お宝映画・番組私的見聞録 -133ページ目

フルーツ・シリーズ その2

前回の続きである。「ナショナルゴールデン劇場」のフルーツ・シリーズ第5弾となるのは「水密桃は青かった」(69年)全6回。この作品は、忘れられているのかプロデューサー逸見稔の著書では一言も触れられていなかった。主演は後に「どてらい男」で活躍する梓英子で、共演は川崎敬三、野添ひとみ、益田喜頓など。主題歌として由紀さおりの「青いスキャット」が使われたという。由紀が大ヒットする「夜明けのスキャット」でデビューしたのは、本作放送のわずか2ヶ月前であり、短期間での抜擢であることがわかる。ちなみに、シングル2作目は「天使のスキャット」でこの「青いスキャット」はシングルでは発売されていないようである(数年後LPに収録)。
第6弾は「レモンスカッシュ4対4」(69年)全8回。タイトルからも予想できるが「フルーツポンチ3対3」と同様に、男4人兄弟の一家と女4人姉妹の一家が登場する。違うのは、父と4人姉妹、母と4人兄弟という構成である。しかし、その父母を演じるのは「フルーツポンチ」と同じ大坂志郎と高峰三枝子である。
主演となるのは次女役の浜美枝。逸見は浜のテレビデビューと書いているが、浜は67年ごろからテレビには出演しており、すでに主演作も経験済みである。4人姉妹の三女役は榊原るみのようだが、残りは確定できないが出演者リストから長女が黒柳徹子、四女が松原麻里だと思われる。松原は「飛び出せ青春」の女生徒など青春ドラマによく顔を見せていた。
男兄弟側は、長男が川崎敬三、次男が山本紀彦、そして三男がこれがデビュー作の岡田裕介である。ちなみに四男は不明だ。
岡田裕介は当時、慶大の二年生。京都のクラブで逸見が、石坂浩二と見間違えたのがきっかけでスカウトされた。確かに当時の岡田はパッと見は石坂そっくりであった。同じ慶大だし(年は8歳違うが)。しかも、逸見とは仕事上で付き合いのあった岡田茂(当時、東映常務で後に社長)の息子で、京都には夏休みで来ていたという偶然が重なってのことであった。岡田は70年代後半からは役者よりもプロデューサー業に力を入れるようになり、東映に入社するのは88年のこと。父の後を継ぎ現在は東映の社長である。
第7弾は時代劇だが「亭主の好きな柿8年」(70年)全8回。主演は林美智子と山口崇。共演は石立鉄男、小林千登勢、北あけみ、森川信など。
フルーツシリーズと言われるのは以上で、以降は野菜シリーズへとつながっていく。

フルーツ・シリーズ

「ナショナルゴールデン劇場」には、タイトルに果物の名前の入った「フルーツ・シリーズ」と言われるジャンルがある。
この枠は時代劇から現代劇、コメディからシリアスと広範囲にテーマを選びすぎて固定したイメージがなかったため、ひとつのコンセプトのもとにドラマ作りを始めたのが、フルーツ・シリーズである。
その第1弾は、「さくらんぼ」(67年)全8回。主演はテレビ初出演となる若大将シリーズのヒロインでお馴染み星由里子。この頃になると、映画会社もテレビ制作に参入しており、銀幕スターをテレビに出し易い状況にあった。他の出演者は笠智衆、中村敦夫、石立鉄男、山口崇、河内桃子、柏木由紀子、そしてやはり若大将シリーズから田中邦衛など。
第2弾が「レモンの涙」(68年)全5回。主演は松原智恵子で、共演は中村竹弥、三宅邦子、川崎敬三、黒柳徹子、山口崇、津坂匡章(秋野太作)などだが、テレビドラマデータベースには高峰三枝子、森雅之の名も挙がっている。
第3弾が「もも・くり三年」(68年)全6回。嫁姑の対立ドラマ。主演は新珠三千代で、共演は川崎敬三、長岡輝子、あおい輝彦、ジュディ・オングなど。姑役の長岡輝子は10年に亡くなったが、なんと102歳であった。
第4弾が「フルーツポンチ3対3」(68年)全7回。このドラマは以前ここで触れたことがあったと思うが、母親(高峰三枝子)と娘三人(弓恵子、星由里子、吉沢京子)の女四人家族、父親(大坂志郎)と息子三人(川崎敬三、山口崇、山本紀彦)の男四人家族があり、この母と父が結婚し、三対三の義理の兄弟姉妹が誕生するという設定のコメディ。吉沢京子の初テレビレギュラー作品(同時期に杉良太郎の「喧嘩太郎」にも出演していたが)である。主演は次女の星由里子である。
ちなみに、この10年後にこの枠で放送された「敵か?味方か3対3」(78年)は全く同じシチュエーションのドラマで、脚本も同じ松木ひろしなので、リメイク作品といえるだろう。父親役は「フルーツポンチ」と同じ大坂志郎で、その息子三人は山城新伍、三浦友和、野上祐二画演じた。母親は森光子、その娘三人は松原智恵子、水沢アキ、薬師丸ひろ子が演じた。
薬師丸は「野性の証明」で有名になったが、正式なデビューはこちらが先で、本名の博子名義で出演している唯一の作品である。それにしても、松原(当時33歳)、薬師丸(当時14歳)と実年齢では非常に開きのある姉妹である。男側も山城(当時40歳)、三浦(当時26歳)と開きがあり、野上祐二は資料もなく正確な年齢は不明だがさらに若いはずである。
野上は不思議とよく覚えているのだが、初めてみたのは「時間ですよ・昭和元年」(74年)で、浅田美代子が憧れている学生の役だったと思う。野上はこの年に「危険な青春」というレコードも出している。80年代に入ると、ひらがなの「にっかつ」での活躍が中心となっていたようだが、「特捜最前線」などにもゲスト出演している。
例よって話がそれたので、次回へ続く。

戦国太平記 真田幸村

「中村錦之助ドラマ集」から1カ月後、今度は「ナショナル劇場」枠でスタートしたのが「戦国太平記 真田幸村」(66~67年)である。民放初の一年間大河ドラマで、やはり初の1000万ドラマともいわれた豪華時代劇である。以前、このブログでも取り上げたと思うが今回改めて書いてみたい。
主演の真田幸村には中村錦之助(萬屋錦之介)で、幸村といえば真田十勇士。その十勇士を演じるのが松山英太郎(猿飛佐助)、日下武史(霧隠才蔵)、大前均(三好晴海入道)、尾形伸之介(三好伊佐入道)、新田昌玄(筧十蔵)、長谷川哲夫(海野六郎)、柴田侊彦(穴山小助)、清水紘治(望月六郎)、石立鉄男(根津甚八)、田中邦衛(由利鎌之助)というものである。
石立(当時24歳)、柴田(当時23歳)、清水(当時22歳)は、まだ売出し中の若手という感じである。松山や大前は役柄にぴったりなイメージはあるが、日下は当時30代とはいえ、なんか才蔵役は想像しにくい。意外なところでは尾形伸之介。錦之助の専属殺陣師というイメージが強いが、役者としても多くの作品に出演しているのである。
他の主なキャストだが、中村竹弥(真田昌幸)、東野英治郎(豊臣秀吉)、17代中村勘三郎(徳川家康)、尾上九朗右衛門(徳川秀忠)、太田博之(豊臣秀頼)、恵とも子(千姫)、淡島千景(淀の方)、神山繁(石田三成)、木村功(木村重成)、志村喬(大谷刑部)というようなもの。そして、テレビ初登場となる浅丘ルリ子は幸村の恋人というオリジナルキャラを演じている。松下電器のプロデューサー逸見稔はテレビ初という人を結構担ぎだしているのである。
逸見は娯楽時代劇を狙っていたのだが、出来上がったものは暗くシリアスものだったという。演出の大山勝美も「力が入りすぎて大衆娯楽劇になりえなかった」と語っている。大山と脚本の松山善三が対立し、松山は降板。早坂暁に交代となった。視聴率は目標の20%に届かず、大山は2年半もの間干されることになったという。

中村錦之助ドラマ集

突然話は変わり、久しぶりにテレビの方に目を向けてみたいと思う。
「水戸黄門」「大岡越前」でお馴染みなのが「ナショナル劇場」。今は「パナソニックドラマシアター」というようだが、この枠のスタートは56年と一社提供の枠では最も歴史があるらしい。
「ナショナル劇場」もスタート時は「ナショナルゴールデン・アワー」といい、第1作が宮城まり子主演の「てんてん娘」であった。これとは別に「ナショナルゴールデン劇場」(66~81年)という枠がかつて存在しておりややこしいのだが、TBS系で月曜20時(当初は20時30分)から放送しているのが「ナショナル劇場」で、木曜21時(当初は22時)からNET(テレビ朝日)系で放送されていたのが「ナショナルゴールデン劇場」である。ちなみに、先月に取り上げた「青年の樹」も「ナショナル劇場」枠のドラマである。
これら両方のプロデューサーを務めていたのが逸見稔。後に独立して「オフィス・ヘンミ」を作るが、当時は松下電器宣伝部の社員であった。この人が20年前に「黄門様はテレビ好き」という著書を出しおり、そこに「水戸黄門」中心ではあるが、手がけた番組の解説などが書かれており、ここから少し拾ってみたいと思う。
「ナショナルゴールデン劇場」の方で放送された中には「中村錦之助ドラマ集」(66年)というのがある。わずか4回だが、一回完結方式で、中村錦之助(萬屋錦之介)が4つの違う役を演じるというもの。
当時は東映時代劇も衰退し、錦之助自身もテレビへの進出を図り始めていたところであった。逸見によれば、初のテレビ主演ということもあり錦之助も非常に力を入れていたという。またこの年には東映の労働争議に巻き込まれ、委員長だった錦之助は東映を退社している。
「中村錦之助ドラマ集」で放送された番組は次のとおりである。
「暗闇の丑松」…原作は長谷川伸で、共演は渡辺美佐子、渡辺文雄、佐藤慶、日下武史など。
「伊勢伊勢守異聞」…原作は伊丹万作で、共演は佐々木愛、伊藤雄之助、井上孝雄、山茶花究など。
「生きていた石松」…共演は春川ますみ、ジェリー伊藤、水島道太郎、沢本忠雄など。
「いのち」…原作は山本周五郎「月の松山」で、共演は長谷川稀世、栗塚旭、志村喬、浜村純、戸浦六宏など。

三輪彰と若松孝二

64年9月に起きた高須賀忍(当時36歳)と赤尾関三蔵(当時33歳)の撮影中の死亡事故については、何度かここでも書いた。これは「誤審」という映画の撮影中の出来事で、監督は昨年亡くなった若松孝二であった。
新東宝が潰れた翌年である62年、元新東宝の社長である大蔵貢が大蔵映画を作り、その第1作として70ミリの大作「太平洋戦争とひめゆり部隊」が制作されたが、若松はこの作品に助監督として参加していた。監督は大蔵に呼ばれた新東宝出身の小森白だったが、大蔵が現場に現れては指示を出すのに若松は憤慨したという。他の助監督連中を引き連れて辞めてやろうと企てたらしいが、結局若松はクビになってしまう。
この作品だが、主演は南原宏治だったが、予定されていたのは仲代達矢だったという。キャストはとにかく豪華で、嵐寛寿郎、山村聰、柳永二郎、岡譲司、龍崎一郎、上田吉二郎、伊豆肇といった面々に御木本伸介、松本朝夫といった旧新東宝勢の名も見える。姫ゆり部隊の中に嘉手納清美の名前もある。しかし、興行的には失敗し、大蔵は以降二度と一般大作を作ることはなかった。
三輪彰は新東宝倒産後、すぐにテレビ移ったと前回書いたが、実はこの頃、第七グループで数本のピンク映画も撮っている。その第1作だった「熱いうめき」(63年)がヒットしたのだが、その助監督だったのが若松孝二だったという。しかし、若松はここでも途中でいなくなってしまったらしい。翌年、若松は「甘い罠」というピンク映画で監督デビューを果たすが、三輪の推測では「熱いうめき」なんかピンク映画じゃないと思ったからいなくなったんじゃないかと語っている。
このように三輪と若松は面識もあったのだが、三輪は何故か冒頭の死亡事故の監督が若松だったことを知らなかったようである。
若松の死の直後に、「俺は手を汚す」という彼の著書が出たが、これは82年に出た本の再販で、この事件のことにも触れられていた。
役者の名前は書かれていなかったが、手錠で繋がれた二人が川を渡るシーン。流れが速かったので、手錠はかけなくても良いと言ったらしいのだが、二人は手錠をかけたという。スタートすると突然一人が倒れたという(高須賀忍と思われる)。後で調べたら心臓マヒだったらしい。もう一人もダメだと声を上げたので、若松を含めスタッフが助けに走ったのだが、若松自身も川に流されて気を失ったという。自分は浅瀬に流れつき助かったが、二人を見つけることは出来ず、結局二人の遺体が発見されたのは東京オリンピックの開会式の日であった。
さすがに若松もショックを受け、何もする気がなくなったというが、遺族(どちらかの母親)の言葉で立ち直り、また映画を撮る気になったという。
詳しくは、その本を読んでもらえればよいと思うが、事件について詳しく語られているものを初めて見た気がする。

監督・三輪彰

今回は趣向を変えて監督中心の話題である。緑魔子を世に出した渡辺祐介監督は新東宝の出身。そこで、親しくしていた監督仲間の一人が三輪彰である。
同期が石井輝男や井上梅次で、監督デビュー作となったシリーズ第七作「スーパージャイアンツ・宇宙怪人出現」(58年)は、石井の推薦だったという。実はこれ以前に「誰が撮っても一緒だから」と石井に言われ、会社に内緒で代わりに撮った本シリーズの作品もあるらしいのだが、何作目かは忘れたという。石井も三輪もこのシリーズについては特に語ることもないらしい。
以前、ここで高宮敬二の時に取り上げた「海豹の王」(59年)も三輪の作品である。最近CSで放送された「0線の女狼群」(60年)では、三輪はアクションは苦手なので、ある格闘シーンを悪役で出演していた丹波哲郎に「このシーン演出してくれないか」と頼んだところ、丹波は喜んで引き受けたという。ちなみに、この頃も丹波はセリフを憶えてこなかったそうだ。
新東宝での最後の作品は「胎動記・私たちは天使じゃない」(61年)だが、脚本は新藤兼人であった。三輪の感覚では新藤の脚本は先がわかってつまらないものであるらしく、直すように要求したというが、結局あまり直してはくれなかったようだ。そんなこともあってか、新藤のリアリズムにみちた作品は受け付けないという。
三輪は新東宝倒産後はすぐにTBSに呼ばれテレビドラマの監督となっている。
月~金帯の昼メロである「昨日の雲は帰ってこない」(63年)では、新東宝で脇役だった沖竜次を起用している。このドラマで沖は高須賀という役をやっていたのだが、このときTBSから名前を変えろといわれ高須賀忍になったのだという。
ちなみに主演は加藤勢津子。長門裕之、津川雅彦の実妹で、60年代は女優として活躍していたのである。他に六本木真、千秋実ならぬ千秋みつるなど。千秋みつるは、宝塚出身の女優である。調べると50~60年代に結構多くの映画に出演していたのだが、個人的にはつい最近まで知らない存在であった。
「夜の配当」(64年)という全4回のドラマでは、高須賀を主役に起用しているようである(未確認だが)。
高須賀の遺作となってしまうのが「柔道一代」(62~64年)だが、途中で改名したのか、改名してから登場したのかは不明である。彼の死の直前に三輪は国際放映で彼とバッタリあっているという。高須賀は「これから掛け持ちをするんですよ。結婚したばかりなので稼がなきゃいけないんです」というので、「掛け持ちはしないほうがいいんじゃないか」というような会話をしたのが最後だったようである。

緑魔子伝説 その3

前2回は緑魔子のインタビューをもとに書いたが、今回はそこでは触れられていない部分について。過去のここで取り上げたものもある。
緑魔子は映画と並行して、テレビの方へも64年あたりから顔を出し始めている。こちらの方でも、演出・監督を渡辺祐介が務めているケースが多い。
渥美清主演の「泣いてたまるか」(66年)の「先輩後輩」も渡辺の演出ということもあり緑も出演している。この回は藤山寛美が特別出演。また渡辺が新東宝出身ということもあってか天知茂、三原葉子も登場している。しかし、何といっても石橋蓮司も出演しており、テレビではこれが初共演かもしれない。
「マコ!愛してるゥ」(67年)は、タイトル通り彼女が主演である。おそらく初の連ドラ主演で、これも渡辺が監督を務めている。彼女は幽霊であるという設定で、その亭主(幽霊ではない)が沢本忠雄、あの世の監視員がE.H.エリックといったトリオが中心のコメディである。他に弓恵子、世志凡太、バーブ佐竹など。緑魔子はバーブ佐竹とともに主題歌も歌っている。彼女はこの頃、けっこうレコードも出しているのである。この番組は放送期間は半年だが、野球中継で潰れることも多く全何回かははっきりしない。
有名なところでは「プレイガール」(69~74年)。彼女はそのスタートメンバーの一人ではあったが、忙しかったのか第20話を最後に姿を消している。出演回数は全部で11回で、あまり活躍することなく降板したようである。
映画の方は東映専属であったが、68年には解消され東宝、大映、松竹と各社に出演するようになっている。
大ヒット曲の映画化「帰ってきたヨッパライ」(68年)では、歌詞にある「ネエちゃんはきれいだ」のネエちゃんで出演。ちなみに監督は大島渚だ。
何といっても強烈なのは「盲獣」(68年)であろう。江戸川乱歩お得意の倒錯愛の世界(原作とはかなり違うようだが)。出演者は緑魔子、船越英二、千石規子の3人だけ。緑魔子の肢体が堪能できる(内容がグロいので堪能できないかもしれないが)。ちなみに母子役である千石は当時47歳、船越は46歳と1つしか違わなかったりする。
「銭ゲバ」(70年)は、ジョージ秋山の人気マンガの映画化。ここで緑は、唐十郎演じる風太郎に結局は殺される令嬢の役である。
やはり小悪魔的な存在として、同い年である加賀まりことは当時は人気を二分していた。でも「脱いだら凄い」のは緑の方であろう。

緑魔子伝説 その2

前回の続きである。当時の緑魔子の勢いはすごく、64~66年の3年間だけで、25本もの作品に出演している(いずれも東映)。東映との契約は専属で一年契約だが、本数契約だったという。
デビューの「二匹の牝犬」の時はギャラが5万円だったのが、2本目では15万円になっていたという。やはり、渡辺祐介監督作品が多く、「牝」(64年)という作品などは成人指定がついていた。この作品ではジェリー藤尾や佐々木功、50年代には松竹のスターだった菅佐原英一などと共演している。
「ひも」「いろ」「かも」(いずれも65年)といった梅宮辰夫主演の「夜の青春シリーズ」にも出演。あまり他の女優と付き合いはなかったというが、このシリーズで共演した大原麗子とは割合親しくしていたという。梅宮は共演者に手を出していたようなイメージもあるが、緑とはプライベートな付き合いは一切なく、共演の女優にコナをかけるような人ではなかったとの印象を持っているようだ。
「悪魔のようなすてきな奴」(65年)の主演である高城丈二は役柄と違って大人しくて暗い人だったという。
プライベートでも仲良くしていたのは、やはり石橋蓮司。正確な出会いははっきりしないが、共演した「非行少女ヨーコ」(66年)のころは、谷隼人も含めてよく遊んでいたようだ。ご存知のとおり石橋蓮司とは結婚することになるのだが、25年くらい前から別居中のようである。
「あばずれ」(66年)では、ここでも話題にした山本豊三が相手役。ベテラン志村喬も出演している。タイトルと違いあばずれでも何でもないらしい。シナリオ時のタイトルは「白い少女のいる街」であった。
演劇に興味を持つきっかけとなったのは「悪童」(66年)で共演した清水紘治に「芝居をやってみないか」と誘われたのがきっかけだという。唐十郎と出会ったのはテレビドラマで円谷プロ制作「恐怖劇場アンバランス」の第4話「仮面の墓場」。制作は69年頃だが、放送されたのは73年という作品である。唐は演出ではなく俳優として出演している。ちなみに蓮司は第3話に出演している。
石橋蓮司は72年に蜷川幸雄らと劇団を作っていたが、76年に緑魔子らと「劇団第七病棟」を立ち上げ、唐の作品なども上演している。
個人的に舞台・演劇の世界はまったく無知なのだが、30年以上たった現在も「第七病棟」は続いているようだ。

緑魔子伝説

今回は緑魔子である。例によって、「映画論叢」のインタビューを参考にしている。
そこに至るまでの過程は不明だが、最初はNHK演技研究所に在籍。最初は60人いるが、最終的には20人しか残れないというシステムだったという。そこで落とされたわけではないが、途中で辞めてしまったという。東宝ニューフェースに合格したからである。緑が後から聞いた話では、NHKでは彼女を気に入っていたディレクターがいたらしいが、彼女は残しておくようにと言いながら海外出張に行ってしまい、そのタイミングでそうとは知らない緑は辞めてしまったとのこと。冨士真奈美のデビュー時のように、NHK専属の緑魔子というのが有り得たかもしれないのだが、想像しにくいものがある。
東宝ニューフェースとしての同期は黒部進だったというので、62年ということになるようだ。彼女は18歳のときである。彼女が配属されたのは、できたばかりのテレビ部だった。しかし、最初の一年は芸術座の大部屋に修行に行かされたという。
当時はまだ本名の小島良子で活動していたが、益田喜頓に芸能人っぽくないからと「島蓉子」という名をつけてもらったという。しかし、キャスティング表に名前の載るような役はその後もこなかったので、記録には残っていないという。
そんなある日、新宿でカメラマンに「モデルにならないか」と声をかけられ、写真を撮ってもらったという。自分でも気に入りその一枚をテレビ局への売り込みように提出した。それがNET(現テレビ朝日)に流れて行き、たまたま目にしたのが映画監督の渡辺祐介であった。
渡辺は東映作品「二匹の牝犬」(64年)で、主演である小川真由美の妹役を演じる新人を探していたのだった。「この娘だ」と直ぐに渡辺は彼女を東映の撮影所の呼び、カメラテストをやり、その場で決まったという。問題は当時は五社協定もあり、彼女が東宝の所属だったという点だったが、東宝側は「活躍してないから」とあっさり譲ったという。その後、彼女の活躍を見ると東宝に見る目がなかったということになるが、「健全」なイメージの東宝向きのキャラではなかったとも思う。
「緑魔子」という芸名も渡辺による命名であった。やはり「魔性を持った女」というイメージからのようである。
一般的には、渡辺監督(東映)にスカウトされたということになっているが、実際は上記のような過程があったのである。

久保明を辿る その2

前回の続きである。久保明が東宝特撮に出演するようになるのは「妖星ゴラス」(62年)からである。それまでは文芸作品中心だったので、やはり最初は少し抵抗感のようなものはあったという。次が「マタンゴ」(63年)で、以降「怪獣大戦争」(65年)、「怪獣総進撃」(68年)などが続き、子どもの頃これらを見ているせいか、個人的にも久保明といえば東宝特撮俳優の一人という印象が強いのは仕方ないであろう。
久保個人は、これらのSF作品に出演したおかげで未だに世界各国からファンレターをもらったりするという。外国人からは今でも「マタンゴに出てましたね」などと言われるという。
しかし、久保は70年代に入るとぱったりとスクリーンからは姿を消してしまう。これは、久保が東宝演劇部に移り、舞台中心の活動にシフトしたからである。
数は多いとはいえないが、テレビの方ににもゲストで顔を出しているのだが、個人的には見かけた記憶がほとんどない。「傷だらけの天使」や「二人の事件簿」(75年)などにもゲスト出演しており、見たと思うんだが思い浮かばない。
「あばれはっちゃく」シリーズとえば、実弟・山内賢が全て先生役で出演していたが、その第二弾「男!あばれはっちゃく」にどんな役かは不明だが、久保がゲスト出演したことがあるようである。珍しい兄弟共演が実現していたことになる。
話は前後するが、60年代のテレビ出演について調べてみると、「サラリーマン義経くん奮戦記」(64年)では、主役の義経を演じている。全20回のドラマで、弁慶役が児玉清。他に加東大介、砂川啓介、清川虹子、中真千子、北あけみ、久保とは「マタンゴ」で共演した八代美紀、小泉博なども出演していたようである。このドラマがきっかけで結婚したのが児玉清と北川町子。北川町子が京都ロケに一人ではいけないから連れていてやってくれと児玉が頼まれたのがきっかけだったという。この4ヵ月後には結婚し、北川は引退となっている。当時は、北川のほうが役者としてのランクは上だったという。
翌65年の映画「戦場にながれる歌」でも、久保と児玉はメインキャストで出演。特に映画では役に恵めれていなかった児玉には大役だったといえる。
後半、児玉清の話になってしまったが、現在の久保明は日本映画俳優協会の理事だそうである。