最近、興福寺が昭和42年4月に発行した「興福寺―その歴史と文化―」という、その当時の興福寺公認のガイドブックとでもいうべき本を入手しました。 
 この本の著者は、その当時、奈良国立文化財研究所長であった小林剛氏です。
 表紙の題字は当時、興福寺の住職であった多川乗俊氏が書かれています。 

 この本の中で、小林氏は戦前に論文で発表された現存の十大弟子、八部衆像が額安寺から移入されたとする説を曲げる事なく次のように書かれています。
 節略して紹介させてもらいます。 


 この寺には、後世ここに移された、いくつかの奈良時代のものがあり、その第一に上げられるのは、かって東金堂の本尊にもなったことがある銅造の丈六仏像の頭部である。 
(中略)
 その第三は、一説に西金堂本来のものともいわれている乾漆造の十大弟子像と八部衆像との一揃いの二具像である。これ等がまた鎌倉の復興造営以後、西金堂に安置されていて、貞永元年(1232)にその彩色その他を修補されたことは、一応認められるにしても、それ以前のことはあまりよく判らないといってもよい。そして、これはむしろ興福寺濫觴記その他の記録にいう「額安寺古像」との伝説を信じた方がよいように思われる。 

 興福寺が江戸時代後半、この十大弟子像と八部衆像は額安寺から移入されたものと認めていた事は、その当時に興福寺で編纂された「興福寺濫觴記」「興福寺由来記」で確かめる事が出来ますが昭和40年代初めにおいても興福寺の見解は額安寺からの移入説で、それゆえ額安寺からの移入説を取る小林氏に執筆を依頼したと想像出来ます。

 このように、まともな見解をしておられた興福寺が、いつから、また、何がきっかけで、今日のような見解に変わられたのか興味が有ります。 
 また、資料を調べて、その変遷が分かれば紹介させてもらいたいと思っています。