史記夏本紀:太康地理志云「樂浪遂城縣有碣石山,長城所起」

楽浪郡遂城県には碣石山があるが万里の長城が始まる所だ。(注:碣石山は 始皇帝 も登った有名な山で、記述に間違いはないだろう。)

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「楽浪郡に碣石山(けつせきさん)があって、しかもそこが万里の長城の起こった場所であるなら、その場所は平壌ではないだろう?」これが暁氏の主張ですね。

上記の暁氏の引用した箇所は、『史記』の本文ではなく注釈文です。その注釈に使用された「太康地理志」とは、清代の歴史家・畢沅(ひつげん・1730~1797年)の撰による『晉太康三年地記』のようですね

これとは別に『晋書』には、次のような記事も存在しています。

樂浪郡は漢置く。〈中略〉朝鮮は、箕子ずる屯有(とんゆう)・渾彌(こんび)・遂城。秦、築く長城の起こる所、鏤方(ろうほう)・駟望(しぼう)。(『晋書』地理志・楽浪郡)

この『晋書』の一節を見る限り「朝鮮にも長城が築かれていた」、そのことが分かりますね。またこの『晋書』も晉太康三年地記』と同様に、地名を「遂城」としています。ところが、「遂城県」とは本来、「現在の保定市徐水県遂城鎮に相当する」とされていて、「楽浪郡の遂城県」とは別物のようです。そこで、『漢書』地理誌を調べてみると、およそ次のようですね。

楽浪郡、〈中略〉含資,帶水西のかた帶方りて。黏蟬,遂成,增地,・・。

このように、「遂城」ではなく「遂成」と明記されています。『晋書』や晉太康三年地記』の情報が、いかにいい加減なものかということが、これで証明されているようなものですね。

さて、その真偽のほどはともかくも、晉太康三年地記』の文章と『晋書』地理志の文章は「長城の始まる辺りが楽浪郡である」ことに関しては一致を見ています。ところが「碣石山云々」に関して、『晋書』地理志は全く触れていません。

そこで、「碣石(カツセキまたはケツセキ)」の場所を説明するために『史記』夏本紀の注記に、晉太康三年地記が引用されたようです。その注記の対象となった箇所が、次の一節です。

『史記』夏本紀:鳥夷(ちょうい)は皮服(ひふく)す。右(西)に碣石みて

『尚書』禹貢・冀州:鳥夷皮服。右碣石(はさ)みて(黄河)に

冀州:山西省・河北省および河南省の一部

 この二書の内容は、似てはいますが非なるものですね。方や「海」方や「河」ですからね。

先ずは『史記』の方ですが、これに出現している海は一体どこの海なのでしょうか。それを明らかにするには、海に入る前の鳥夷の出発地がポイントになりますが、残念なことにそれは不明ですね。

それでは、次の『尚書』の記録から「楽浪郡遂城県にあるとされる碣石山」の場所は確定できるのでしょうか。「西側に碣石山を眺めながら黄河に入っていった」ということですから、碣石山は河北省の秦皇島市、あるいは山海関あたりにあったことになりますね。

「そんなバカな!その地域は周代においては燕の地であり、秦、漢時代には遼西郡に属していたじゃないか!それが、なんで楽浪郡!?????」o(^-^)o