古都の寺院の隠された真実を求めて-201206262114000.jpg
喜光寺の栞より

 本日、2月2日は行基菩薩の祥月御命日です。
 喜光寺の栞に載せられている喜光寺縁起では、喜光寺は養老5年(721)に行基菩薩によって創建された「菅原寺」の後身で、天平20年(748)に聖武天皇から「喜光寺」という寺号を賜った事が書かれ、行基菩薩が天平21年(749)に入寂されたのも、ここ喜光寺であったと書かれています。 

 しかし、以前に喜光寺境内の発掘調査の報告書を図書館で閲覧した時、境内からは奈良時代後期の瓦しか出土していないという記載があるのが気になりました。 

 今の喜光寺は行基菩薩ゆかりの菅原寺の後身ではなく奈良時代後期に建立された別の寺院が、ある時間に菅原寺だとみなされ、それが今日に至っているのではという思いが私に有ります。 

 その、ある寺院とは「七大寺日記」「七大寺巡礼私記」「大和寺集記」などに記録が遺されている「興福院」です。 

 「七大寺日記」「七大寺巡礼私記」では藤原百川(732~779)の建立、「大和寺集記」では宝亀元年(770)の建立と伝える興福院は、康平七年(1064)には金堂と中門が存在していたと推測されますが、嘉承元年(1106)には廃絶していた事が「七大寺巡礼私記」の記載で確認出来ます。

 そして、この興福院の位置は「七大寺巡礼私記」に西大寺の南と明記されていて、今、喜光寺のある場所に一致します。 

 以上から推理をすると、当初の菅原寺は、今の喜光寺ではない別の場所にあり、今の喜光寺の場所には奈良時代後期に興福院という別の寺院が建立されていたと考えられます。 

 その後、平安時代の早い時期に本当の菅原寺は廃絶して所在地も分からなくなってしまったと考えています。
 興福院も嘉承元年(1106)までには廃絶していたと推測出来ますが、興福院には金堂跡と中門跡が残っていたので鎌倉時代に入り、行基菩薩の信仰が隆盛した時に興福院の跡が菅原寺の跡だとみなされて、本堂と中門が再建され、その場所が当初から菅原寺だったとされたのではないかと私は考えています。