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喜光寺の栞より

 本日、2月2日は行基菩薩の祥月御命日です。
 喜光寺の栞に載せられている喜光寺縁起では、喜光寺は養老5年(721)に行基菩薩によって創建された「菅原寺」の後身で、天平20年(748)に聖武天皇から「喜光寺」という寺号を賜った事が書かれ、行基菩薩が天平21年(749)に入寂されたのも、ここ喜光寺であったと書かれています。 

 しかし、以前に喜光寺境内の発掘調査の報告書を図書館で閲覧した時、境内からは奈良時代後期の瓦しか出土していないという記載があるのが気になりました。 

 今の喜光寺は行基菩薩ゆかりの菅原寺の後身ではなく奈良時代後期に建立された別の寺院が、ある時間に菅原寺だとみなされ、それが今日に至っているのではという思いが私に有ります。 

 その、ある寺院とは「七大寺日記」「七大寺巡礼私記」「大和寺集記」などに記録が遺されている「興福院」です。 

 「七大寺日記」「七大寺巡礼私記」では藤原百川(732~779)の建立、「大和寺集記」では宝亀元年(770)の建立と伝える興福院は、康平七年(1064)には金堂と中門が存在していたと推測されますが、嘉承元年(1106)には廃絶していた事が「七大寺巡礼私記」の記載で確認出来ます。

 そして、この興福院の位置は「七大寺巡礼私記」に西大寺の南と明記されていて、今、喜光寺のある場所に一致します。 

 以上から推理をすると、当初の菅原寺は、今の喜光寺ではない別の場所にあり、今の喜光寺の場所には奈良時代後期に興福院という別の寺院が建立されていたと考えられます。 

 その後、平安時代の早い時期に本当の菅原寺は廃絶して所在地も分からなくなってしまったと考えています。
 興福院も嘉承元年(1106)までには廃絶していたと推測出来ますが、興福院には金堂跡と中門跡が残っていたので鎌倉時代に入り、行基菩薩の信仰が隆盛した時に興福院の跡が菅原寺の跡だとみなされて、本堂と中門が再建され、その場所が当初から菅原寺だったとされたのではないかと私は考えています。

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本堂
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境内の地蔵尊
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境内で見かけた猫
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大和地蔵十福の朱印帳
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満願記念の念珠


 今日は、靈山寺で始めた「大和地蔵十福」を満願にするために、大和郡山市にある矢田寺(金剛山寺)を訪ねました。 

 今日は午後三時から本堂で、お礼法要という今年最後の行事があるとお聞きしたので、それに間に合うように矢田寺に到着し、まずは大門坊で、ご朱印をいただき満願記念の念珠を頂きました。 

 本堂では入口近くの外陣で三時から約十五分間の法要を観させてもらい般若心経と地蔵菩薩のご真言は一緒に唱えさせてもらいました。

 こちらの地蔵菩薩は6月の紫陽花の時期に行われる本堂特別拝観の時しか間近に観る事が出来ないそうなので、その時に再訪しないといけないなと思いました。 

 今年も後数時間で終わろうとしています。 

 その時々の気分で書かせてもらった拙いブログですが、沢山の方に訪問していただいた事を感謝しております。 

 皆様が良い年を迎えられる事を祈っております。 

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山門
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境内の石塔
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本堂
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本尊・薬師如来坐像(重文、平安時代)「巡る奈良」の看板より

 法隆寺の寺務所で法隆寺夏季大学の手続きを終えてから、タクシーで向かったのは今日から20日まで、予約なしに拝観出来る事が「巡る奈良」のリーフレットに載せられていた大和郡山市にある東明寺でした。 

 恥ずかしい話ですが、奈良に長い間住んでいますが、こちらのお寺の事は昨年まで知りませんでした。

 対向車と遭遇したら逃げ場のない狭い坂道を上って「巡る奈良」の看板の置かれた、お寺の駐車場に到着し、そこでタクシーを降りました。 

 さらに石段を上って本堂に到着しましたが、女性のハイキングのグループ十数名が拝観をしておられて、田尻副住職が軽妙な解説をされている最中でした。 

 女性グループが帰られた後、次の拝観の方が来るまで時間が有ったので、私一人で申し訳ないと思いましたが、お寺の縁起、本堂内の仏像の解説などをしていただき、世間話的な事もさせてもらい、リラックスした良い時間を持たせてもらいました。 
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額安寺本堂

 推古神社を参拝した後、その少し西側にある額安寺(かくあんじ)を初めて訪ねました。 
 この寺は日本最古の虚空蔵菩薩像を有する事で知られていますが、江戸時代後期の興福寺で、興福寺国宝館に現存する釈迦十大弟子像、天龍八部衆像が実は、この額安寺から移座されたものであると伝えられていた事に私は興味が有ります。 

 十大弟子像と八部衆像が奈良時代に西金堂が建立された当時のものか、あるいは平家の焼き討ちで当初の像が失われた後、額安寺から移座されたものかについては研究者の間で論争が有った事と、その経緯は大橋一章氏の編纂された「論争 奈良美術」の中で小泉賢子氏が整理をされています。
 八部衆像については、平安時代の一時期、額安寺の像が西金堂に安置され、西金堂に二組の八部衆像が有った事が「七大寺日記」「七大寺巡礼私記」で分かりますが、その解釈も、この問題をややこしくしているようです。

 ただ額安寺からの移座を記している江戸時代後期の記録「興福寺濫觴記」には西金堂安置の閻魔王も額安寺古像と記されており、明治の廃仏毀釈の時期の混乱で失われた史料に、それらの事を記録したものが有ったと考えられます。 

 「興福寺濫觴記」は色々な史料に基づいて作成されていて荒唐無稽な記述も有りますが、たとえば西金堂の本尊釈迦如来については「今之本尊者建久時代春日大佛師運慶奉造之」と記されていて最近、鎌倉時代の史料で確認された運慶による造像を正しく伝えている史料で時代が新しいからという事で、その記載を否定するのは、どうかと思っています。 

 十大弟子像や八部衆像が奈良時代の西金堂建立当初のものだと主張するならば平家の焼き討ちの時、これらの像が、どのようにして奇跡的に救い出されたのがを明らかにしないといけないと思いますが、その検証がされずに最近は西金堂の当初像説が、まかり通って歴史が歪められているのは嘆かわしい事だと私は思っています。 

次に唐招提寺の西小堂に有った丈六鋳仏についての「古人云」の部分は意味不明な所も有りますが私なりに意訳させてもらいます。 

古人(いにしえびと)が云うのには盗人が来て、この仏像を壊して盗もうとした時の事です。
大声で人殺しと叫ぶのが聞こえ寺の人が驚いて駆け付けたので盗人は逃げ去りましたが辺りに人の姿は見当たらなかったそうです。 

この記事も「古人云」の書き出しで始まっているので、薬師寺の講堂の記事から天禄四年(973)以前に成立した巡礼記あるいは説話集に載せられていたと考えられます。 

最後に法隆寺(東院)勅封廊の迦羅提山地蔵菩薩についての「古人云」を私なりに意訳させてもらいます。 

古人(いにしえびと)が云うのには、この像は(聖徳)太子の御妻、橘大夫人の建立で迦羅提山という寺は元は法隆寺の西山辺りに在って中院堂と名付けられましたが寺が破壊した後この地蔵は、この家屋に置かれました。 
その寺の本仏の薬師如来は講堂の東端壇下におわします。 

法隆寺の講堂は延長三年(925)に焼失し、正暦元年(990)に再建されたと考えられますので「古人云」として唐招提寺西小堂の丈六鋳仏、薬師寺講堂の金銅阿弥陀立像、法隆寺(東院)の迦羅提山地蔵菩薩の事を載せた巡礼記あるいは説話集の成立は延長三年以前と考えられます。 

「七大寺巡礼私記」の唐招提寺講堂の条に引用する寛仁二年(1018)七月或人巡礼記には講堂には金銅の弥勒三尊が安置されていた事と講堂を開けさせて拝見した時の事が書かれています。 

案内僧の話として、この弥勒三尊は元は高田寺の仏像で、その脇侍、大妙相菩薩は昔、盗人のために融解されそうになった時に声をあげて「痛い」と叫び、盗人は捨て去りましたが、右の臂の天衣は木で修理されています。高田寺破壊の後、此の堂に移し奉ったのが、この像ですという事が載せられています。(意訳させてもらいました)

このエピソードから西小堂に安置されていた丈六鋳仏と寛仁二年七月に講堂に安置されていた金銅像の弥勒三尊は同一のものだと考えられます。 

ただ、ここまでで検証したように高田寺の弥勒三尊が唐招提寺の西小堂に移されたのは延長三年以前の事で、その後に講堂に移されたと推測されます。 

前に唐招提寺の謎で推論を書かせてもらいましたが、講堂に当初、安置されていた弥勒三尊菩薩が西大寺に略奪されたとすれば、その時期は承和十三年(846)以降で貞観二年(860)の大火災までに弥勒金堂が再建されたと考えるなら、その間になります。 

一つの推理として西大寺に講堂の本尊を奪われて講堂が空堂になった時、唐招提寺には新しく仏像を造る力が無かったので、西小堂にあった高田寺の丈六鋳仏を講堂に安置して、その代わりにしたのではないかと考えています。

ただ、西大寺に強奪されての講堂本尊の交代は唐招提寺にとっては大きな屈辱だったと考えられ、その事実を隠蔽するため講堂は閉扉し参拝者に観せる事は無かったと思います。 

同じ寛仁二年に唐招提寺を訪れた定心阿闍梨の巡礼記には講堂についての記載は無かったと考えられ、康平七年に唐招提寺を訪れた最朝も講堂は拝観出来なかったようで講堂内部についての記載は有りません。 

親通は嘉承元年の巡礼の時には、定心阿闍梨の巡礼記しか見ておらず勿論、拝観も叶わなかったので講堂についての記載は残していませんが、保延六年の巡礼に際しては「寛仁二年七月或人巡礼記」を入手していたので唐招提寺を訪ねた時に、その真偽を案内僧に確認したと思いますが像の大きさについての記載が無いので実見出来たか、どうかは疑問です。 

このように考えると、通常は拝観出来なかった講堂の扉を開けさせた「寛仁二年七月或人巡礼記」の撰者は唐招提寺が、それを拒む事が出来ない人物であったと想像出来ます。 
mixiの「南都七大寺コミュニティ」で「平安後期の南都巡礼記」というトピを立てさせてもらい、その周辺の史料との関連や、内容を推理させてもらいましたが、巡礼時の現状ではなく、参考にした古い巡礼記あるいは説話集の内容をそのまま写した部分が有ると思えるので、その事について述べさせてもらい、唐招提寺の講堂本尊の変遷に触れたいと思います。 

大橋直義氏の著作「転形期の歴史叙述」(慶應義塾大学出版会)に翻刻されている「大和寺集記」に康平七年(1064)に仁和寺の僧、最朝(後の勝定房阿闍梨恵什)が南都を巡礼して著わした「巡礼記」の逸文と考えられる記事が残されている事は、「南都七大寺コミュニティ」で推論を展開させてもらいましたが、その「巡礼記」には、それ以前に成立していた寺院の縁起、南都の巡礼記、寺院関連の説話集からの転載部分が多々有ったと思います。 

興福寺の記事に「山階流記」の祖本からの縁起部分の引用が多々有った事や、西大寺、興福院の記事に寛仁二年(1018)の定心阿闍梨巡礼記を参考にしている事は既に述べさせてもらいましたが、「古人云」という書き出しで紹介されている記事も、康平七年(1064)に巡礼した時の現状では無く、それが載せられていた古い巡礼記あるいは説話集が成立した時のものと考えられます。

「古人云」の書き出しは、唐招提寺西小堂の丈六鋳仏、薬師寺講堂の金銅弥陀立像、法隆寺(東院)勅封廊の迦羅提山地蔵菩薩の説明に使われています。 

薬師寺講堂の記事では壇上に金銅(阿)弥陀立像が有り、古人は行基菩薩が作る所なりと云うと載せています。 

その後に「口伝云」として、文章が続きますが、私なりに意訳すると下記のようになります。

聖武天皇の后の光明皇后には女子一人しかいなかったので他の后が生んだ男子を皇太子にすることになりました。そこで皇后は行基菩薩に「私は深く仏法に帰依している。もし我が子を皇太子に立てれたら仏法を興隆させよう、もし、そうならなければ仏を崇める事を禁止しよう」と仰せになられました。
これを聴いた(行基)菩薩は彼の男子を死なせ女帝が立つ事になりましたが皇后は、その罪を滅するために(阿)育王の例を引き八万塔を造って諸寺に安置されました。
この阿弥陀像は即ち、彼の亡くなった子のためのものです。 


ここで問題になるのが、平安時代の薬師寺の変遷です。 

天禄四年(973)の大火で講堂も焼失し、天元二年(979)に再建されています。
長和四年(1015)に伽藍の復興を記念した「薬師寺縁起」が撰述されますが、それには金色で高さ三尺の釈迦仏像が講堂に安置されていた事は書かれていますが、この金銅阿弥陀立像の記載は有りません。 

大江親通の嘉承元年(1106)の巡礼記録「七大寺日記」にも講堂内の仏像は三尺釈迦立像只一躰これ有りと述べられています。 
親通が保延六年(1140)の再巡礼の後で撰述した「七大寺巡礼私記」には「三尺釈迦立像を安ず。この像は当寺別当、私に之を建立す」と書かれています。 

古人が行基菩薩の作と言い、それにまつわる口伝の有った金銅阿弥陀立像は天禄四年の大火で失われ、再建の際に三尺釈迦立像が造られたと考えられます。 

この事から「古人云」として引用された巡礼記あるいは説話集は天禄四年以前に成立していたと考えられます。

1596年9月5日(文禄5年閏7月13日)
京都および畿内
マグニチュード7.5前後

京都三条より伏見に至る間の被害多く、伏見城の天主大破、石垣崩れ、上臈73人、中居下女500余人圧死。
「地震加藤」で有名。 
京都では東寺、天龍寺、大覚寺、二尊院倒潰。 
民家の倒潰も多く、死傷も多かった。 
東寺では食堂、講堂、灌頂院、南大門その他、転倒した建物と五重塔、御影堂その他、無事のものとがあった。 
東福寺の仁王門は転倒し、方広寺の大仏は大破した。 
瓦葺の建物が倒れたので、禁裏では瓦を降ろした建物もあり、伏見城も瓦葺を禁ずるという、お触れが、あったという。 
堺で死600余という。 
明使と従者5~6人大阪で死亡。家屋倒潰多し。 
高野山では大塔の九輪の四方の鎖が切れたという。
奈良では唐招提寺で戒壇、僧堂など倒れ、金堂、講堂、東塔など破壊。 
法華寺金堂、海龍王寺、興福寺など破壊。 
般若寺の十三重石塔の上二重と九輪墜つ。 
大山崎八幡離宮の門、鳥居損し、家悉く崩る。 
大阪、神戸でも潰家きわめて多く
有馬温泉で湯屋、民家破壊、熱泉に変ず。 
須磨寺の本堂など崩れ、兵庫で一軒残らず崩れ出火という。 
近江の粟田郡葉山村も潰家、死者が多かった。 
高松で山崩れ、地裂ける(?)
三原、島根で大地震。 
紀州総持寺、堂宇悉く破壊する。 
鳴門の撫養(むや)で土地がゆり下がったという記録もある。 
伊予の寺社にも被害。 
全体で死1500余。 
余震は翌年4月まで続いた。 

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勅額

南都七大寺の歴史に興味が有り、唐招提寺の歴史についても調べていますが、一番の謎は講堂に当初、安置されていた鑑真和上に随行して来日した仏師、軍法力の造った丈六弥勒菩薩三尊が忽然と姿を消し、平安時代半ばには高田寺の旧仏の金銅製の弥勒如来三尊に入れ替わってしまった事です。

この問題については最近、刊行された「古寺巡礼奈良8唐招提寺」(淡交社)で東野治之氏が触れておられますが、当初の像が忽然と姿を消した理由については述べておられません。 

私は称徳天皇と唐招提寺の関係から、この問題を推理したいと思います。 

称徳天皇は孝謙天皇時代に来日した鑑真和上から父親、聖武太上天皇、母親、光明皇太后らと共に授戒されておられます。
仏教を篤信しておられたので苦難を乗り越え日本に来られた鑑真和上には尊敬の念を持ち、個人的に唐招提寺建立にも尽力を惜しまれなかったと想像しています。

写真を載せた勅額は孝謙天皇の御筆と伝えられ講堂または中門に掲げられたという寺伝が「奈良六大寺大観」の勅額の解説に載せられていますが、この額が唐招提寺に下賜されたのが、いつなのかが重要だと思います。 

称徳天皇時代の行幸は「続日本紀」に記載されているものだけだと思いますので、孝謙上皇時代、鑑真和上入滅前に講堂本尊の弥勒菩薩三尊が完成して開眼供養が行われ個人的に行幸された時ではなかったかと思っています。 

その時に軍法力による最新の唐の様式を取り入れた仏像に魅了された称徳天皇は、後に西大寺の弥勒金堂の弥勒菩薩三尊を造立する時に、軍法力に命じて同じ像容のものを造らせたと想像しています。 

西大寺の弥勒金堂は平安時代の初めに焼失し本尊の弥勒菩薩三尊も失われましたが、その後まもなく再建された時に、造像の経緯を知る西大寺の僧侶によって唐招提寺の講堂の三尊が略奪された可能性が高いと思います。 

講堂の本尊が他の寺院に略奪されたという事は唐招提寺にとっては大きな屈辱で有り、その事実を隠すための隠ぺい工作が行われ、鎌倉時代に今、講堂に安置されている弥勒如来が造られた時にも新造ではなく修補という記載がされたように思います。 



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 昨日(9月10日)の毎日新聞夕刊に写真を掲載した東大寺法華堂に関する記事が掲載されていました。 

 この記事によると法華堂の本尊である不空羂索観音像が乗る基壇と法華堂に使われた木材が729~731年に伐採されたことがわかり、これまで信憑性が低いとされていた、平安時代に編纂された『東大寺要録』の天平5年(733)創建説を裏付ける結果で、瓦の研究から740年代以降に建てられたとする従来の学説の再考が求められそうだと書かれています。

 9日に、東京国立博物館で講演された東大寺の森本公誠長老が年代を明らかにされ、法華堂や観音像は神亀5年(728)に亡くなった聖武天皇の息子、基王のために造られた可能性が高いとの見方を示されたそうです。 

 ただ、前に書かせてもらいましたが、法華堂は最初は不空羂索観音と裏面の執金剛神、今は東大寺ミュージアムに安置されている日光、月光菩薩、今は戒壇堂に安置されている四天王が一具のものであったと考えられ、その場合には天平5年の創建時の建物は、今の法華堂より、もっと小さなものであったと考えられます。
 私は今の法華堂が完成したのは神護景雲元年(767)2月の称徳天皇の東大寺行幸の前だと考えていますが、その時に前身建物の木材を再利用した可能性が有ると思います。

 何故、称徳天皇が、当初の法華堂よりも大きな堂に建て替え、新たに梵天、帝釈天、金剛力士、四天王の巨像を造立したかは謎ですが、当初の法華堂と本尊の不空羂索観音が幼くして亡くなった称徳天皇の弟皇子のためのものであったとしたら、その供養のために、より立派なものにしたいという特別な思いが有ったかもしれないと思っています。 
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四天王寺 北天
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四天王寺 東天と西天
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四天王寺 南天
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増長天像邪鬼
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広目天像邪鬼


 10月4日、西大寺の興正殿で開催された光明真言仏教講座に参加させてもらいました。
 そこで元興寺文化財研究所 人文科学研究室長の高橋平明氏による「西大寺と四天王信仰」と題した講演を拝聴しました。
高橋氏の講演のテーマは、いただいた資料によると「西大寺四王堂と四天王像」となっていて私が一番、興味の有るテーマでした。

 高橋氏は、四王堂の四天王像について専門的に研究をされていたのでは無く、今回の講演テーマとして依頼されて、ご自分の出来る範囲で史料を集められ、それに基づいて注目すべき点を指摘されて、ご自分の見解を述べられました。

 三躰の天部の再鋳年代については諸説が有る事は紹介されましたが、はっきりと言及されませんでした。

 現存像から当初像の像容を推理する中で、興福寺北円堂に有る旧大安寺四天王像と持国天像との形姿の類似、新薬師寺の十二神将像の何躰かの炎髪と増長天像の炎髪の類似などの指摘が有りましたが、増長天像と東大寺の法華堂の金剛力士像阿形との類似については指摘が無くて残念でした。

 資料の中で奈良時代に尊重された経典「金光明最勝王経」第六、四天王護国品の経文を紹介され、経典には四天王を造る功徳が述べられていない事を指摘され、発願した孝謙上皇は、仲麻呂の叛乱に危機感を持ち、聖徳太子が物部守屋誅滅の戦勝祈願として四天王像を造立した前例に大いに期待したのではないかと書かれています。 

 さらに、スクリーンに平安時代の図像集「別尊雑記」に載せられた、当時、四天王寺に有った聖徳太子ゆかりの四天王像の画像を紹介し、四天王寺四天王像の邪鬼が「刀」を捧持している事が注目されると書かれています。

 この講演を聴かせてもらい、一番の収穫が、この指摘でした。 

 孝謙上皇が四天王像の鋳造を発願されたのが、用明天皇二年(587)、聖徳太子が物部守屋誅滅の戦勝祈願として四天王寺を建立した先例にならったものであるならば、西大寺の四天王像は、四天王寺の四天王像の何かを取り入れて造られた可能性は非常に高かったと私は思います。 

 この時代は天平勝宝六年(754)の鑑真和上楽朝以後の新しい唐風伝来の時代で仏像の像容に関しては四天王寺像を模する事は無理だったために、四天王寺像の大きな特長である、各邪鬼が刀を捧持しているという所を取り入れて、西大寺の四天王像が造られたと考えられます。 

 高橋氏の指摘で、西大寺の像の邪鬼の写真を見直しましたが、手の先が欠けている持国天の邪鬼以外の三躰は手に何かを持っていたような格好になっています。

 「西大寺資財流記帳」の四王堂の金銅四天王像の割註は、高橋氏の資料にも載せられていましたが、そこに、各大刀一柄を着すと書かれているのが、どのような状態なのかイメージ出来なかったのが、この講演を聴かせてもらい、ようやく理解出来ました。 

 又、多聞天像は、それ以外に横に佩(腰に帯びる刀)一柄と記載が有り、それは正四位上藤原朝臣是公の奉ったものと記されていますが、これは後から腰の辺りに括り付けられていたような印象を受けています。

 高橋氏は、藤原是公は、仲麻呂の弟で、寄進時期は役職名から宝亀8~9年(777~778)に当たり、寄進後には三位に昇進している事を指摘し、是公が太刀を多聞天に寄進したのは、誅された仲麻呂の同族として改めて忠臣の意を示したのではないか。称徳天皇七回忌に因む寄進か。と資料に書かれていて、この点についても考えた事が無かったので、とても興味深いお話を伺えて良かったと思います。 

 高橋氏は「資財帳」の四天王像割註の「木牟」という文字を「鉾(ほこ)」と考えられ、金銅の鉾を邪鬼が握っていたのではないかと資料に書かれていましたが、同じ資料で高橋氏が指摘されたように、この時期に造られた東大寺大仏殿の四天王像のうち、持国天像は「三鈷杵」を持っていたと考えられ、「木牟」は「杵」と考え、この前の金銅という二字と組み合わせた「金銅杵」と考えた方が自然なように思います。 

 そのように解釈すると四天王像の持物は、金銅杵四枝、金銅文一巻、筆一管となります。 

 現存する広目天、増長天、持国天が当初の形を踏襲して再興されたと考えると金銅文と筆は広目天の持物と考えられ、金銅杵の一つは増長天のものだったと思われます。 
 持国天の金銅杵は、一つは確実ですが、前の手が何も握っていなかったとすれば、残りの二つの金銅杵は多聞天のものになります。
 現存する多聞天像の天部は興正菩薩叡尊の没後(1290以降)、文亀二年(1502)の兵火で四王堂が焼失するまでのある時期に、当初の像が倒壊した後、木造で再興されたと私は考えていますが、その時に像容は広目天像に合わせるような形姿に改められたと考えられます。

 当初の多聞天像は両手に金剛杵を持つ躍動感溢れる像であったと想像され、それゆえに藤原是公は太刀を多聞天像に寄進したのかなと想像しています。 

 高橋氏が資料に書かれていますが、邪鬼の捧持した四柄の太刀も藤原是公が後に寄進した佩刀も本物の可能性が大で、刀の持つ呪力に期待する所が有ったという説も共感出来ました。

 四天王寺の四天王像が刀と鉾を持つ「重武装の神将像」であった事を踏まえ、西大寺の四天王像は、唐からの新しい様式を取り入れて刀と杵を持つ「重武装の神将像」であったと言えるのではないかと私は思っています。