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聖徳太子像(広隆寺上宮王院太子殿本尊)広隆寺発行図録より

 午後2時から、いかるがホールで開催される予定だった大阪大学教授の武田佐知子氏による講演「聖徳太子信仰―太子像にみる太子―」は交通事情で武田氏の到着が遅れ30分遅れの開始になりました。

 頂いた資料の最初のページに講演内容の概略が載せられていますが、それを私なりに整理して紹介させてもらうと下記のようになります。 


 現在、聖徳太子像のイメージといえば、お札で長く流通した事で唐本御影いわゆる聖徳太子及び二王子像を頭に描く人が大勢を占めるが江戸時代以前の人にとっては太子像といえばミズラに結った童形像がもっとも親しみ深いものであり世に存在する太子像の七、八割がたが十六歳像と称される「角髪」(ミズラ)に結うか「垂髪」にしている太子像だった。

 その中で特異な像が広隆寺上宮王院の三十三歳太子像であったが平成六年の修理で、この像は冠をかぶることを前提とした成人像として造像されたものと思われてきたが造像当初は左右に髪を分けた角髪の表現を持つ童形太子像であったことが明らかになった。 

 しかも、この時の調査によって御像内に元永三年(1120)の銘が記されていることが解り彫刻における衣服着装の始まりは今まで鎌倉時代に写実表現の流行によるとされてきたが、この聖徳太子御像により平安時代から行われていたことが明らかになった。 

 広隆寺像の胎内銘の発見は従来の通説を完全にくつがえし衣服着装の太子像の創始の時期と把笏と柄香炉による王法と仏法の統合いわゆる真俗二諦像の創始の時期が平安後期まで繰り上がったという事実を認め、その前提の上に改めて太子像や太子信仰を考えなければならなくなった。 


 講演の中では、広隆寺の聖徳太子像の下着姿のカラー写真なども見せていただきました。 

 また法隆寺伝来で今は當麻寺中之坊と生駒市内の寺に所蔵されている裸形太子像の存在も今回の講演で初めて知りました。 

 武田氏は広隆寺の聖徳太子像の胎内納入品などから造像に関しては四天王寺に当時、存在した像の影響を示唆されました。

 何故、四天王寺かという点については、四天王寺に存在する平安時代の「四天王寺縁起」(国宝)が聖徳太子の直筆と信じられ四天王寺が聖徳太子信仰の中心と考えられるようになった事も示唆されました。 

 その話の中で四天王寺が火災の後の復興のために藤原道長の援助を得るために道長を聖徳太子の生まれ変わりと信じこませる内容の縁起を作成し道長が、それを信じて四天王寺を庇護し、それに倣って他の皇族、貴族も四天王寺を庇護するようになり熊野詣での中継点として繁栄する事になった話もありました。

 この「四天王寺縁起」を後に後醍醐天皇が本物と信じ込まれた話は前に書かせてもらいましたが、その時の権力者、藤原道長さえ手玉に取り、その名誉欲に付け込んだ四天王寺の策略に感心しました。