアドレスも載せられていて、とても参考になります。 
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北側外壁の看板
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お店の入口
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後ろの客席から見た正面
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ステージ

 JR奈良駅から徒歩で向かった、この日の最終目的地は、ならまちにある「TEN TEN CAFE」さんでした。 
 こちらのお店は2001年4月16日に若くして亡くなられた河島英五さんの奥様が2003年にオープンされたお店で、店内二階には河島英五さんを偲ぶ品々も展示されています。

 今年の2月にmixiの竹本孝之さんの日記で、このライヴがあることは知りましたが、竹本さんのファンの方達が集まって盛り上げるイベントだという認識が有り私には関係のない催しだとしか思えなかったので15日の夜は別の予定を組んでいました。 

 今月、また竹本さんの日記を見た時にキャンセルが出て空席ありという書き込みがあり、それを私が見たという事は、このイベントを観に行った方が良いという見えない力が働いているように感じ、もし電話を入れて席があるようなら予定を変更して観に行こうと思いました。
 日記を見た翌日は「TEN TEN CAFE」の定休日だでしたので、その次の日に電話を入れた所、大丈夫という事でしたので前に決めていた予定をキャンセルして竹本さんのライヴを観に行きました。 

 4時開場、5時開演で、一階の客席と二階に特設した客席の両方からステージを見れるようにセッティングされていて私は一階の後ろの方の席から観させてもらいました。 

 曲名紹介のないものが多く、前半で曲名の分かったのはアイドル時代の曲をアコースティックバージョンで歌われた「俺達のストリート」、曲名を紹介されたバラード調の曲「モーニング」だけでした。 

 その後、NHK銀河ドラマ「続まんが道」で河島英五さんと共演された思い出を話され、河島さんが亡くなられた時に弔いに行けず、そのままになっていた事が、ずっと気になっていた事を話され、今回は河島さんのお墓参りに奈良に立ち寄る予定をしていたのが、思いがけず「TEN TEN CAFE」さんでライヴが出来るようになった事、この日の朝、和歌山から奈良に移動してすぐ、河島さんの墓参りに行かれた事などを話された後、河島さんの代表曲「野風増」「酒と泪と男と女」の二曲を披露されました。
 私は音楽の専門的な事は分かりませんが、この日のライヴは最初から会場の音の響きが素晴らしいなと感じていました。目に見えない力が最高の音響を演出してくれていたのかも知れません 
 そのような中で、この二曲は竹本さんの真摯な気持ちが伝わる歌唱が素晴らしく心に響いて感動しました。 

 河島さんの命日の前日、河島さんの魂が生きているように思えるお店で、竹本さんの河島さんに捧げる熱唱を聴けるように働きかけてくれた見えない力に感謝しています。 
 河島さんのお墓は、ならまちの十輪院にあるそうですが私は十輪院には何度か行っていますが、まだ訪ねた事はありません。 
 今度、十輪院に地蔵菩薩を拝し「大和地蔵十福」の御朱印を頂きに伺う時には、お参りさせてもらおうと思っています。 
 今回、思いがけない感動を経験させてくれたのは、河島さんのお墓のある十輪院の御本尊で「大和地蔵十福」の一つである地蔵菩薩かなと考えています。 
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聖徳太子像(広隆寺上宮王院太子殿本尊)広隆寺発行図録より

 午後2時から、いかるがホールで開催される予定だった大阪大学教授の武田佐知子氏による講演「聖徳太子信仰―太子像にみる太子―」は交通事情で武田氏の到着が遅れ30分遅れの開始になりました。

 頂いた資料の最初のページに講演内容の概略が載せられていますが、それを私なりに整理して紹介させてもらうと下記のようになります。 


 現在、聖徳太子像のイメージといえば、お札で長く流通した事で唐本御影いわゆる聖徳太子及び二王子像を頭に描く人が大勢を占めるが江戸時代以前の人にとっては太子像といえばミズラに結った童形像がもっとも親しみ深いものであり世に存在する太子像の七、八割がたが十六歳像と称される「角髪」(ミズラ)に結うか「垂髪」にしている太子像だった。

 その中で特異な像が広隆寺上宮王院の三十三歳太子像であったが平成六年の修理で、この像は冠をかぶることを前提とした成人像として造像されたものと思われてきたが造像当初は左右に髪を分けた角髪の表現を持つ童形太子像であったことが明らかになった。 

 しかも、この時の調査によって御像内に元永三年(1120)の銘が記されていることが解り彫刻における衣服着装の始まりは今まで鎌倉時代に写実表現の流行によるとされてきたが、この聖徳太子御像により平安時代から行われていたことが明らかになった。 

 広隆寺像の胎内銘の発見は従来の通説を完全にくつがえし衣服着装の太子像の創始の時期と把笏と柄香炉による王法と仏法の統合いわゆる真俗二諦像の創始の時期が平安後期まで繰り上がったという事実を認め、その前提の上に改めて太子像や太子信仰を考えなければならなくなった。 


 講演の中では、広隆寺の聖徳太子像の下着姿のカラー写真なども見せていただきました。 

 また法隆寺伝来で今は當麻寺中之坊と生駒市内の寺に所蔵されている裸形太子像の存在も今回の講演で初めて知りました。 

 武田氏は広隆寺の聖徳太子像の胎内納入品などから造像に関しては四天王寺に当時、存在した像の影響を示唆されました。

 何故、四天王寺かという点については、四天王寺に存在する平安時代の「四天王寺縁起」(国宝)が聖徳太子の直筆と信じられ四天王寺が聖徳太子信仰の中心と考えられるようになった事も示唆されました。 

 その話の中で四天王寺が火災の後の復興のために藤原道長の援助を得るために道長を聖徳太子の生まれ変わりと信じこませる内容の縁起を作成し道長が、それを信じて四天王寺を庇護し、それに倣って他の皇族、貴族も四天王寺を庇護するようになり熊野詣での中継点として繁栄する事になった話もありました。

 この「四天王寺縁起」を後に後醍醐天皇が本物と信じ込まれた話は前に書かせてもらいましたが、その時の権力者、藤原道長さえ手玉に取り、その名誉欲に付け込んだ四天王寺の策略に感心しました。 

 最近、興福寺が昭和42年4月に発行した「興福寺―その歴史と文化―」という、その当時の興福寺公認のガイドブックとでもいうべき本を入手しました。 
 この本の著者は、その当時、奈良国立文化財研究所長であった小林剛氏です。
 表紙の題字は当時、興福寺の住職であった多川乗俊氏が書かれています。 

 この本の中で、小林氏は戦前に論文で発表された現存の十大弟子、八部衆像が額安寺から移入されたとする説を曲げる事なく次のように書かれています。
 節略して紹介させてもらいます。 


 この寺には、後世ここに移された、いくつかの奈良時代のものがあり、その第一に上げられるのは、かって東金堂の本尊にもなったことがある銅造の丈六仏像の頭部である。 
(中略)
 その第三は、一説に西金堂本来のものともいわれている乾漆造の十大弟子像と八部衆像との一揃いの二具像である。これ等がまた鎌倉の復興造営以後、西金堂に安置されていて、貞永元年(1232)にその彩色その他を修補されたことは、一応認められるにしても、それ以前のことはあまりよく判らないといってもよい。そして、これはむしろ興福寺濫觴記その他の記録にいう「額安寺古像」との伝説を信じた方がよいように思われる。 

 興福寺が江戸時代後半、この十大弟子像と八部衆像は額安寺から移入されたものと認めていた事は、その当時に興福寺で編纂された「興福寺濫觴記」「興福寺由来記」で確かめる事が出来ますが昭和40年代初めにおいても興福寺の見解は額安寺からの移入説で、それゆえ額安寺からの移入説を取る小林氏に執筆を依頼したと想像出来ます。

 このように、まともな見解をしておられた興福寺が、いつから、また、何がきっかけで、今日のような見解に変わられたのか興味が有ります。 
 また、資料を調べて、その変遷が分かれば紹介させてもらいたいと思っています。 

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十一面観音立像(重文、平安時代中期)田原本町発行リーフレットより
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石標

大和北部第83番の本光明寺の御朱印は6月17日に宝山寺をお詣りした時に職員に書いていただきましたが、こちらのお寺は重文指定の十一面観音立像も安置されているので是非とも拝観したいと思いました。

電話で拝観の申し込みをさせてもらいましたが先方と、なかなか都合が合わず、この日、ようやく拝観させてもらう事が出来ました。

本堂の御本尊は弘法大師坐像で室町時代のものだそうです。

本堂内の東側に西向きに重文指定の十一面観音立像が安置されていました。

いただいた資料によると現地にあった勝楽寺が廃寺となり、そこへ寺号は存在するが建物がなかった天理市の本光明寺が移って二つの寺が復興した、明治の廃仏棄釈の歴史を物語るような寺であるようです。

ちなみに本尊の弘法大師坐像は元の勝楽寺の本尊、重文指定されている十一面観音立像は、元は本光明寺の安置仏だったそうです。


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本堂
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境内の案内
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御朱印

この日は、午前中の限られた時間でしたが、和歌山市内の寺社をお詣りさせてもらいました。

最初に訪ねたのは、日本全国の御朱印を網羅されている方のサイトを見て素敵な御朱印だなと思った恵運寺でした。

その素敵な御朱印は御住職がおられる時でないと書いていただけないので、ご都合を確認してから伺いました。

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四王堂 増長天像(部分)
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法華堂 持国天像(部分)
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法華堂 増長天像(部分)


先日(18日)、観音縁日という事で西大寺の四王堂をお詣りしましたが、その時に増長天像を拝した時、これまで気に留めていなかった二つの事が気になりました。 

一つは、胴の部分正面の獣の顔をした服飾、もう一つは腕の部分の口を開けた獅子の頭の服飾でした。 

胴の部分の獣の顔の服飾は、他の三躰には有りませんが腕の獅子の頭の服飾は残りの三躰にも有ります。 

今の増長天像の前身で有る創建当初の増長天像と東大寺の法華堂の金剛力士像阿形は共に称徳天皇の発願のため像容が類似していたと考えていますが図書館で閲覧した「奈良六大寺大観」の東大寺の巻に載せられている法華堂の四天王像の服飾にも、かなり似たものが見つかりました。

四王堂の創建当初の四天王像が、どのような色であったかも興味が有りますが、現状の邪鬼と創建当初の多聞天の足の部分の色艶の違いから天部だけ塗金されていたのではないかと想像しています。

貞観二年(860 )の火災の後に再鋳された三体の天部は寺の財政が困窮していたために顔と手だけが塗金され、唯一焼け残った多聞天も火熱で塗金は取れたため同じように顔と手だけ塗金されたのではないかと考えています。

その後、時期については、まだ、きっちりと考察していませんが平安時代の後期に四王堂が焼失した事があったようで、その時の火熱で天部の顔と手の塗金が今のような色に変化したのではないかと思っています。