阿久悠の仕事
もう一度、阿久悠の話に戻ってみる。阿久が構成作家(企画)を務めていた番組は「世界へ飛び出せ!ニューエレキサウンド」だけではない。
有名なところでは、「紅白歌のベストテン」や「うわさのチャンネル」などにも携わっている。「紅白歌のベストテン」は、タイトルどおりNHK紅白が毎週できないかという乱暴な発想で始めたもので、毎週のように渋谷公会堂に向かっていたという。
「うわさのチャンネル」(73~79年)といえば、和田アキ子だが、デビュー曲「星空の孤独」の作詞を担当したのも阿久である。ホリプロでは、彼女を大型新人と期待しており、社運を賭けてデビューさせるので、東京到着の瞬間から見て、その気になってほしいからと、大阪から上京してくる彼女を阿久に出迎えさせようとしたのである。しかし、結局いけずその代理で行ったのが、後に「修羅雪姫」や「同棲時代」で有名になる劇画家の上村一夫だったという。
阿久と上村は宣弘社時代に、上村がバイトとして宣伝部に来たことで知り合い、その当時も原作と作画として組んで「パラダ」(平凡パンチ)、「セクサス48」(漫画アクション)といった連載を持っており、当日も阿久が締切に間に合わなくなると言い出すと上村が代わりを買って出たのであった。上村が和田を見た感想は「有馬稲子にソックリだった」というものであったという。和田の初ヒット曲は「どしゃぶりの雨の中で」であったが、これは大日向俊子の作品で、阿久が詩を書いて売れたのは「笑って許して」が最初であった。阿久は自分のが最初のヒットにならなかったのは悔しかったという。
「レ・ガールズ」(67~68年)も阿久が構成作家として参加していた番組で、日本テレビの音楽班が持ち込んできた仕事であった。彼らの企画は渡辺プロ王国に対抗するようなものばかりだったという。当初は西野バレエ団の三人娘(金井克子、由美かおる、原田糸子)だったが、番組スタートと同時に奈美悦子が加わり、後半には江美早苗が加わってお馴染みの五人娘となったのである。30分番組だが、阿久は週5日も拘束されたという。ミニミュージカルあり、ヒットパレードあり、ゲストコーナーあり、人形を使ったコントあり、訳詞も含め毎回十数曲もの作詞もあり、とにかく時間がかかり、こんなに割の悪い仕事はないと思っていたという。
第1回のゲストは何故か渡哲也で、最終回ゲストはコント55号とドンキー・カルテットだったようだ。
有名なところでは、「紅白歌のベストテン」や「うわさのチャンネル」などにも携わっている。「紅白歌のベストテン」は、タイトルどおりNHK紅白が毎週できないかという乱暴な発想で始めたもので、毎週のように渋谷公会堂に向かっていたという。
「うわさのチャンネル」(73~79年)といえば、和田アキ子だが、デビュー曲「星空の孤独」の作詞を担当したのも阿久である。ホリプロでは、彼女を大型新人と期待しており、社運を賭けてデビューさせるので、東京到着の瞬間から見て、その気になってほしいからと、大阪から上京してくる彼女を阿久に出迎えさせようとしたのである。しかし、結局いけずその代理で行ったのが、後に「修羅雪姫」や「同棲時代」で有名になる劇画家の上村一夫だったという。
阿久と上村は宣弘社時代に、上村がバイトとして宣伝部に来たことで知り合い、その当時も原作と作画として組んで「パラダ」(平凡パンチ)、「セクサス48」(漫画アクション)といった連載を持っており、当日も阿久が締切に間に合わなくなると言い出すと上村が代わりを買って出たのであった。上村が和田を見た感想は「有馬稲子にソックリだった」というものであったという。和田の初ヒット曲は「どしゃぶりの雨の中で」であったが、これは大日向俊子の作品で、阿久が詩を書いて売れたのは「笑って許して」が最初であった。阿久は自分のが最初のヒットにならなかったのは悔しかったという。
「レ・ガールズ」(67~68年)も阿久が構成作家として参加していた番組で、日本テレビの音楽班が持ち込んできた仕事であった。彼らの企画は渡辺プロ王国に対抗するようなものばかりだったという。当初は西野バレエ団の三人娘(金井克子、由美かおる、原田糸子)だったが、番組スタートと同時に奈美悦子が加わり、後半には江美早苗が加わってお馴染みの五人娘となったのである。30分番組だが、阿久は週5日も拘束されたという。ミニミュージカルあり、ヒットパレードあり、ゲストコーナーあり、人形を使ったコントあり、訳詞も含め毎回十数曲もの作詞もあり、とにかく時間がかかり、こんなに割の悪い仕事はないと思っていたという。
第1回のゲストは何故か渡哲也で、最終回ゲストはコント55号とドンキー・カルテットだったようだ。
アイちゃんが行く
鈴木ヒロミツの話題が出たところで、彼の初の本格的ドラマ出演となった「アイちゃんが行く」(72~73年)である。以前ここでも取り上げたかもしれないが、先日本作の主役であった坂口良子が亡くなったということもあり、改めてピックアップしてみたい。
坂口良子は71年に「ミスセブンティ-ンコンテスト」でグランプリを獲得したのをきっかけに芸能界入りし、本作で主演ドラマデビューをはたすが、先に「さぼてんとマシュマロ」に顔見せ?出演していたようである。この年同じコンテストに参加していた朝加真由美は地区予選で落選したという(後にスカウト)。ちなみに、このコンテストのグランプリ受賞者には大滝裕子、網浜直子、松本典子など。84~86年の参加者はおニゃン子クラブに加入したものが多い。グランプリ受賞者はあまり目立たなかった貝瀬典子であった。
話がそれたが、「アイちゃんが行く」は当初、坂口演じる主役のアイちゃんが父親を探し求めて旅をするというロードムービー的な話で、相手役がやはり前年デビューしたばかりの本郷直樹と子役出身の吉田次昭(当時18歳)であった。本郷はデビュー曲「燃える恋人」で新人賞を受賞した勢いのある歌手で、本作の主題歌「二人のフィーリング」も彼が担当していた。また、バーニングプロの所属タレント第1号でもある。
吉田次昭は「マグマ大使」で、17話~20話のみ二宮秀樹演じるガムの代役を務めた子役といえば、わかりやすいだろうか。しかし、番組スポンサーはOPにも焼き付けられているとおり江崎グリコだったのだが、ライバル会社のCMに出演したということで、すぐに降板させられてしまったのである。その代わりとして抜擢されたのが鈴木ヒロミツ(当時はひろみつ)だったのである。いつから登場したか正確には不明だが、7話あたりから登場したと思われる。おそらく、ヒロミツが出演し、当時流行ったモービル石油のCM(エンコした車を押す)のイメージからの抜擢ではないだろうか。実際、CMと同じ服を着ていたりしたようである。
ちなみに、本郷と吉田は「てんつくてん」(73年)でも共演している。
さて、ヒロミツは07年に60歳で、坂口良子も先日57歳で亡くなった。本郷も00年に脳溢血で倒れ、その後も他の病魔に侵されたり危ない状態だったと思われるが、人工透析を受けながらも生き抜いているようだ。それを考えると、ヒロミツも坂口も突然亡くなったかのように思えてしまう。吉田は個人的にはその姿を見かけないが、01年あたりまではいろんなドラマに顔を出していたのが確認されている。
坂口良子は71年に「ミスセブンティ-ンコンテスト」でグランプリを獲得したのをきっかけに芸能界入りし、本作で主演ドラマデビューをはたすが、先に「さぼてんとマシュマロ」に顔見せ?出演していたようである。この年同じコンテストに参加していた朝加真由美は地区予選で落選したという(後にスカウト)。ちなみに、このコンテストのグランプリ受賞者には大滝裕子、網浜直子、松本典子など。84~86年の参加者はおニゃン子クラブに加入したものが多い。グランプリ受賞者はあまり目立たなかった貝瀬典子であった。
話がそれたが、「アイちゃんが行く」は当初、坂口演じる主役のアイちゃんが父親を探し求めて旅をするというロードムービー的な話で、相手役がやはり前年デビューしたばかりの本郷直樹と子役出身の吉田次昭(当時18歳)であった。本郷はデビュー曲「燃える恋人」で新人賞を受賞した勢いのある歌手で、本作の主題歌「二人のフィーリング」も彼が担当していた。また、バーニングプロの所属タレント第1号でもある。
吉田次昭は「マグマ大使」で、17話~20話のみ二宮秀樹演じるガムの代役を務めた子役といえば、わかりやすいだろうか。しかし、番組スポンサーはOPにも焼き付けられているとおり江崎グリコだったのだが、ライバル会社のCMに出演したということで、すぐに降板させられてしまったのである。その代わりとして抜擢されたのが鈴木ヒロミツ(当時はひろみつ)だったのである。いつから登場したか正確には不明だが、7話あたりから登場したと思われる。おそらく、ヒロミツが出演し、当時流行ったモービル石油のCM(エンコした車を押す)のイメージからの抜擢ではないだろうか。実際、CMと同じ服を着ていたりしたようである。
ちなみに、本郷と吉田は「てんつくてん」(73年)でも共演している。
さて、ヒロミツは07年に60歳で、坂口良子も先日57歳で亡くなった。本郷も00年に脳溢血で倒れ、その後も他の病魔に侵されたり危ない状態だったと思われるが、人工透析を受けながらも生き抜いているようだ。それを考えると、ヒロミツも坂口も突然亡くなったかのように思えてしまう。吉田は個人的にはその姿を見かけないが、01年あたりまではいろんなドラマに顔を出していたのが確認されている。
モップスと阿久悠
もう少し前回の続きである。スパイダースにもう一人メンバーがいたことをご存知だろうか。
昨年だったか、テレビを見ていると都内の鮮魚店だか惣菜店だかに元スパイダースのメンバーがいるという。知っていると思うが、芸能界を離れた形になっているのはベースの加藤充だけなのだが(現在は井上堯之も引退したという)、その店主(前田富雄)はドラムをやっていたという。「ドラムは田辺だろう?」と思って調べると確かにいた。真相は70年の5月に田辺がメネージメント業に専念するためグループを抜け、バンドボーイだった前田が加入したというものであった。この頃になると堺正章や井上順はソロでの活動も忙しくなり、かまやつも70年11月には脱退し、71年1月には正式に解散となっている。そのため前田がドラムで参加しているシングルはラストシングルである「エレクトリックおばあちゃん」だけなのである。10年近い歴史の中で、最後の半年だけの参加ということで前田のことを知らなかった人も多いのではないだろうか。
さて、阿久悠が作詞家としての注文を受けたのは、ザ・モップスが最初となる。GSには抵抗していた感のあったビクターが遅ればせながらザ・ダイナマイツ、ザ・サニー・ファイブ、そしてモップスの3グループを一挙にデビューさせることになり、堀威夫がモップスの作詞を依頼してきたのだった。
「明日までに仕上げなければならないから」とビクターのディレクターは阿久を小さなホテルに作曲を担当する村井邦彦とともに缶詰めにしたという。朝までにはと無茶を言われたので、それならと「朝まで待てない」というタイトルを決めてしまったのであった。村井は慶応大をでたばかりの青年で、阿久に「学生時代からレコード経営してるんですよ」などと言っていたというが、後にアルファレコードの社長になっている。
モップスは鈴木ヒロミツ(ボーカル)、星勝(リードギター)、三幸太郎(サイドギター)、村上薫(ベース)、スズキ幹治(ドラムス)の五人組だが、元々はボーカル不在だったところに幹治の実兄であるヒロミツが加わったのであった。やがて、村上が脱退し、三幸がベースを担当することになる。
堀威夫の発案で「サイケデリック・サウンド」を標榜し、LSDパーティーを開催したなどと書かれているが、もちろんそんなことができるはずもなく、上村一夫がドラムの腹にそれっぽい絵を書いたり、ライトショーを工夫した程度のものだったと阿久は語っている。ただ、LSDの気分を味わうためにバナナ煙草はどうだろうと大量のバナナを買い込んだりはしたらしいが、密造には至らなかったという。
解散後もヒロミツはホリプロにそのまま在籍し、俳優として活動していく。ドラマへの初出演はまだモップスの一員だった「時間ですよ」の第2シリーズ(71~72年)だと思われるが、堺正章、かまやつひろし、岸部シロー、はしだのりひこなどGS出身者が大勢出演していた。
鈴木ヒロミツは60歳にして亡くなったが、星勝(現在は「まさる」ではなく「かつ」と読むらしい)作曲・編曲家として活躍、ヒロミツが出演していた「夜明けの刑事」の音楽も星が担当していた。阿久は他の三人のその後は知らないとしていたが、スズキ幹治は浜田省吾のディレクターになったようである。
昨年だったか、テレビを見ていると都内の鮮魚店だか惣菜店だかに元スパイダースのメンバーがいるという。知っていると思うが、芸能界を離れた形になっているのはベースの加藤充だけなのだが(現在は井上堯之も引退したという)、その店主(前田富雄)はドラムをやっていたという。「ドラムは田辺だろう?」と思って調べると確かにいた。真相は70年の5月に田辺がメネージメント業に専念するためグループを抜け、バンドボーイだった前田が加入したというものであった。この頃になると堺正章や井上順はソロでの活動も忙しくなり、かまやつも70年11月には脱退し、71年1月には正式に解散となっている。そのため前田がドラムで参加しているシングルはラストシングルである「エレクトリックおばあちゃん」だけなのである。10年近い歴史の中で、最後の半年だけの参加ということで前田のことを知らなかった人も多いのではないだろうか。
さて、阿久悠が作詞家としての注文を受けたのは、ザ・モップスが最初となる。GSには抵抗していた感のあったビクターが遅ればせながらザ・ダイナマイツ、ザ・サニー・ファイブ、そしてモップスの3グループを一挙にデビューさせることになり、堀威夫がモップスの作詞を依頼してきたのだった。
「明日までに仕上げなければならないから」とビクターのディレクターは阿久を小さなホテルに作曲を担当する村井邦彦とともに缶詰めにしたという。朝までにはと無茶を言われたので、それならと「朝まで待てない」というタイトルを決めてしまったのであった。村井は慶応大をでたばかりの青年で、阿久に「学生時代からレコード経営してるんですよ」などと言っていたというが、後にアルファレコードの社長になっている。
モップスは鈴木ヒロミツ(ボーカル)、星勝(リードギター)、三幸太郎(サイドギター)、村上薫(ベース)、スズキ幹治(ドラムス)の五人組だが、元々はボーカル不在だったところに幹治の実兄であるヒロミツが加わったのであった。やがて、村上が脱退し、三幸がベースを担当することになる。
堀威夫の発案で「サイケデリック・サウンド」を標榜し、LSDパーティーを開催したなどと書かれているが、もちろんそんなことができるはずもなく、上村一夫がドラムの腹にそれっぽい絵を書いたり、ライトショーを工夫した程度のものだったと阿久は語っている。ただ、LSDの気分を味わうためにバナナ煙草はどうだろうと大量のバナナを買い込んだりはしたらしいが、密造には至らなかったという。
解散後もヒロミツはホリプロにそのまま在籍し、俳優として活動していく。ドラマへの初出演はまだモップスの一員だった「時間ですよ」の第2シリーズ(71~72年)だと思われるが、堺正章、かまやつひろし、岸部シロー、はしだのりひこなどGS出身者が大勢出演していた。
鈴木ヒロミツは60歳にして亡くなったが、星勝(現在は「まさる」ではなく「かつ」と読むらしい)作曲・編曲家として活躍、ヒロミツが出演していた「夜明けの刑事」の音楽も星が担当していた。阿久は他の三人のその後は知らないとしていたが、スズキ幹治は浜田省吾のディレクターになったようである。
ザ・スパイダース結成話
「世界へ飛び出せ!ニューエレキサウンド」の話は、阿久悠が92~93年にかけてスポニチに連載していた「夢を食った男たち」(94年に単行本化)に書かれたものである。
阿久とザ・スパイダースとの出会いも前々項のとおりだが、その時は既にお馴染みの七人組が揃っていたという。
阿久はこの連載中にリーダーだった田辺昭知と会い、改めてスパイダースの結成時の話を聞いている。しかし、その話はWikiなどに載っている情報とはかなり違っている。
まあ、ネット上では61年に第1期のスパイダースが結成され、62年に井上堯之、大野克夫、堺正章、63年に加藤充、かまやつひろし、64年に井上順という順番で加入。その直後に初期メンバーである伊藤源雄が脱退し、井上堯之はリードギターのポジションに移行してお馴染みの体制になったということである。
しかし、阿久の「夢を食った男たち」では次のようになっている。61年に田辺と伊藤源雄、山田幸保、日吉武、三科実という五人で結成され、主に歌手のバックバンドとして活動していた。初期メンバーのこの後の動向については触れられていない。
新生スパイダースにあたり、まず田辺が声をかけたのがソロ歌手として活動していたが当時は不遇な状況にあったかまやつだった。同じ頃ビートルズがデビューし、目指す音楽はこれだと思ったようである。三人目は同じホリプロの3JETというユニットのメンバーだった井上堯之だ。当初は彼がギターを弾けなかったとうのは有名かもしれない。ちなみに、3JET時代は高之、スパイダースでは孝之である。
次に田辺が目をつけたのが大野克夫だった。京都に大野ありと言われるほど「天才」として名を知られていたそうである。田辺が声をかけると、ベーシストの加藤充と一緒ならという返事であった。どっちにしろベースも必要だからと、OKすると加藤はすぐに上京し、メンバーとなった。だが肝心の大野はなかなか上京せず、結局一年半かかっている。しかしその待ち焦がれた大野は三日目には帰ると言いだしたらしい。そこを田辺は何とか説得してつなぎとめている。これは阿久にとっても大きな影響を及ぼすことになる。この10年程後には、阿久と大野のコンビで沢田研二などのヒット曲を何曲も生み出すことになるからである。
喜劇役者・堺駿二の息子が音楽をやりたがっているという話が歌手の斉藤チヤ子を通じて田辺の耳にも入ってくる。そして彼を訪ねて堺正章がやってくる。子役として映画出演などの経験もあったが、当初はとにかく無口な少年だったという。しかし、公演中の停電をきっかけに突如しゃべりだしたらしい。
最後の井上順は田辺がルックスをかってスカウトしたというが、ネット情報ではライブを見た井上の方から加入を申し出たことになっている。
以上のように、かなり食い違っているのだが、Wikiなどは間違いも多いし、田辺の方も30年経過した時点での記憶なので、必ずしも正確ではないかもしれないので、どちらが正しいとはいえないのである。
阿久とザ・スパイダースとの出会いも前々項のとおりだが、その時は既にお馴染みの七人組が揃っていたという。
阿久はこの連載中にリーダーだった田辺昭知と会い、改めてスパイダースの結成時の話を聞いている。しかし、その話はWikiなどに載っている情報とはかなり違っている。
まあ、ネット上では61年に第1期のスパイダースが結成され、62年に井上堯之、大野克夫、堺正章、63年に加藤充、かまやつひろし、64年に井上順という順番で加入。その直後に初期メンバーである伊藤源雄が脱退し、井上堯之はリードギターのポジションに移行してお馴染みの体制になったということである。
しかし、阿久の「夢を食った男たち」では次のようになっている。61年に田辺と伊藤源雄、山田幸保、日吉武、三科実という五人で結成され、主に歌手のバックバンドとして活動していた。初期メンバーのこの後の動向については触れられていない。
新生スパイダースにあたり、まず田辺が声をかけたのがソロ歌手として活動していたが当時は不遇な状況にあったかまやつだった。同じ頃ビートルズがデビューし、目指す音楽はこれだと思ったようである。三人目は同じホリプロの3JETというユニットのメンバーだった井上堯之だ。当初は彼がギターを弾けなかったとうのは有名かもしれない。ちなみに、3JET時代は高之、スパイダースでは孝之である。
次に田辺が目をつけたのが大野克夫だった。京都に大野ありと言われるほど「天才」として名を知られていたそうである。田辺が声をかけると、ベーシストの加藤充と一緒ならという返事であった。どっちにしろベースも必要だからと、OKすると加藤はすぐに上京し、メンバーとなった。だが肝心の大野はなかなか上京せず、結局一年半かかっている。しかしその待ち焦がれた大野は三日目には帰ると言いだしたらしい。そこを田辺は何とか説得してつなぎとめている。これは阿久にとっても大きな影響を及ぼすことになる。この10年程後には、阿久と大野のコンビで沢田研二などのヒット曲を何曲も生み出すことになるからである。
喜劇役者・堺駿二の息子が音楽をやりたがっているという話が歌手の斉藤チヤ子を通じて田辺の耳にも入ってくる。そして彼を訪ねて堺正章がやってくる。子役として映画出演などの経験もあったが、当初はとにかく無口な少年だったという。しかし、公演中の停電をきっかけに突如しゃべりだしたらしい。
最後の井上順は田辺がルックスをかってスカウトしたというが、ネット情報ではライブを見た井上の方から加入を申し出たことになっている。
以上のように、かなり食い違っているのだが、Wikiなどは間違いも多いし、田辺の方も30年経過した時点での記憶なので、必ずしも正確ではないかもしれないので、どちらが正しいとはいえないのである。
世界へ飛び出せ!ニューエレキサウンド その2
「世界へ飛び出せ!ニューエレキサウンド」は半年で幕をとしることになるのだが、番組のコンテストで優勝したのは「ザ・サベージ」であった。寺尾聡がいたことで知られるグループだが、彼らは「勝ち抜きエレキ合戦」でも優勝したという実力派だったのである。「エレキ合戦」にはゴールデンカップス(サベージと争い負けたらしい)なども出場しているが、「ニューエレキサウンド」には、他にめぼしいグループはいなかったようである。
サベージもボーカルなしのグループだったのだが、いざデビューになると、時代はすでにボーカルがないとダメということになっており、ベースの寺尾とリーダーでギターの奥島吉雄がボーカルを務めるカレッジポップス「いつまでもいつまでも」で66年8月にデビューして大ヒットさせた。
実はこの曲も2曲目の「この手のひらに愛を」も、寺尾が一人でメインボーカルを務めていたと思っていたのだが、「いつまでも」は一番を奥島、二番が寺尾、「この手のひら」は一番が寺尾、二番が奥島がメインで歌っているらしい。声も歌い方も非常に似ている(と個人的には思っている)ので、気付かなかったが、改めて聞いてみると確かに違うようだ。
スパイダースより早くヒット曲が出たことに阿久悠はショックを受けたというが、直後に「夕陽が泣いている」がヒットし、スパイダース、ブルーコメッツ、サベージが当時の人気三大グループと言われるようになった。
メンバーも4人(奥島、寺尾、林廉吉、渡辺純一)から渡辺昌宏を加えた5人となり、あっという間に人気物になった彼らだったが、67年1月に寺尾が脱退してしまう。直後に3曲目の「夜空に夢を」が発売されそこでは寺尾も参加しているのだが、既にグループにはいなかったのである。奥島と寺尾の仲が非常に悪かったからだという噂もあるが、本当のところは不明だ。3月には林も学業優先を理由に脱退し、原一夫が加入するが、人気は急速に衰え、68年3月には解散となった。わずか1年半程度の活動期間であった。ちなみにドラムの渡辺純一は病気のため若くして亡くなったという。
サベージの解散直後、ザ・ホワイトキックスなるグループがデビューするが、そこにはサベージを脱退した寺尾と林の姿があった。ジャズピアニストで作曲家の三保敬太郎が「ピット・イン・パンチ」という番組のため結成した6人組グループだったが、シングル1枚だけで終了している。三保は59年、まだ24歳だった頃から日活を中心に多くの劇伴を担当していた。
寺尾の父が宇野重吉であることは有名だが、寺尾も俳優に転向する際、宇野の主催する劇団民芸入りを希望したという。しかし、宇野は親の七光りと見られるからと、石原裕次郎を紹介する。そして裕次郎が製作した「黒部の太陽」に出演することになる。役柄は宇野の息子役である。
サベージもボーカルなしのグループだったのだが、いざデビューになると、時代はすでにボーカルがないとダメということになっており、ベースの寺尾とリーダーでギターの奥島吉雄がボーカルを務めるカレッジポップス「いつまでもいつまでも」で66年8月にデビューして大ヒットさせた。
実はこの曲も2曲目の「この手のひらに愛を」も、寺尾が一人でメインボーカルを務めていたと思っていたのだが、「いつまでも」は一番を奥島、二番が寺尾、「この手のひら」は一番が寺尾、二番が奥島がメインで歌っているらしい。声も歌い方も非常に似ている(と個人的には思っている)ので、気付かなかったが、改めて聞いてみると確かに違うようだ。
スパイダースより早くヒット曲が出たことに阿久悠はショックを受けたというが、直後に「夕陽が泣いている」がヒットし、スパイダース、ブルーコメッツ、サベージが当時の人気三大グループと言われるようになった。
メンバーも4人(奥島、寺尾、林廉吉、渡辺純一)から渡辺昌宏を加えた5人となり、あっという間に人気物になった彼らだったが、67年1月に寺尾が脱退してしまう。直後に3曲目の「夜空に夢を」が発売されそこでは寺尾も参加しているのだが、既にグループにはいなかったのである。奥島と寺尾の仲が非常に悪かったからだという噂もあるが、本当のところは不明だ。3月には林も学業優先を理由に脱退し、原一夫が加入するが、人気は急速に衰え、68年3月には解散となった。わずか1年半程度の活動期間であった。ちなみにドラムの渡辺純一は病気のため若くして亡くなったという。
サベージの解散直後、ザ・ホワイトキックスなるグループがデビューするが、そこにはサベージを脱退した寺尾と林の姿があった。ジャズピアニストで作曲家の三保敬太郎が「ピット・イン・パンチ」という番組のため結成した6人組グループだったが、シングル1枚だけで終了している。三保は59年、まだ24歳だった頃から日活を中心に多くの劇伴を担当していた。
寺尾の父が宇野重吉であることは有名だが、寺尾も俳優に転向する際、宇野の主催する劇団民芸入りを希望したという。しかし、宇野は親の七光りと見られるからと、石原裕次郎を紹介する。そして裕次郎が製作した「黒部の太陽」に出演することになる。役柄は宇野の息子役である。
世界へ飛び出せ!ニューエレキサウンド
前回までと話は全く変わるのである。
阿久悠といえば、作詞家として有名だが、その彼が元々は「月光仮面」や「隠密剣士」を制作した広告代理店・宣弘社の社員だったことも今は有名だと思う。
企画課に配属され、その課長が井上正喜こと脚本家・伊上勝であった。阿久が入社したときは「遊星王子」(59年)の脚本を書いていたそうだ。
阿久は宣弘社在籍中に、構成作家としても活躍し始める。その中に「世界へ飛び出せ!ニューエレキサウンド」(65年)という番組があった。ビートルズの影響からエレキギターがブームになり始めた頃である。
この番組はホリプロ社長の堀威夫、ザ・スパイダースのリーダー田辺昭知、日テレディレクターの笈田光則が企画し、阿久に構成を書かせるというものだったようだ。実は、これが阿久が音楽に関わっていくきっかけとなったのである。
まず、この番組のパイロット版を制作することになったのだが、30分番組に16時間もかかってしまったのである。プロはスパイダーズだけで、後はコンテストに出場するアマチュアバンド、その周りで踊るゴーゴーガール、そして川崎や横浜のゴーゴークラブで声をかけて調達した周囲でモンキー・ダンスを踊る少年少女が百人あまりいたという。
作り手側も手探り状態で、出演者も言うことを聞かない素人ばかりでは、うまく進行するはずもなかった。スパイダースもこの時点では、正式なレコードデビューはしていなかった。
結局、番組スタートはこのパイロット版制作から5ヶ月ほど後のことのなり、その間にフジテレビが「勝ち抜きエレキ合戦」をスタートさせてしまったので、二番煎じの番組と見られてしまうことになった。
実際、「勝ち抜きエレキ合戦」は知っている人も多いかと思うが、「ニューエレキサウンド」を知っている人はあまりいないのではないか。
司会は安川実ことミッキー安川と岡本ルミという人。前述のとおり、ザ・スパイダースがレギュラーであった。これらの番組に出場してきたグループはインスツルメンタルばかりで、ボーカルはなかったという。それが単調に感じて、番組としては面白いものではなかったと阿久は語っている。
歌がないのが致命的に感じられ、それなら歌を生み出そうということになり、阿久は自ら「ミスター・モンキー」という詞を書いた。それを番組でスパイダースが毎週歌うようになったかと思うと、そのうちレコード化されレコードデビュー曲「フリフリ」のB面に「モンキー・ダンス」として収録されていた。これが阿久悠の作詞家として最初の仕事であると阿久は語っている。レコード化する気などさらさらなく偶発的なものだったのである。ただB面であったため、公式にはモップスの「朝まで待てない」がデビューとされていることが多い。
しかし、記録では「フリフリ」の発売は65年5月、番組スタートは65年10月になっており、辻褄が合わないのだが…。
阿久悠といえば、作詞家として有名だが、その彼が元々は「月光仮面」や「隠密剣士」を制作した広告代理店・宣弘社の社員だったことも今は有名だと思う。
企画課に配属され、その課長が井上正喜こと脚本家・伊上勝であった。阿久が入社したときは「遊星王子」(59年)の脚本を書いていたそうだ。
阿久は宣弘社在籍中に、構成作家としても活躍し始める。その中に「世界へ飛び出せ!ニューエレキサウンド」(65年)という番組があった。ビートルズの影響からエレキギターがブームになり始めた頃である。
この番組はホリプロ社長の堀威夫、ザ・スパイダースのリーダー田辺昭知、日テレディレクターの笈田光則が企画し、阿久に構成を書かせるというものだったようだ。実は、これが阿久が音楽に関わっていくきっかけとなったのである。
まず、この番組のパイロット版を制作することになったのだが、30分番組に16時間もかかってしまったのである。プロはスパイダーズだけで、後はコンテストに出場するアマチュアバンド、その周りで踊るゴーゴーガール、そして川崎や横浜のゴーゴークラブで声をかけて調達した周囲でモンキー・ダンスを踊る少年少女が百人あまりいたという。
作り手側も手探り状態で、出演者も言うことを聞かない素人ばかりでは、うまく進行するはずもなかった。スパイダースもこの時点では、正式なレコードデビューはしていなかった。
結局、番組スタートはこのパイロット版制作から5ヶ月ほど後のことのなり、その間にフジテレビが「勝ち抜きエレキ合戦」をスタートさせてしまったので、二番煎じの番組と見られてしまうことになった。
実際、「勝ち抜きエレキ合戦」は知っている人も多いかと思うが、「ニューエレキサウンド」を知っている人はあまりいないのではないか。
司会は安川実ことミッキー安川と岡本ルミという人。前述のとおり、ザ・スパイダースがレギュラーであった。これらの番組に出場してきたグループはインスツルメンタルばかりで、ボーカルはなかったという。それが単調に感じて、番組としては面白いものではなかったと阿久は語っている。
歌がないのが致命的に感じられ、それなら歌を生み出そうということになり、阿久は自ら「ミスター・モンキー」という詞を書いた。それを番組でスパイダースが毎週歌うようになったかと思うと、そのうちレコード化されレコードデビュー曲「フリフリ」のB面に「モンキー・ダンス」として収録されていた。これが阿久悠の作詞家として最初の仕事であると阿久は語っている。レコード化する気などさらさらなく偶発的なものだったのである。ただB面であったため、公式にはモップスの「朝まで待てない」がデビューとされていることが多い。
しかし、記録では「フリフリ」の発売は65年5月、番組スタートは65年10月になっており、辻褄が合わないのだが…。
野菜シリーズ その2
前回の続きである。野菜シリーズ第7弾は「どてかぼちゃ」(75~76年)、この作品はナショナルゴールデン劇場500回と森繁久弥芸能生活40周年を記念して作られたものである。
ゴールデン劇場のスタートが66年4月ということで、単純計算だと本作がスタートした75年11月に500回を迎えることになるので、この第1回が通算500回ということになると思われる。
30数年前に中学生だった連中が同窓会を開こうと志村喬演じる先生に招待状を出したところ何故か当時みんなが恐れていた森繁久弥演じる教師がやってきて、かつての教え子たちの家庭訪問をしていくというお話。
当時の番宣ポスターには森繁久弥の他、44人の役者が名を連ねていた。森繁以外はアイウエオ順で勘弁してもらったとのことである。
誰がレギュラーで誰がゲストか、はっきりしない部分もあるが、森繁の娘役が岡田奈々で、三橋達也、大坂志郎、ハナ肇、犬塚弘、藤村有弘、牟田悌三、川崎敬三などはかつての教え子だったと思われる。芦田伸介、佐野浅夫、松原智恵子、吉沢京子、いしだあゆみ、宇津宮雅代なども名を連ね、ポスターに名があってゲストだったと思われるのは森光子、石立鉄男、フランキー堺、金子信雄、山口崇、岡田裕介、松山英太郎、安田伸、川口晶、そして森繁とは「だいこんの花」で親子を演じる竹脇無我も1エピソードのゲストだったようだ。
番宣ポスターに名がありながら、ネット上の情報では何故か名が挙がっていないのは浅丘ルリ子・石坂浩二夫妻(当時)をはじめ、和泉雅子、佐久間良子、倍賞美津子、村松英子、藤岡琢也、三浦友和、高峰三枝子、東野英治郎といった面々で、かなりの大物が多かったりする。名前がある以上、どこかに出演したはずである。
ポスターに名はなかったもののゲストで出演した中には、池部良、木村功、西村晃、水野久美、沢たまき、桜むつ子などがいる。
逸見稔の著書では、森繁を含めて45人の名を全て並べたとしていたが、よく数える44人で一人足りなかった。どうやら藤村有弘が抜けていたようだ。
これらの名をみると、東野英治郎、西村晃、佐野浅夫、石坂浩二と歴代「水戸黄門」役者が並んでいる。初代黄門に予定されていたのは森繁だったというのも有名な話である。
シリーズ9作目は「玉ねぎ横丁の花嫁さん」(76~77年、全17回)。主演は杉浦直樹、香山美子で、石立鉄男、大坂志郎、牟田悌三、春川ますみ、佐野浅夫といったシリーズ常連の名が並ぶ。大坂志郎なんかこの枠の全作に出ているようなイメージである。
「どてかぼちゃ」にはハナ、犬塚、安田といったクレージーキャッツのメンバーが登場したが、本作には谷啓が出演。主題歌を歌っている八代亜紀が本人役でゲスト出演もしている。
ゴールデン劇場のスタートが66年4月ということで、単純計算だと本作がスタートした75年11月に500回を迎えることになるので、この第1回が通算500回ということになると思われる。
30数年前に中学生だった連中が同窓会を開こうと志村喬演じる先生に招待状を出したところ何故か当時みんなが恐れていた森繁久弥演じる教師がやってきて、かつての教え子たちの家庭訪問をしていくというお話。
当時の番宣ポスターには森繁久弥の他、44人の役者が名を連ねていた。森繁以外はアイウエオ順で勘弁してもらったとのことである。
誰がレギュラーで誰がゲストか、はっきりしない部分もあるが、森繁の娘役が岡田奈々で、三橋達也、大坂志郎、ハナ肇、犬塚弘、藤村有弘、牟田悌三、川崎敬三などはかつての教え子だったと思われる。芦田伸介、佐野浅夫、松原智恵子、吉沢京子、いしだあゆみ、宇津宮雅代なども名を連ね、ポスターに名があってゲストだったと思われるのは森光子、石立鉄男、フランキー堺、金子信雄、山口崇、岡田裕介、松山英太郎、安田伸、川口晶、そして森繁とは「だいこんの花」で親子を演じる竹脇無我も1エピソードのゲストだったようだ。
番宣ポスターに名がありながら、ネット上の情報では何故か名が挙がっていないのは浅丘ルリ子・石坂浩二夫妻(当時)をはじめ、和泉雅子、佐久間良子、倍賞美津子、村松英子、藤岡琢也、三浦友和、高峰三枝子、東野英治郎といった面々で、かなりの大物が多かったりする。名前がある以上、どこかに出演したはずである。
ポスターに名はなかったもののゲストで出演した中には、池部良、木村功、西村晃、水野久美、沢たまき、桜むつ子などがいる。
逸見稔の著書では、森繁を含めて45人の名を全て並べたとしていたが、よく数える44人で一人足りなかった。どうやら藤村有弘が抜けていたようだ。
これらの名をみると、東野英治郎、西村晃、佐野浅夫、石坂浩二と歴代「水戸黄門」役者が並んでいる。初代黄門に予定されていたのは森繁だったというのも有名な話である。
シリーズ9作目は「玉ねぎ横丁の花嫁さん」(76~77年、全17回)。主演は杉浦直樹、香山美子で、石立鉄男、大坂志郎、牟田悌三、春川ますみ、佐野浅夫といったシリーズ常連の名が並ぶ。大坂志郎なんかこの枠の全作に出ているようなイメージである。
「どてかぼちゃ」にはハナ、犬塚、安田といったクレージーキャッツのメンバーが登場したが、本作には谷啓が出演。主題歌を歌っている八代亜紀が本人役でゲスト出演もしている。
野菜シリーズ
ナショナルゴールデン劇場・野菜シリーズを3つほど紹介したが、他の野菜シリーズにも触れておこうと思う。
その3作目は「黄色いトマト」(73年・全16回)。フランス料理店を舞台としたドラマで、主演は加藤剛と江利チエミで、他に杉浦直樹、鮎川いずみ、大原麗子、野添ひとみ、三島雅夫など。主題歌は江利が歌っている。
第4作目が「じゃがいも」(73~74年・全29回)。コロッケが舞台で、主演は森光子で、その夫が佐野浅夫、その子供が吉沢京子、三浦友和、義父が志村喬、他に倍賞美津子、ハナ肇、大山のぶ代、大坂志郎、近江俊郎、沢田亜矢子、池部良などが出演。沢田はこれがドラマデビューだった。
好評だったのか第2シリーズ(75年・全22回)も制作されており、加藤剛がゲスト出演している。主題歌は井上順で、そのまま「じゃがいも」というタイトルのようだ。井上本人は出演していないようである。この歌は「月見草の歌」というシングルのB面に収録されていた。
第5作目が「ねぎぼうずの唄」(74年・全23回)。舞台は岩手県の過疎の村の診療所で、当時は前年に終了した「仕掛人」のイメージが強かったと思われる緒形拳と「黄色いトマト」に続いて起用の江利チエミが主演であり、医者と看護婦という関係である。他の出演者は杉浦直樹、三浦友和、村地弘美、大坂志郎、桃井かおり、ハナ肇、志村喬など。ゲストで千昌夫とジョーン・シェパード夫妻(当時)が出演したエピソードも存在するようだ。
第6作目は「さやえんどう」(75年・全9回)。舞台は六本木の郷土料理店で、主演は佐久間良子、宇津宮雅代、いけだももこが演じる三姉妹で、店を切り盛りしている。2クール前後は放送される野菜シリーズの中で本作はなぜか全9回と短い。他の出演者は松山英太郎、三橋達也、佐藤友美、杉浦直樹などに加え、三姉妹の叔母役で水の江瀧子、店の常連客役で芸能評論家の加東康一が出演していた。
宇津宮といえば大岡越前の妻・雪絵役の初代としての印象が強いが実生活での最初の夫は西岡徳馬で、実はこの75年に離婚している。わずか2年あまりでの離婚である。その後、三浦洋一と結婚し、83年頃女優活動を休止するが、93年に離婚。三浦が46歳の若さで亡くなった2000年に女優復帰している。ちなみに宇都宮ではなく宇津宮である。いけだももこも人気のあった女優だったが、翌76年には結婚して引退してしまう。わずか四年程度の活動だったが、印象に残っている人も多いのではないだろうか。
その3作目は「黄色いトマト」(73年・全16回)。フランス料理店を舞台としたドラマで、主演は加藤剛と江利チエミで、他に杉浦直樹、鮎川いずみ、大原麗子、野添ひとみ、三島雅夫など。主題歌は江利が歌っている。
第4作目が「じゃがいも」(73~74年・全29回)。コロッケが舞台で、主演は森光子で、その夫が佐野浅夫、その子供が吉沢京子、三浦友和、義父が志村喬、他に倍賞美津子、ハナ肇、大山のぶ代、大坂志郎、近江俊郎、沢田亜矢子、池部良などが出演。沢田はこれがドラマデビューだった。
好評だったのか第2シリーズ(75年・全22回)も制作されており、加藤剛がゲスト出演している。主題歌は井上順で、そのまま「じゃがいも」というタイトルのようだ。井上本人は出演していないようである。この歌は「月見草の歌」というシングルのB面に収録されていた。
第5作目が「ねぎぼうずの唄」(74年・全23回)。舞台は岩手県の過疎の村の診療所で、当時は前年に終了した「仕掛人」のイメージが強かったと思われる緒形拳と「黄色いトマト」に続いて起用の江利チエミが主演であり、医者と看護婦という関係である。他の出演者は杉浦直樹、三浦友和、村地弘美、大坂志郎、桃井かおり、ハナ肇、志村喬など。ゲストで千昌夫とジョーン・シェパード夫妻(当時)が出演したエピソードも存在するようだ。
第6作目は「さやえんどう」(75年・全9回)。舞台は六本木の郷土料理店で、主演は佐久間良子、宇津宮雅代、いけだももこが演じる三姉妹で、店を切り盛りしている。2クール前後は放送される野菜シリーズの中で本作はなぜか全9回と短い。他の出演者は松山英太郎、三橋達也、佐藤友美、杉浦直樹などに加え、三姉妹の叔母役で水の江瀧子、店の常連客役で芸能評論家の加東康一が出演していた。
宇津宮といえば大岡越前の妻・雪絵役の初代としての印象が強いが実生活での最初の夫は西岡徳馬で、実はこの75年に離婚している。わずか2年あまりでの離婚である。その後、三浦洋一と結婚し、83年頃女優活動を休止するが、93年に離婚。三浦が46歳の若さで亡くなった2000年に女優復帰している。ちなみに宇都宮ではなく宇津宮である。いけだももこも人気のあった女優だったが、翌76年には結婚して引退してしまう。わずか四年程度の活動だったが、印象に残っている人も多いのではないだろうか。
にんじんの詩/七色とんがらし
野菜シリーズは全部で9作ほどあるようだが、個人的に注目なのは、まずその第2弾「にんじんの詩」(72年)全19回である。
「だいこんの花」の第2、第3シリーズに挟まれて放送されている本作は宇津井健が初めてホームドラマに挑んだ作品である。宇津井健は当時40歳だが、この前年まで「ザ・ガードマン」に七年にわたり出演しており、やはりアクションのイメージ。しかも、この時期は「シークレット部隊」、その後番組「燃える兄弟」も並行して放送されており、かけもち出演だったと思われる。
大ざっぱな内容は、宇津井が義理の妹である三姉妹(小川真由美、梓英子、吉沢京子)の面倒を見るというような話らしい。他の出演者は寺田農、杉浦直樹、細川俊之、森本レオ、天田俊明そして志村喬などである。
もう一つ気になるのが、その第八弾となる「七色とんがらし」(76年)。こちらは宇津井以上にアクションのイメージが強いよいうよりアクションしかイメージのない千葉真一が初のホームドラマに挑戦している。千葉は当時37歳であり、40近くなるとホームドラマをやってみたくなるのだろうか。
千葉の妻役が倍賞美津子、弟役が原田大二郎と星正人、妹役が加賀まりことアクションドラマとしか思えない配役である。原田はホームドラマもやっていたが、当時は「Gメン75」で殉職したばかりだったし、星は前年に映画デビューし、この時期は「刑事くん」で2代目主人公に抜擢され、本作と並行して出演していた。この後、「大都会partⅡ」「ドーベルマン刑事」と刑事役が続く。
他にもやはりアクション一筋という感じだった志穂美悦子、ベテラン西村晃と、千葉と併せて「ザ・ボディガード」(74年)の面子が揃った。本作の直前まで、千葉と志穂美はこの「ボディガード」から「ザ・ゴリラ7」「燃える捜査網」「大非常線」といったアクションドラマに続けて出演していた。
そして、片岡千恵蔵御大。当時73歳だが、やはりホームドラマへの出演というのは珍しいと思われる。千葉と千恵蔵、志穂美が並ぶと、やはり東映のアクション映画のイメージだし、ここまでの出演者の名前だけ見て、ホームドラマをイメージする人はいないだろう。
しかし、タイトルからはホームドラマしか想像できないので、よくできたタイトルといえるかもしれない。もちろん、松山英太郎、大坂志郎、春川ますみといったこの枠常連の面々も出ている。関係ないが、あだち充のマンガは「虹色とうがらし」である。
「だいこんの花」の第2、第3シリーズに挟まれて放送されている本作は宇津井健が初めてホームドラマに挑んだ作品である。宇津井健は当時40歳だが、この前年まで「ザ・ガードマン」に七年にわたり出演しており、やはりアクションのイメージ。しかも、この時期は「シークレット部隊」、その後番組「燃える兄弟」も並行して放送されており、かけもち出演だったと思われる。
大ざっぱな内容は、宇津井が義理の妹である三姉妹(小川真由美、梓英子、吉沢京子)の面倒を見るというような話らしい。他の出演者は寺田農、杉浦直樹、細川俊之、森本レオ、天田俊明そして志村喬などである。
もう一つ気になるのが、その第八弾となる「七色とんがらし」(76年)。こちらは宇津井以上にアクションのイメージが強いよいうよりアクションしかイメージのない千葉真一が初のホームドラマに挑戦している。千葉は当時37歳であり、40近くなるとホームドラマをやってみたくなるのだろうか。
千葉の妻役が倍賞美津子、弟役が原田大二郎と星正人、妹役が加賀まりことアクションドラマとしか思えない配役である。原田はホームドラマもやっていたが、当時は「Gメン75」で殉職したばかりだったし、星は前年に映画デビューし、この時期は「刑事くん」で2代目主人公に抜擢され、本作と並行して出演していた。この後、「大都会partⅡ」「ドーベルマン刑事」と刑事役が続く。
他にもやはりアクション一筋という感じだった志穂美悦子、ベテラン西村晃と、千葉と併せて「ザ・ボディガード」(74年)の面子が揃った。本作の直前まで、千葉と志穂美はこの「ボディガード」から「ザ・ゴリラ7」「燃える捜査網」「大非常線」といったアクションドラマに続けて出演していた。
そして、片岡千恵蔵御大。当時73歳だが、やはりホームドラマへの出演というのは珍しいと思われる。千葉と千恵蔵、志穂美が並ぶと、やはり東映のアクション映画のイメージだし、ここまでの出演者の名前だけ見て、ホームドラマをイメージする人はいないだろう。
しかし、タイトルからはホームドラマしか想像できないので、よくできたタイトルといえるかもしれない。もちろん、松山英太郎、大坂志郎、春川ますみといったこの枠常連の面々も出ている。関係ないが、あだち充のマンガは「虹色とうがらし」である。
だいこんの花
ナショナルゴールデン劇場の続きである。「フルーツ・シリーズ」とくれば「野菜シリーズ」である。タイトルに野菜が入ると妙にホームドラマっぽく感じるのは、このシリーズのせい(おかげ)かもしれない。とはいうものの、子供のころ楽しみはテレビだけという感じだったにもかかわらず、ホームドラマといわれるジャンルは、ほとんど見ていなかったことに改めて気付いた。おそらく、「フルーツシリーズ」もだが、この「野菜シリーズ」も一度たりとも見たことがない気がする。
さて、その第1作となったのが「だいこんの花」(70年)である。この時は全10回と短く、次作まで丸一年空いているのでシリーズ化の予定はなかったのかも。
しかし、第2作「新・だいこんの花」(72年)が半年間放送され人気を呼んだこともあり、以降77年まで五年間途切れなく野菜シリーズが続くことになる。
「だいこんの花」も第5シリーズまで制作され、全放送回数は128話に及ぶ。主演は竹脇無我(永山誠役)と森繁久弥(永山忠臣役)が演じる親子で、要するに嫁取り物語なのだが、各シリーズに連続性はないようだ。つまり、シリーズ最終回までには竹脇は結婚するが、新作ではリセットされ、独身に戻っており(離婚したわけではない)、また新たに結婚するのである。二人以外のキャラクターも毎シリーズ、同じ役名で登場するので視聴者は戸惑ったかもしれない。
ちなみに嫁となるのは、第1、第3シリーズが川口晶、第2シリーズが関根恵子(現・高橋惠子)、第4、第5シリーズがいしだあゆみである。川口は間が空いたにもかかわらず同じ役名(トミ子)で登場している。関根は当時17歳でその恋人役だったのである。この直後、「太陽にほえろ」のレギュラーとなるが、まだ10代だったとは今考えると驚きである。プロデューサー逸見稔の著書で、川口晶、関根恵子は花嫁候補で、最終的には第3シリーズから登場にいしだあゆみと結婚したと書かれているが、これは正しくないようだ。
他の出演者だが、大坂志郎は全シリーズに登場。その娘役で武原英子が第3シリーズまで出演。第3シリーズより長谷川哲夫と真屋順子が竹脇の兄夫婦として、金子信雄と入川保則も第3から第5まで登場している。
川崎敬三と大原麗子は第2のみ、菅原謙次は第3のみ、デン助こと大宮敏充、三ッ木清隆、松本留美は第4のみ、志村喬、久我美子、榊原郁恵、ウルトラマンレオ真夏竜は第5のみ出演しているようだ。第4に登場する松本留美は竹脇と破局するという役らしいが、松本は「必殺仕掛人」で林与一演じる西村左内の妻役で出演していた。左内役は当初竹脇にオファーが出されていた役で竹脇が断らなければ、ここで松本と夫婦役を演じていたことになったのである。
脚本は第3シリーズ以降は向田邦子が一人で書いている。
さて、その第1作となったのが「だいこんの花」(70年)である。この時は全10回と短く、次作まで丸一年空いているのでシリーズ化の予定はなかったのかも。
しかし、第2作「新・だいこんの花」(72年)が半年間放送され人気を呼んだこともあり、以降77年まで五年間途切れなく野菜シリーズが続くことになる。
「だいこんの花」も第5シリーズまで制作され、全放送回数は128話に及ぶ。主演は竹脇無我(永山誠役)と森繁久弥(永山忠臣役)が演じる親子で、要するに嫁取り物語なのだが、各シリーズに連続性はないようだ。つまり、シリーズ最終回までには竹脇は結婚するが、新作ではリセットされ、独身に戻っており(離婚したわけではない)、また新たに結婚するのである。二人以外のキャラクターも毎シリーズ、同じ役名で登場するので視聴者は戸惑ったかもしれない。
ちなみに嫁となるのは、第1、第3シリーズが川口晶、第2シリーズが関根恵子(現・高橋惠子)、第4、第5シリーズがいしだあゆみである。川口は間が空いたにもかかわらず同じ役名(トミ子)で登場している。関根は当時17歳でその恋人役だったのである。この直後、「太陽にほえろ」のレギュラーとなるが、まだ10代だったとは今考えると驚きである。プロデューサー逸見稔の著書で、川口晶、関根恵子は花嫁候補で、最終的には第3シリーズから登場にいしだあゆみと結婚したと書かれているが、これは正しくないようだ。
他の出演者だが、大坂志郎は全シリーズに登場。その娘役で武原英子が第3シリーズまで出演。第3シリーズより長谷川哲夫と真屋順子が竹脇の兄夫婦として、金子信雄と入川保則も第3から第5まで登場している。
川崎敬三と大原麗子は第2のみ、菅原謙次は第3のみ、デン助こと大宮敏充、三ッ木清隆、松本留美は第4のみ、志村喬、久我美子、榊原郁恵、ウルトラマンレオ真夏竜は第5のみ出演しているようだ。第4に登場する松本留美は竹脇と破局するという役らしいが、松本は「必殺仕掛人」で林与一演じる西村左内の妻役で出演していた。左内役は当初竹脇にオファーが出されていた役で竹脇が断らなければ、ここで松本と夫婦役を演じていたことになったのである。
脚本は第3シリーズ以降は向田邦子が一人で書いている。