お宝映画・番組私的見聞録 -135ページ目

吉田輝雄考察

高宮敬二は、表舞台を退いた後、韓国でホテル社長をしていた時期もあったようだが、カラオケ番組の審査員をしたり、Vシネマのプロデューサーをしたりと、芸能界から離れてはいなかったようだ。
ハンサムタワーズの盟友である吉田輝雄も、高宮と同じく70年代に一度姿を消している。
四人の中で松竹に一番期待されていたのは、間違いなく吉田である。星輝美の項で、59年度の日本映画製作者協会新人賞の顔ぶれを紹介したが、三上真一郎の記憶では翌60年の顔ぶれは、日活が赤木圭一郎、東宝が加山雄三、松竹がその三上真一郎で、新東宝が吉田輝雄だったという。一見、松竹では一番順調そうに見えたが次第に助演にまわるようになり、65年にはフリーになっている。つまり、それ以降はフリーの立場で松竹作品に出演していたのである。
意外なことに、松竹では役に恵まれていなかった菅原文太は67年に東映に映るまで松竹の契約俳優であった。
吉田だが、66年の松竹「夜を狙え」で、新東宝時代にも出演した石井輝男監督に再開することになる。ところで、この作品、主演は竹脇無我、ヒロインは香山美子ということで、松竹作品だとわかるが、他の出演者が三原葉子、清水まゆみ、真理明美、待田京介、田中邦衛、由利徹、そして嵐寛寿郎というどこの作品だかわからん顔ぶれになっている。
新東宝倒産直前に退社し、東映で撮り始めた石井輝男は、吉田が東映にくると「網走番外地」シリーズでも彼を起用し、68年の「徳川女系図」から始める異常性愛路線10本すべてにも起用した。何も言わずにやってくれるので使い易いというのが理由であった。
吉田はこの後、映画からは退き、テレビの方で活動することになる。個人的には、やはり「ゴールド・アイ」(70年)の印象が強い。年齢的に芥川比呂志、高松英郎に続くナンバー3の立場の役であった。売り出し中の若林豪に加え、「仮面ライダー」直前の藤岡弘と千葉治郎、これがテレビデビュー作となる渡瀬恒彦、柴俊夫といった今考えるとえらく豪華なメンバーがレギュラーを勤めていた番組である。吉田は東映映画では「吉岡」という役名が多かったが、この番組(東映制作)でも吉岡であった。
他には「水戸黄門」などにゲスト出演していたが、77年頃を最後に姿を見かけなくなる。詳しくはわからないが、故郷である大阪のほうでクラブを経営していたようである。吉田が再び姿を見せるのは、それから約20年後のことであった、と言いたかったのだが、それは間違いであったことに気付いた。次回に続く。

高宮敬二伝 その2

前回の続きである。新東宝時代、高宮敬二は、ある監督から古賀政男を紹介され門下生になっている。
ヒット曲というのはなかったようだが、約50枚ものレコードを出しているそうである。個人的には全く知らなかったし、1つも聞いたことがないと思うのだが、コンスタントにこれだけだせたということは、そこそこ売れたということだろうか。
当時は、コロムビアだったら「コロムビア・ヒット・ショー」のように、各レコード会社がそれぞれテレビやラジオで番組を持っていたのだが、高宮が所属していたポリドールでも「ポリドールレコード・アワー」という番組があり、高宮は西田佐知子とこの番組の司会を担当したらしい。この番組が正確にはいつやっていたのか調べてみたがわからなかったが、存在していたことは確かなようだ。
61年に新東宝が潰れ、ハンサムタワーズは全員松竹に移ることになる。イメージ的には松竹で活躍したのは吉田輝雄と寺島達夫で、菅原文太と高宮はあまり目立たなかったと思っていたのだが、高宮も新東宝時代はなかった主演を松竹で4本ほどやっていたのである。
「太陽先生青春記」(62年)では、タイトルにある主役の太陽先生をやり、主題歌も歌っている。クラブ経営にも乗り出し、順調に軌道に乗り出した頃、麻薬の仲介容疑で逮捕されてしまう。結局、誤認逮捕で無罪放免となったのだが、報道されてしまったダメージは大きく、役者をやめて、歌手一本で行くことを決意したという。実際、64年は映画出演はないが、65年には復帰し「やさぐれの掟」(65年)などの「やさぐれ」シリーズで主役を演じている。まだ、無名だった新藤恵美、松岡きっこ、藤岡弘などと共演している。
この直前までヤクザだった安藤昇のデビュー作となった「血と掟」(65年)では、プロデューサー補佐のような役目を担い、出演を固辞する安藤の説得に加わっていたという。こういう経緯もあってか、後に高宮に東映を入りを勧めたのは安藤昇であったようだ。
67年に、高宮と吉田、文太は東映に移籍する。寺島は64年に松竹をやめ、テレビ中心に活動していたため、一足遅れ69年に東映作品に登場している。
高宮は、東映ではヤクザ映画を中心に年2、3本出演する一方で、サイドビジネスにも精を出し、そちらへの比重が大きくなっていたようである。「大脱獄」(75年)を最後に俳優活動は行っていない。

高宮敬二伝

新東宝俳優シリーズ?として今回は高宮敬二を取り上げてみたいと思う。ハンサムタワーズ四人(菅原文太、吉田輝雄、寺島達夫、高宮)の中で一番、謎な感じがするのは彼ではないだろうか。新東宝時代は単独主演作というのはないし(松竹時代にあり)、79年のキネマ旬報「日本映画俳優全集・男優偏」では高宮は何故か生年、出身その他不明となっているのだ。
高宮が「映画論叢」に寄せた自叙伝によれば、33年福井県の温泉旅館に生まれる。前述の俳優全集では林功となっていたが、本名は林勇らしい。
同志社大を卒業後、ラジオ福井に入社し番組制作に携わっていたという。しかし、お見合い話を断るために退社して上京(京都に恋人がおり、紹介してくれた姉の顔をつぶさないためだとか)。58年、当てもなくブラブラしていたところ、元日活専務という人物に逢い、大蔵貢と逢う機会を得て、新東宝への入社が決まった。
とはいっても、最初は大部屋でセリフもないエキストラのような役が暫く続いた。そして、初めてセリフもある役をもらったのが「無警察」(59年)で、高宮敬一郎としてデビューしたのであった。出演は天知茂、丹波哲郎、小畠絹子など。高宮敬一郎名義の作品は、他にもあるかもしれないが把握できているのは本作のみである。
改名した経緯は不明だが、半年後に高宮敬二として初登場したのが「大学の御令嬢」(59年)である。この作品でハンサムタワーズの四人が始めて顔をそろえている。しかし主演は大空真弓で、他に万里昌代、星輝美、三ツ矢歌子といった女性陣中心の映画で四人はその相手役といった感じだ。結局、ハンサムタワーズ主演の作品は「男の世界だ」(60年)の一作だけで、四人揃っての共演も、この二作だけである。
話が前後したが、初の大役と認識しているのが、「大学の御令嬢」の翌月に公開された「海豹の王(アザラシのキング)」(59年)である。実際、ポスターでも主演の宇津井健の次に、高宮の名がある。千葉の勝浦でロケを行ったが、旅館でも宇津井と高宮は同室。年齢は二つしか違わないが、宇津井は看板スターであり、大部屋慣れしていた高宮は緊張してしまい、逆に宇津井に気を使われたという。食事が高級なものになり、移動も専用のタクシーが用意されたり、大部屋とは大きく違う扱いの差に驚いたという。

次回に続く。

星輝美の引退

もう少しだけ星輝美の話題である。
59年度日本映画製作者協会の新人賞の受賞者は、中谷一郎(俳優座)、夏木陽介(東宝)、水木襄(東映)、本郷功次郎(大映)、山本豊三(松竹)に加えて、清水まゆみ(日活)と、その清水と一緒に日活でデビューした星輝美(新東宝)という今考えると中々の顔ぶれである。星は新東宝で頭角を現し始めたが、それに呼応するように仲の良かった清水も日活で活躍し始めた。
この中で一番馴染みのないのは、一般的にも個人的にも星輝美ということになるのではないだろうか。なにしろ、50年前に引退しているのだから。
61年に新東宝は倒産するのだが、その年の前半には星は東映へという話はあったようである。
八月に倒産し、東映に行く前に撮られたのが、以前ここでも取り上げた「狂熱の果て」である。制作は佐川プロで、星を新東宝にスカウトしたプロデューサーの佐川滉が設立した会社である。この配給会社が大宝で、わずか6本の配給で姿を消した知る人ぞ知る幻の会社だ。このうち4本のプリントは発見されているが、この「狂熱の果て」に関してはまだ不明のようである。
六本木野獣会をモデルにした作品で、主演が星輝美、共演は松原緑郎、鳴門洋二、松浦浪路の新東宝勢に加え、当時は人気歌手だった藤木孝や井上ひろし、そして堀雄二などが出演している。原作者で野獣会のメンバーだった秋本まさみも出演していたことはわかっているが、星によるとこの時、野獣会のメンバーがみんな出たそうである。峰岸徹(当時18歳)がいて、派手な車で来たらしい。あと、井上順(当時14歳)もいたようだったと話している。映っているかどうか確認したいものである。
東映での第1作目である「万年太郎と姉御社員」(61年)では、ヒロインに抜擢され高倉健の相手役を務めている。この時、時代劇向きの顔だということで、京都にいくように言われ、名前も星てるみになっている。「お姫さまと髭大名」(62年)に関しては、山城新伍が居たことは覚えているという(主演は里見浩太郎)。そして「よか稚児ざくら 馬上の若武者」(62年)に関しても、水木襄の主演作(主演は北大路欣也)と語っており、あまり記憶にないようだ。水木は準主役だが一緒に新人賞を受賞したこともあり、印象が強かったのだろうか。
星はこれを最後に女優を引退してしまう。その理由が「京都の冬が寒かったから」だそうである。

少女妻 恐るべき十六才、他

引き続き星輝美の話題である。インタビュー自体は96年、つまり彼女が50代半ばの頃に行われたものであるが、個々の作品などについては忘れてしまったことも多いようである。
彼女が主役である「少女妻 恐るべき十六才」(60年)については、当初は北沢典子の予定だったらしいが、星のほうが合っているのではということで代わったという。鳴門洋二とジェットコースターに乗ったのを覚えているという。鳴門とは共演も多く、印象にも強く残っているようだが彼はゲイだったという。このことは周知だったらしく、インタビュー当時は新宿のほうで、ゲイバーのようなものをやっていたらしい。
ちなみに、鳴門洋二は新東宝最後の契約俳優と言われており、新東宝倒産後も居座っていたとか。この後、テレビに移り、「鉄道公安36号」で5年間レギュラーを務めることになる。
「少女妻~」の監督は渡邊祐介。引退後新東宝会に出席した際、渡邊は星に「これは記念作品で、未だにお前の大きなパネルを飾っている」と言われ、星は感激したという。ちなみに星は自分の子に祐輔と名付けたらしい。本作は新東宝倒産後に星が東映に引っ張られるきっかけにもなったようだ。
「三人の女強盗」(60年)は星と万里昌代、左京路子の三人がタイトルどおり女強盗を演じる話である。万里昌代は、こういった激しいタイプの女という役が多かったが、星の話では、実際は大人しくて穏やかな人だったという。引退後、子どもが小さかった頃には万里が家に遊びに来てくれたこともあったらしい。この作品の監督である小林悟は女優にもてたといい、当時は「シークレットフェイス」こと三条魔子と深い仲だったらしく、この二人と星、菅原文太の4人で遊んだりしていたという。しかし、その小林が監督した「まぼろし探偵」の映画版である「まばろし探偵 恐怖の宇宙人」(60年)に関しては、覚えていないらしい。
そんな中で、彼女が観てみたいといった作品が「恋愛ズバリ講座」(61年)。大蔵貢退陣後に、スタッフもキャストもノーギャラでやっている作品である。三部構成で、その第1部である「吝嗇(けちんぼ)」に星は、天知茂、松原緑郎(光二)、伊達正三郎、小畠絹子らと出演しているのだが、完成品を観ていないのだという。監督の三輪彰とはこれ一作だけだったが、もっと一緒にやりたい監督だったという。

女王蜂の怒り

さて、今年も新年とは関係ない話題でスタートしたい。
唐突だが「映画論叢」という雑誌を知っているだろうか。都心のでかい本屋でなければ、なかなか見かけないタイプの雑誌である。通常あまりスポットがあたらない人のインタビュー記事などがよく載っている。
年末に話題にした新東宝女優・星輝美のインタビュー記事もその中の一つである。
日活から新東宝への経緯は「月下の若武者」の項で書いたとおりだが、社長・大蔵貢から与えられた星輝美名義でのデビューは、「女王蜂の怒り」(58年)である。
主演は久保菜穂子で、他に宇津井健、天知茂、中山昭二、三原葉子、高倉みゆき、伊達正三郎など。
彼女の役は最初、三ツ矢歌子の予定だったものを、大蔵が強引に代えたとのこと。この作品の監督である石井輝男は三ツ矢がお気に入りの女優だったこともあってか、星輝美には冷たかったようで、お互いほとんど口も聞いていないと星本人は語っている。当時のスポニチの記事では、石井は星について「度胸も満点で、若いというだけでもすばらしいものがある」と語っていたらしいのだけれども。
この作品で共演したのがもう一人、やはり新東宝入りしてまもなかった菅原文太である。本作では宇津井健を含めて三人でダンスをするシーンなどもある。
文太(当時25歳)は星(当時17歳)を、えらく気に入っていたようで、実際付き合っていたとのこと。文太は彼女の撮影が終わるまで絶対に帰らなかったらしい。しかし、これを星の母親が大蔵にもらしてしまい、結果文太が一年干されてしまったという。しかし、新東宝時代の文太に実際にはそんな期間は見当たらない。この「女王蜂の怒り」公開(58年末)直後の59年前半は1本しか出演していないので、その頃のことかもしれない。「女体渦巻島」(60年)の頃は仕事のない文太が彼女を千葉の駅に迎えにきていたという。
彼女は大蔵のお気に入りでもあったのである。大蔵は「ウチは長男(大江満彦)はバカだから、次男の嫁にこい」と星によく言っていたという。
星自身は、大蔵にはイヤな思いはなかったようだが、愛人とまで言われた高倉みゆきはイヤそうだったという。実は高倉はその頃、俊藤浩滋(東映プロデューサー)と付き合っており、大蔵の一方通行だったと星は語っている。そういえば、菅原文太を東映に導いたのはその俊藤である。

2012年回顧録 その2

前回の続きである。引き続き日活関係で言えば、ニュフェースだった浜川智子こと浜かおる(64歳)である。この三月に亡くなったのだが、実は半年以上知らなかった。あまり、大きく報道されなかったのか、単純に私が気付かなかっただけなのかは不明だ。個人的には、やはり「浜かおる」になってからの「プレイガール」(69~74年)である。第2クールからラストまで、ほぼ5年間出演していた。プレイガールのメンバーでは、范文雀、沢たまきに続く3人目の故人ということになろうか。
日活の俳優ではないが、日活ニューアクションといわれる「野良猫ロック」シリーズの二作に出演した地井武男(70歳)。直前まで「ちい散歩」などで活躍していた。
その「野良猫ロック」シリーズの一作に出演、そこでは共演していないが地井とは「不良番長」シリーズの二作で共演したのが安岡力也(64歳)である。そこは、台本を重視しない現場だったそうだが、地井が台本を読んでいるのを見た力也が「締めてやりましょうか」と言い出し山城新伍に「台本読むのはあたり前だ」と諭されたという。殺しても死なないと言う感じのキャラだったが、病気には勝てなかったようだ。
歌手に目を向けると、ザ・ピーナッツの伊藤エミ(71歳)。姉の方つまり沢田研二の元妻である。75年に引退してからは公の場に一度も姿を見せなかったようだ。妹の伊藤ユミの方はずっと独身だったようだ。フォーリーブスの北公次(63歳)。09年の青山孝史が亡くなり、メンバーは二人になってしまった。石川進(79歳)は、「おはよう!こどもショー」の司会や、「オバケのQ太郎」や「ど根性ガエル」の主題歌など、自分が子どもの頃に親しんだタレントであった。尾崎紀世彦(69歳)の「また逢う日まで」も、当時子どもながらに大好きな歌であった。「ウルトラセブン」の主題歌を歌うジ・エコーズのメンバーだったことを知ったのは、随分後のことである。
お笑い界に目を向けると、クレージーキャッツの桜井センリ(86歳)。メンバーでは最年長(26年生まれ)であったが、公称は30年生まれであった。これで健在なのは犬塚弘だけとなった。小野ヤスシ(72歳)に関しては、ドンキーカルテットの時代もなんとなく記憶に残っている。元々ドリフターズから分裂したグループだが、健在なのはジャイアント吉田だけとなった(途中加入の祝勝は不明)。ストレートコンビや笑いの園で活躍した橋達也(74歳)。ストレートコンビは萩本欽一に似ている橋と坂上二郎に似ている花かおるというコント55号のそっくりさんコンビと当時は認識していた。
司会者に目を向けると、「アップダウンクイズ」の小池清(80歳)。同番組は20年も続いた。小池はMBSのアナウンサーだったが、出身は東京である。「ズバリ!当てましょう」の泉大助(84歳)。同番組は1期と2期があるが、泉はその合計で14年間司会を務めていた。泉といえば、やはりナショナル(松下電器)というイメージが強い。前述の「アップダウンクイズ」に解答者として出演したこともあるようだ。

本年の更新はこれで終了である。後半から更新回数が減ってしまったが、来年も週二回は更新できるよう続けるつもりである。

2012年回顧録 その1

今年もあとわずかということで、毎年恒例になっているその年の回顧(要するに故人を偲ぶ)をやってみたいと思う。
今年はまず正月7日の二谷英明(81歳)の死で幕を開けたという感じだった。二谷といえば、やはり近年は「特捜最前線」のイメージだろう。そんな二谷に続くように、その3か月後に荒木しげる(63歳)、そして10月に大滝秀治(87歳)と、特捜スタートメンバー6人のうちの3人(残るは藤岡弘、西田敏行、誠直也)が相次いで亡くなった。
荒木はまだ若いが、90年代の半ばには大病を患い長く入院することもあったようだ。10年続いた「特捜最前線」の前番組は15年続いた「特別機動捜査隊」であった。荒木はその「特捜隊」に一度ゲスト出演(69年)したことがあった。当時は役者ではなく、フォー・セインツのドラマーだったが、少年院から脱走した少女に絡む役で、メンバーで1人多くセリフがあった。もちろんヘタクソであったが、まさかその八年後に後番組のレギュラーになるとは考えてもいなかったであろう。ちなみに、そのフォー・セインツのベーシストが後に「おはようスタジオ」などで活躍する志賀正浩である。
今年、亡くなった大物女優といえばやはり、山田五十鈴(95歳)であり、森光子(92歳)であろう。ちなみに本名はそれぞれ山田美津、村上美津といい、共に「美津」である。他に、津島恵子(86歳)、中原早苗(76歳)、馬渕晴子(75歳)なども今年逝ってしまった。
馬渕晴子は日活のイメージはないと思うが、スクリーンデビューは日活が再開した54年の「女人の館」である。この作品には、水の江瀧子がプロデューサーではなく、役者として出演している。馬渕は翌55年の「スラバヤ殿下」などにも出演するが、その後はNHKの専属女優として活躍することになる。
山田五十鈴や津島恵子も日活のイメージはないと思うが(山田のデビューは戦前の日活だが)、共に55年には日活での主演作があったりする。山田が主演の「石合戦」には、やはり今年亡くなった内藤武敏(86歳)も出演している。この12月に亡くなった小沢昭一(83歳)が日活と契約したのも、この55年で、中原早苗もこの年に契約している。中原も水の江のスカウトだったようだが、先日ここで紹介した水の江の著書では触れられていなかった。

次回に続く。

月下の若武者

今回は水の江瀧子からは離れた日活関係の話を。
前々回だかに、津川雅彦は日活には二年ほどしか在籍していなかったと書いたが、兄・長門裕之、父・沢村國太郎と共演した作品が何作かある。
中でも「月下の若武者」(57年)は、配役がそのまんまの関係性、つまり長門・津川が兄弟の役で、沢村がその父親を演じているのである。三者共演は「江戸の小鼠たち」(57年)などでもしているが、配役までそのままというのは本作くらいではないだろうか。まあ、二人が子役だった頃にあるかもしれんが。
で、本作で長門の相手役となるのは浅丘ルリ子であったが、津川の相手役については一般公募を行ったようだ。それで最終的に残ったのが清水マリ子であり、鎌倉はるみである。
清水マリ子(当時17歳)は、翌年には清水まゆみと改名し、主に和田浩治の相手役などを務め主演級の女優になっていく。結局、結婚したのは小高雄二であったけれども。鎌倉はるみ(当時16歳)は翌年、新東宝に移り星輝美となり、主演級の女優として活躍することになる。
ただ、この「月下の若武者」では、遊女といったチョイ役で、実際に津川の相手役となったのは、この前年にデビューしている香月美奈子であった。
星輝美は、日活にいた一年間はいつも清水まゆみと一緒に出演しており、ほぼチョイ役であった。すぐに新東宝に移ったのは予定どおりというか、実は先に新東宝にスカウトされていたからなのである。その同時期に日活の津川雅彦相手役の募集に友達が応募してしまい、合格してしまったとのこと。
自分をスカウトした新東宝の佐川Pに相談したところ、「日活で1年武者修行していらっしゃい」といわれ、文字通り1年日活にいたのである。ただ、日活へ行く前に「リングの王者 栄光の世界」(57年)に、撮影を見に来いと言われ、ワンカットだけ花売り娘の役で出演している。
このように、デビュー時の経緯が入り組んでいる星輝美だが、日活にも新東宝にも認められる好素材だったということはいえるだろう。

水の江瀧子伝 その3

もう少しだけ、水の江瀧子について。彼女が日活でプロデューサーをしていたのは54~69年の15年間で、70本近い作品に携わっている。その3分の1以上が石原裕次郎の主演作品である。裕次郎(慎太郎もだが)は、幼少時に北海道は小樽に住んでいたことがあるようだが、ターキーは小樽生まれだったりするのである。ちなみに、室田日出男や宮本信子も小樽生まれだ。
ターキーは、本名を三浦ウメ子という。ネット上では、何故か三浦ウメになっているが、本人が自著で「ウメ子」と言っているので、こちらが正しいのだと思う。
で、この人の甥として話題になったのがロス疑惑の三浦和義である。実兄の子であるらしいが、本人の隠し子ではという噂もたったものである。三浦和義本人もそう思っていた時期があるらしい。
ターキーは当時、12~13歳だった三浦を映画に出演させている。最初が「今日に生きる」(59年)で、もう一本が先日ここでも話題にした「喧嘩太郎」(60年)である。いずれも主役である石原裕次郎の少年時代を演じている。記録に残っているのはこの二作で、ちゃんとクレジットもされているようだ。意外にも、どちらもターキーのプロデュース作品ではない。
詳細は不明だが、何か嫌な事があったらしく、役者の道には進まず、だんだんと非行に走るようになり、66年には少年刑務所に入れられている。
そして、84年のロス疑惑報道により、叔母であるターキーにも注目が集まった。これに嫌気がさし、彼女は三浦の名を捨て「水の江瀧子」を本名にするよう申請している。「瀧」の字が認められないということでもめていたらしいが、自著はそこで終わっているので、「瀧子」が認められたのか「滝子」に落ち着いたのかははっきりしない。ただ本人は「瀧」の字にこだわっていたようだ。
三浦は08年に自殺し、ターキーもその約1年後に老衰でこの世を去った(享年94歳)。