衝迫(しょうはく)= 人の心や感覚をつき動かすこと (広辞苑より)
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東日本大震災から7年
を意識しながらこの本を読んでいましたが
大阪北部地震、西日本豪雨災害とも重なり
また一歩進み
(20)「阪神・淡路大震災の我が精神医学に対する衝迫について」
に入ります。(19)に引き続き
⑦阪神・淡路大震災が何であったか、それがどういう経験を我々に与えたか
が取り上げられています。
これが執筆されたのも1996年、6月で震災から1年後。
<概要>
阪神・淡路大震災で、初めて全国的な精神医学的キャンペーンが行われた。その日本における精神医療を、1950年代の状況から辿る。一般にある国や地域が近代の精神医療を受け入れる過程で、治療対象とされる疾患の種類に順序があると筆者はいう。どの段階に1995年当時の日本があったのか。その背景があって初めて可能となったキャンペーンには、一体どのような人々が関わったのか。その中で得られた知見、社会に与えたインパクト、将来へと繋がる展望が述べられている。
以下はまとめです。
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提起
阪神・淡路大震災において初めて全国的な精神医学的キャンペーンが行われたことは、今後の精神医学にいかなる衝迫を与えるであろうか。
歴史
1950年 精神病院の病床数が戦前の5万床に回復
1959年 伊勢湾台風被害 ←全国的キャンペーンは組むべくもなし
精神科医数:千を遠く出ず、ひょっとすると数百(全国)
※現在(1996)一万人前後
1966年〜1980年
病床数の一次関数的増加(1975年に25万床:1950年の5倍)が、
専門家養成の速度をはるかに上回る。
結果、大量の劣悪な精神医療を提供した。
ー非常に苦渋な20年ー
その時期を通過して、われわれは病院中心の精神医学から
診療所や保健所を含む、フットワークの軽い精神医療を
経験するようになっていた。(本文より)
1980年 国際的診断基準(ベトナム戦争を通過した米国精神医学者による)の導入
この「診断の黒船」がやって来ていなければ、われわれは外傷性の
精神障害という概念の受け入れに困難を覚えたであろう。
(本文より)
ある国や地域が近代の精神医療を受け入れる際に見られる
治療対象となる疾患の段階的順序
第一段階 一部の精神発達遅滞、てんかん、神経内科的疾患
第二段階 分裂病、躁鬱病
単なる疾病という理解を公衆が持つには辛抱強い啓蒙を必要とした。
第三段階 神経症、アルコール症、嗜癖、性格障害
周囲からはその個人の「心がけの悪さ」と見られやすいものだった。
心的外傷後の精神障害
個人が耐え忍ぶべきもの、個人の内面で処理されるべきものとされた。
第四段階 (将来のプログラム)老年性精神障害
その人の家族の倫理的な問題と見なされがち。
社会がこれに目をつぶり、個人的介護に任せて、
不運な患者と家族とに過大な負担を背負わせて済ませる
ことができないわけではない。そうなるかどうかは
社会と政治の問題でもある。(本文より)
阪神・淡路大震災で全国的精神科キャンペーンが実現した日本の要因
①震災時わが国の精神医療は、おおよそ第三段階への入り口まで成熟していた。
②1960年〜1980年の精神医療(主に分裂病)における苦渋の20年を過ごし、
病院中心を離れ、保健所、診療所などフットワークの軽い地域精神医療
を経験する医師たちがいた。
③②の医師たちが教育しつつある、1980年代以降の新しい問題意識を育む
研修医クラス、医員クラスの精神科医がいた。
④②の「地域社会精神医学」には精神科医会を介して、大学にかかわりのない
横のつながりがあり、全国各地を繋ぐキーパーソンが存在していた。
→震災後数日にネットワーキングが開始された。
被災地でのネットワーキングと活動の経験が与えたもの
(1)非常時という限定下であるが、精神科における一次予防
(精神医学でありえないとされてきた)が可能なことが明らかになった。
一次予防=「人付け」すなわち
「あなたは孤立していない」ことを実感させ体感させること
(2)将来の災害を多くの精神科医に実地に見てもらうことができた
ー到底対抗できないものではない、ことを知るー
(3)急性一過性の心的外傷では、治療のフィードバックが得られやすく
精神科医にもよい影響を与えた。
ー普段は治療のフィードバックに恵まれない精神科医が
何ごとかをなした達成感が得られたー
(4)全国の精神科医が同じ場所で、同じ目的のために連携して働く中で、
友情と尊敬が生まれた。
(5)精神科医、精神科ナース、心理士、ボランティアのカウンセラーが
普段のヒエラルキー抜きで、肩を並べて活動した。
(6)精神科が、一般市民に認知された。
(7)患者と精神科医とが、「体験を共にした者」となり、
同じ平面でお互いを気づかった。
展望と希望
以下本文より
われわれとしては、精神分裂病一つだけをとっても推定150万といわれる多数の患者に対する責任の荷を軽くするわけにはゆかない。しかし、われわれは、おそらく、この震災が第一、第二段階の疾病を軽んじることのないようにという前提であるが、第三段階に進む契機となりうる時期に到来したと考え、この契機を活かすようなインパクトをこの震災によって受けたとみなすことが建設的であろう。そうして、精神医学的キャンペーンにおいて生まれた新しい精神科医間の人間関係は、この新しい段階に対応する何かがあると私は期待したい。
わが市民社会において、被害を個人的なものに還元し、その範囲に閉じ込め、悲しみと怒りとを黙って耐え忍び、抑圧、乖離、否認すべきものであるという伝統的行為があったが、阪神・淡路大震災を経過することによって、これが劇的に変わり、被害者の感情はそれ自体が認知され、尊重されるべきであり、そのために声を挙げるべきであり、その声は聞かれるべきであって、その際に、精神科医たちはその一端を担う用意があるというふうになる希望があると思いたい。