また「東に碣石を臨みて、以て滄海を観る」で始まる、魏の太祖である曹操による「碣石篇・観滄海」という詩に出現している碣石山は、魯北平原の中に聳え立つ山で第四紀の火山の跡として知られる名山でもありますね。その場所は山東省浜州市に位置する無棣県(むていけん)です。『尚書』の碣石山とは別物ですね。となれば、「楽浪郡は無棣碣石山の付近(山東省浜州市)にあったのか?」なんて話にもなってきます。

では「そもそも碣石山とはなんぞや」ですね。

碣(カツ・ケツ):行く手をはばむように高く立ちはだかる岩石。いしぶみ(高い石碑)。

そうすると、「禹貢」の時代の碣石山は「高い石碑」とはなりませんね。まだ漢字が生まれていなかったのですから。

それでは秦の始皇帝が登った碣石山の場所は?

三十二年,始皇碣石(ゆ)き・・・碣石門・・始皇辺を,上郡従(よ)り。(『史記』始皇本紀  上郡:郡治は膚施(ふし)~陝西省延安

(現代語訳)三十二年(前215年),始皇碣石山に行幸し、・・・また碣石門に碑文をんだ。・・・始皇は、辺を巡遊して,上郡から都の咸陽へった。  

始皇帝の御一行は碣石山を経て、そのあと北辺を巡ったとされている。やはりこの場合の碣石山は秦皇島市昌黎県あたりか。

ところが、碣石山に関する史料としては、何も『史記』や『尚書』の専売特許ではなくて、探せば次のように『資治通鑑』の記事などもあるのです。

. 壬午,詔左十二軍出鏤方,長岑、・・遼東、玄菟、扶餘、朝鮮、沃沮、樂浪等道,右十二軍出黏蟬、・・、臨屯、・・・肅慎、碣石、東暆、帶方、襄平等道,・・總集平壤・・・(『資治通鑑』卷第一百八十一煬皇帝上之下・大業8年の本文)

これは、隋の左十二軍十二軍が高麗を攻撃するために、琢郡(河北省涿州市)より出撃しここに羅列されている地域を攻撃しながら、敵の首都・平壌を目指す作戦をとったということですね。

ここに臨屯や東(とうい)、あるいは肅慎などと並んで、ズバリ碣石という地名が出現しています。どう見ても、「河北省の秦皇島市や山東省浜州市に位置する無棣県などとは無関係の地域にある碣石」と理解する以外になさそうですよ。

臨屯:かつての臨屯郡のあった地域。郡治は東(現在の韓国江原道江陵市)

肅慎:満州(中国東北地方およびロシア・沿海地方)に住んでいたとされるツングース系民族の国