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勅額

南都七大寺の歴史に興味が有り、唐招提寺の歴史についても調べていますが、一番の謎は講堂に当初、安置されていた鑑真和上に随行して来日した仏師、軍法力の造った丈六弥勒菩薩三尊が忽然と姿を消し、平安時代半ばには高田寺の旧仏の金銅製の弥勒如来三尊に入れ替わってしまった事です。

この問題については最近、刊行された「古寺巡礼奈良8唐招提寺」(淡交社)で東野治之氏が触れておられますが、当初の像が忽然と姿を消した理由については述べておられません。 

私は称徳天皇と唐招提寺の関係から、この問題を推理したいと思います。 

称徳天皇は孝謙天皇時代に来日した鑑真和上から父親、聖武太上天皇、母親、光明皇太后らと共に授戒されておられます。
仏教を篤信しておられたので苦難を乗り越え日本に来られた鑑真和上には尊敬の念を持ち、個人的に唐招提寺建立にも尽力を惜しまれなかったと想像しています。

写真を載せた勅額は孝謙天皇の御筆と伝えられ講堂または中門に掲げられたという寺伝が「奈良六大寺大観」の勅額の解説に載せられていますが、この額が唐招提寺に下賜されたのが、いつなのかが重要だと思います。 

称徳天皇時代の行幸は「続日本紀」に記載されているものだけだと思いますので、孝謙上皇時代、鑑真和上入滅前に講堂本尊の弥勒菩薩三尊が完成して開眼供養が行われ個人的に行幸された時ではなかったかと思っています。 

その時に軍法力による最新の唐の様式を取り入れた仏像に魅了された称徳天皇は、後に西大寺の弥勒金堂の弥勒菩薩三尊を造立する時に、軍法力に命じて同じ像容のものを造らせたと想像しています。 

西大寺の弥勒金堂は平安時代の初めに焼失し本尊の弥勒菩薩三尊も失われましたが、その後まもなく再建された時に、造像の経緯を知る西大寺の僧侶によって唐招提寺の講堂の三尊が略奪された可能性が高いと思います。 

講堂の本尊が他の寺院に略奪されたという事は唐招提寺にとっては大きな屈辱で有り、その事実を隠すための隠ぺい工作が行われ、鎌倉時代に今、講堂に安置されている弥勒如来が造られた時にも新造ではなく修補という記載がされたように思います。