久保明を辿る
久保明のイメージといえば、東宝特撮映画と答える人が多いかもしれないが、デビューから暫くは文芸映画の人だったのである。
映画デビューは15歳の時で「思春期」(52年)という、タイトルどり青春思春期映画で、主役に抜擢されたのである。本名の山内康儀名義であったが、ここでの役名である久保明を以降の芸名とすることになった。一歳上の相手役である中西みどりも、まもなく青山京子を芸名とすることになった。
「続・思春期」(53年)、「潮騒」(54年)も久保・青山コンビで映画化されている。三島由紀夫の「潮騒」はこれが初の映画化であった。ちなみに、青山京子はアキラはアキラでも、あまり接点のなさそうだった小林旭と67年に結婚して引退した。
「あすなろ物語」(55年)は、主人公の鮎太少年を18歳時、15歳時、12歳時とそれぞれ別の役者が演じるという、珍しい形式がとられた。久保はその18歳時を演じたのだが、12歳時を演じたのがその7歳下の実弟である久保賢、つまり後の山内賢であった。
本名が賢晃(あきのり)という難しい名前で、兄にならって久保賢を名乗っていたが、日活入りを機に山内賢とした。方や東宝、方や日活ということもあり兄弟共演というのは、この「あすなろ物語」くらいかもしれない。実は、この二人が兄弟というのは個人的には、このブログを始める数年前までは知らなかったことである。
で、「あすなろ物語」で、主人公の15歳時を演じたのが、久保兄弟に似ていたという鹿島信哉であった。後にウルトラシリーズなど、円谷特撮にはよく顔を出している人である。
久保明は「蜘蛛巣城」や「椿三十郎」など黒澤作品にも出演しているが、「あすなろ物語」の脚本は黒澤明である。
「雪国」(56年)では池部良、岸恵子らと共演。久保の役柄は八千草薫の弟というもの。
「若い獣」(58年)は石原慎太郎が原作だけでなく監督も務めた作品である。久保は主役のボクサーを演じている。日活で撮っていたら当然、主演は裕次郎だったと思うが、東宝で撮るようになった経緯は不明だ。しかも慎太郎唯一の長編監督作品だったりする(他に「二十歳の恋」というオムニバス作品の監督の一人というのがある)。
今では珍しくないが、当時はやはり素人監督というのは、本職からすれば面白くなく問題視されたようで、撮影は砧ではなく連合映画という撮影所でフリーのスタッフを集めて行ったという。続く。
青年の樹(ドラマ版)
原作はお馴染み石原慎太郎で「週刊明星」にて連載されていた小説である。
「ナショナル劇場」のプロデューサーである逸見稔は、青春ホームドラマをたりたいと考えており、この「青年の樹」に目をつけたのだが、そこは慎太郎といえば裕次郎で、日活での映画化が決定していたのである。そのため、テレビ化には映画公開後、一年あまり待たなければならなかった。
ちなみに、主役の和久式馬を当然石原裕次郎で、ヒロインの山形明子を芦川いづみ、その妹を北原三枝が演じている。
ドラマの方は大規模なオーディションを行い、主役に選ばれたのは俳優座養成所に在籍していた勝呂誉であった。主人公の名は坂本式馬。その親友・和久宏に新東宝ハンサムタワーズの一人である寺島達夫で、つまり映画での裕次郎が演じた主役の名が二つに分けられている。ヒロイン・山形明子役はやはり俳優座の小林哲子が選ばれた。
勝呂誉はこの番組で大空真弓と出会い、後に結婚へと発展するので、すでに新東宝でも実績のあった大空がヒロインのように勝手に思っていたのだが、彼女の役は甲子園優勝投手のガールフレンドというようなものだったらしい。
で、ヒロインの小林哲子で有名なのは「海底軍艦」(63年)のムウ国皇帝ではないだろうか。特撮女優っぽく見られているが、特撮作品への出演はこの「海底軍艦」くらいなのである。彼女は病気のため、番組を途中降板し、変わりに起用されたのが、当時17歳の香山美子であった。香山は人気女優へと成長していくので、余計小林哲子の影が薄くなってしまったかもしれない。
そして寺島達夫。番組スタートの61年6月といえば、新東宝はつぶれる寸前である。移籍先の松竹において彼が重用されたのは、この番組での人気にこともあったのだろう。ちなみに、勝呂も香山も後に松竹入りしている。
他の出演者では、勝呂の父親役で森繁久弥。「ナショナル劇場」の顔となっていく人物である。他にも徳川夢声、水戸光子、沢村貞子、芦田伸介、河津清三郎、山茶花究といったベテランに加え、南原宏治、馬渕晴子、石井伊吉(毒蝮三太夫)らが出演。竜雷太(当時は長谷川龍男)も、ラグビー部員の一人として出演していたそうである。番組は人気を呼び、26回の予定が80回に延長されている。
石井一雄(東宮秀樹/石井宏明)史 その2
前回の続きである。東映に移籍した石井一雄だったが、「健児の塔」(53年)という作品の主演に抜擢される。この作品には、その学友役として、まだ俳優座に入所する前の佐藤允が、佐藤「充」名義で出演したりしている。
三部作「月笛日笛」(55年)でも伏見扇太郎と兄弟役で主演に抜擢されているが、この後、東宮秀樹という名をマキノ光雄専務に与えられている。ネット上で「とうぐう」という読みになっている場合があるが、「とうみや」が正しい。
翌56年には、東映のスター女優であった喜多川千鶴と結婚している。喜多川は石井より年下ではあるが、片岡千恵蔵や市川右太衛門の相手役を務めていたことから「女御大」と呼ばれていたらしい。石井と喜多川は千恵蔵が金田一耕助を演じた「悪魔が来たりて笛を吹く」「犬神家の謎 悪魔は踊る」(54年)などで共演しており、マージャンの相手などをさせられたりしていたという。ちなみに喜多川の前夫は夏川大二郎である。
しかし、この結婚は東映サイドからは止められていたため、石井は少し干されることになってしまう。確かに、55、56年は10本以上の作品に出演していたが、57年は半分程度に減っている。この57年に再び名前を石井一雄に戻している。
そんなこともあり、石井は辞めさせてほしいと思うよになっていたのだが、59年から東映はテレビ番組制作を開始する。石井も「新書太閤記」「大楠公」(59年)などに出演し、これからはテレビの時代だと感じるようになったという。
映画の方は「水戸黄門漫遊記 怪魔八尺坊主」(60年)では、格さんの役をやったり、「鞍馬八天狗」(61年)では、八天狗の一人を演じたりしている。ちなみに、八天狗とは高田浩吉、若山富三郎、里見浩太郎、山城新伍のスターに加え、波多野博、大里健太郎、片岡栄二郎といったスター候補に終わった面々が演じている。石井も主演作はあるものの後者に含まれるという気がする。この「鞍馬八天狗」を最後に石井は東映を退社してフリーとなっており、テレビを中心に活動していく。
映画でも演じた「月笛日笛」のドラマ版(61~62年)にも、同じ役で主演することになり、名前を再度東宮秀樹に改めている。
65年に喜多川千鶴と離婚したのを機に、今度は石井宏明に改めている。「特別機動捜査隊」「特捜最前線」といったかつて所属していた東映のドラマを中心に、あまり印象に残らない役で出演していることが多いと思われる。
石井一雄(東宮秀樹/石井宏明)史
石井一雄は、東宝ニューフェースの2期生出身。本名は和夫だが姓名学的に名前が弱いということで一雄を名乗っていた。1期生が三船敏郎をはじめとして、伊豆肇、若山セツ子、久我美子といった面々だったが、2期生は石井以外には、有名どころは杉葉子、塩沢ときくらいであろうか。
石井によれば、当時の東宝ニューフェースの養成所教育というのは、一流の講師を揃えて、朝から晩まで演技、音楽、日舞、バレエ、映画史、映画理論などが無料で講義され、理想的だったという。しかし、4期生あたりからは新劇の劇団に委託という形になってしまったらしい。
入社したとたんに東宝争議、ストライキ状態になり、撮影がないので全国を芝居で廻っていたのだという。
初の大役となったのは、入社から六年あまりたった53年、マキノ雅弘監督の「次郎長三国志 第二部 次郎長初旅」での増川仙右衛門役であった。ちなみに、次郎長役は小堀明男で、次郎長一家は河津清三郎(大政)、田崎潤(鬼吉)、森健二(綱五郎)、田中春男(大五郎)、そして森繁久弥(森の石松)という蒼々たる面子で、次の第三部では、ニューフェース3期生の小泉博も三五郎で加わっている。
石井はこのシリーズ第七部まで出演しているが、途中から東映の所属となっている。「次郎長初旅」を見た市川右太衛門が「あれ(石井)を東映に呼べ」といったのだという。「新書太閤記 流転日吉丸」の日吉丸役に石井がいいと思ったらしい。台本を渡された石井は東映行きを決意していた。このまま東宝にてもたいしたことはないと思っていたからだそうだ。
古いところだから覚悟していった方がよいと言われて京都へ行ったが、東宝とのあまりの違いに驚いたという。特にスターとそうでないものは天と地の差があること。東宝ではスターも仕出し(チョイ役)も同列であるという考え方であった。しかも東映は3分の1の給料で3倍働かせると言われ、契約上はA1でスターと同等なのに、給料は安かったのだという。続く。
天野新士とその家族
個人的にはあまり馴染みがないのだが、慶応大在学中に新国劇にスカウトされ入団し、60年代には「桂小五郎」や「青春怪談」といったテレビドラマで主演を務めていた二枚目俳優である。
三上と天野は大ヒットドラマ「細うで繁盛記」(70年)にゲストで出演し、イジメ役だった冨士真奈美を騙す悪役を二人で演じたことから親しくしていた時期があったという。三上が天野を自宅まで車で送っていった時に、奥さんや娘さんにも会ったという。奥さんは元宝塚の和歌鈴子という人で、65年には結婚して引退してしまったようなので、個人的には全く知らないが昼メロドラマでの共演がきっかけだったようだ。どのドラマかは不明なのだが、それっぽいのは「海に出る蝶」か「惑いの午後」あたり。
この時まだ小さかったユリちゃんという娘さんが、もうわかった人もいるかもしれないが、後の松本友里である。
仲の良い一家だったが、数年後に天野と歌手・西川峰子とのスキャンダルが報じられる。
その後で、三上は偶然に天野夫人と娘・友里に街でばったり会ったという。天野の話題を出すとイヤな顔をされ、友里が「天野のこと?」というと夫人は「もう関係ないわよね」などと言い放ったという。どうやら、天野夫人は娘(と息子)を連れ家を出たようだった。スキャンダルは事実だったということだろうか。
娘の友里は後にアイドル歌手としてデビューするのだが、きっかけは「オールスター家族対抗歌合戦」に天野と親子で出場したこと(83年)だったようなので、スキャンダルはこの後だったと思われる。彼女はやがて女優業に移行し、05年に「暴れん坊将軍」松平健と結婚する。
彼女が再び話題になったのが10年のこと。母・和歌鈴子が死亡して、それから半年後に彼女も自殺してしまったのである。母の介護疲れや死別からうつ状態になっていたらしい。
それにしても、岡田有希子(享年18歳)、可愛かずみ(享年32歳)、戸川京子(享年37歳)、そして松本友里(享年42歳)と自殺したアイドルは全員84年デビュー組なのである。岡田と松本は堀越学園の同級生でもある。
ところで、天野新士だが今はどうしているのか、三上も知らないという。もう健在ではないのかも、と言っているがそういう情報もみあたらない。出演歴で確認できているのは91年までである。
山本豊三伝 その2
かしまし娘結成十周年の公演に出演してほしいとの依頼が何故か三上の下に届く。松竹映画と松竹芸能、同じ松竹なら問題なしとのことで、引き受けた三上であったが、その少し前に撮影が入ったのである。前々回に話題にした寺島達夫主演の「戦場の野郎ども」(64年)である。その撮影スケジュールが遅れ、三上は記念公演に参加できなくなってしまったのである。で三上の代わりに参加することになったのが山本豊三だったのである。そこで、照枝が夜の大阪を案内すると豊三を連れ出したのである。その結果、一線を越えてしまったそうな。当時、豊三24歳、照枝31歳。逆「美女と野獣」というと失礼だが、二人の交際は順調に進み、かしまし娘は照枝のためにトリオを解散する運びになっていたという。しかし、解散は中止となる。
原因は豊三であった。かしまし娘が解散前の一稼ぎとばかり、忙しくなり二人はなかなか会うことができなくなった。その最中、暇つぶしか銀座に通いつめていた豊三は小さなバーのママと一線を越えてしまったらしい。しかも、彼女は妊娠してしまったのである。かくて、豊三と照枝は結婚を諦める次第となった。父無し子を作るわけにはいかないというのが理由であった。映画俳優全集では68年に結婚とあるので、それがこの時のママだったと思われる。
話は前後するが、小坂一也、三上真一郎、山本豊三による新三羽烏シリーズだが、実は「若手三羽烏・女難旅行」以外には、「暴れん坊三羽烏」(60年)が制作されたのみである。しかも、小坂ではなく津川雅彦にチェンジされていた。鳴り物入りでやってきた津川だったが、騒がれた割には人気にならなかったという。津川に役を奪われた形の小坂だが、晩年は津川が社長を務めるグランパパプロに所属しており、97年に小坂が亡くなった時に会見していたのは津川だった。
さて山本豊三だが、60年ごろから松竹ではヌーベル・バーグの波が訪れており、豊三はその辺の作品には相手にされず、63年に松竹を離れている。その後、バセドー氏病に苦しみながらも映画やテレビに出演していたが、記録上は79年でその名は途絶えている。病気は79年に回復したと前述の映画俳優全集にあるのだが。
山本豊三伝
さて、山本豊三といわれてもピンとこない人も多いかもしれない。実は書いている私自身もあまり馴染みのない役者なのである。「特別機動捜査隊」のゲストで数回出演しているのを見たのが初めてのような気がする。しかい、60年代松竹看板スターの1人であったことは間違いない。
「三羽烏三代期」(59年)という、佐分利信、佐野周二、上原謙という初代、佐田啓二、高橋貞二、大木実を二代目、小坂一也、三上真一郎、山本豊三を三代目とする三代の三羽烏9人全員が出演している作品がある。松竹三千本記念映画ということで、この豪華な配役が実現している。
戦前の松竹三羽烏が佐分利、佐野、上原だが、戦後の三羽烏が佐田、高橋、鶴田浩二である。しかし、鶴田が松竹を去ったため大木実や川喜多雄二が三羽烏シリーズに出演していた。その伝統ある三羽烏に新たに指名されたのが小坂、三上、山本だったのである。
この作品での実質的な主役は高橋貞二だが、次作の「大願成就」の撮影期間中に交通事故死している。ちなみに、本作でその相手役を務めたのが先日亡くなった大島渚の妻となる小山明子である。
話はそれたが、その新三羽烏の1人であった三上真一郎が前回の寺島達夫に続き、山本豊三についても「映画論叢」の中で語っているのである。
「若手三羽烏・女難旅行」(60年)では、それぞれの相手役が豊三は桑野みゆき、小坂は十朱幸代、三上は瞳麗子だったのだが、豊三と桑野は相性が悪く、小坂は桑野好きで、三上は瞳が苦手だったところから、組み合わせを変えてほしいと提案したところ一蹴されたという。寺島もそうだったが、豊三も桑野とコンビを組むことが多かった。実際のところは、互いによく思っていなかったようだ。ところで、小坂は結局十朱が気に入ってしまい、そのうち結婚することになる(後に離婚)。
その頃、豊三は新東宝女優・大空真弓と婚約関係にあったようだ。しかし、後に大空から婚約リングを付き返されてしまう。原因は定かでないが、豊三は女グセがあまりよくなかったようである。三上によれば、豊三は年上か気の強い母親タイプが好きなマザコンボーイだったという。それを証明するかのように、豊三の次の相手はなんと「かしまし娘」の次女・照枝だったのである。続く。
寺島達夫考察 その2
三上真一郎と寺島達夫が共演した「戦場の野郎ども」(64年)では、主演の寺島が手榴弾を敵のトーチカに投げ入れるシーンがある。一発とはいかなかったが、十投目くらいにはトーチカの中に放り込むことに成功し、元プロの投手の片鱗は見せたようだ。実は寺島はこれを最後に松竹を退社しているのだが、約二年の間、ほぼ主役級だったにもかかわらず、自ら望んだとすれば謎の退社に思える。契約でトラブルでもあったか、フリーでやっていけると思ったのか事実は不明だが、ここから四年の間は映画出演がなくなるなど、以降のことを考えると「失敗」だったといえるだろう。
三上は寺島のことをあっさりはしているが、態度のデカイ男と言っている。新東宝の先輩になる和田孝とドラマ「青年の樹」(61年)で一緒になったとき、寺島は和田に「吸うか?」とタバコを投げてよこしたりしたという。そんなこともあり、寺島が松竹京都の女優である葵京子と結婚したときは皆驚いたという。彼女は評判がよかったようで、寺島には過ぎた女房だと周囲は皆思ったらしい。
きっかけと思われるのは「海猫が飛んで」(62年)での共演であろうか。寺島の相手役は桑野みゆきであることが、ほとんどだったが、この作品でも二人は恋人関係である。しかし寺島の方に縁談が持ち上がる。その縁談相手を演じたのが葵京子である。共演らしい共演は、この作品くらいしか見当たらない。
三上は70年代には、寺島が芸能界から消えてしまったと思っていたようだ。実際には、あまり目立たないが時代劇やらアクションドラマやらにゲストで出演しており、「南極物語」(83年)など映画にも顔をだしている。
しかし、記録に残っているのはそのあたりまでで、97年に60歳でこの世を去っており、ハンサムタワーズ唯一の故人である。
寺島達夫考察
元々は東映フライヤーズの投手である。55年に入団したが、芽が出ず、わずか三年でユニフォームを脱いでいる。ちなみに、背番号は49→39で、一軍での当番は2試合(6イニング)、被本塁打2本という成績であった。
で、この翌56年にやはり東映に投手として入団したのが八名信夫である。八名も三年で退団しているが、これはケガのためである。背番号は13で、寺島より期待されていた感がある。一軍での当番は15試合(28イニング)、被本塁打5本という成績であった。
八名はそのまま東映の俳優になったが、寺島は何故新東宝なのかといえば、実兄が新東宝の俳優だったからである。名を新島宏といい、新東宝スターレットの三期生だったが、55年に亡くなったらしい。その縁から誘われたようだ。
初めて名前が出たのが、高宮から遅れること2ヶ月、「東支那海の女傑」(59年)で、「寺島達朗」名義であった。彼の本名というのはどの資料にも出ていないのだが、東映フライヤーズの時は「寺島達」だったようなので、これが本名と考えるのが自然だと思う。間違っているかもしれんが。
寺島に関する情報は少ないのだが、松竹時代の同僚である三上真一郎が次のように語っている。新東宝が倒産した61年、ハンサムタワーズの面々は松竹にやっていくるのだが、最初大船撮影所に姿を見せたのは、菅原文太、吉田輝雄、高宮敬二、そして松原緑郎(光二)だったという。寺島は同じ松竹でも京都の方だったらしい。これは、寺島のマネージャーが売り込みに成功したからだということだったが、結局は寺島も大船にやってくることになる。理由は不明だが、京都の方で使い切れなかったからだろうと三上は述べている。とりあえず、次回に続く。
吉田輝雄考察 その2
これは、明治時代の大阪を舞台にした探偵物で、同じNHKの「開化探偵帳」(68年)や、ここでも取り上げた「新十郎捕物帖・快刀乱麻」(73年)も同種の番組といえるかもしれない。
「なにわの源蔵」は2シリーズあり、第1作が81~82年、第2作「新・なにわの源蔵捕物帳」が83~84年と、足掛け四年放送されているが、回数にすると全40話である。吉田はこの両方で剣持警部という役をレギュラーで演じていたようだ。ちなみに主演の源蔵役は一作目は桂枝雀だが、新作では芦屋雁之助に変更となっている。
制作がNHK大阪ということで出演したのかもしれないが、とにかく80年代も俳優の仕事をしていたことが分かった。この後、96年に「復活」するまでの記録は見つからないが、関西ローカルの番組などに出演していた可能性はある。
「復活」といえるドラマは、里見浩太郎主演の2時間ドラマ「一色京太郎事件ノート」の第3弾「京都鞍馬貴船川殺人事件」(96年)ではないだろうか。これ以降、吉田は「水戸黄門」など全国区番組に顔を出すようになっている。
一方、70年代半ばより表舞台からは退いていた高宮敬二が、01年に歌手活動を再開させていた。そのキャンペーン中に吉田が応援に駆けつけたことから、二人で歌おうということになり、翌02年に「ハンサムタワーズ」の名で二人のデュエット曲が発売された。ちなみに高宮は当時69歳、吉田は66歳であった。
10年には「石井輝男映画魂」公開記念上映会というのが開催され、そのイベントで吉田輝雄のトークショーが行われている。そこに行ったわけではないので、詳しい内容などわからないが、新東宝倒産の時のエピソードが語られたそうだ。実は一足先に東映と契約した石井に誘われ、大川社長とも面談し、吉田の(第二)東映入りがほぼ決まっていたそうである。しかし、同時に松竹にも誘われ、しかもギャラが30万高かったため、松竹に決めたのだそうである。もちろん、石井には怒られたそうだが、「夜を狙え」で再会した際に、特に恨み言は言われなかったという。そんなこともあり、石井の作品には出演し続けていたのかもしれない。