言葉       川崎洋

 

演奏を聴いていなくても

人は

♪を耳の奥に蘇らせることができる

言葉にしなくても

1つの考えが

人の心にあるように

 

むしろ

言葉に記すと

世界はとたんに不確かになる

 

私の「青」

はあなたの「青」なのだろうか?

あなたの「真実」は

私の真実?         

               ー詩集『祝婚歌』

 

 

 

前回、『アリアドネからの糸』IIIの前半に入ったところで

冒頭のエッセイ(15)「赤と青と緑とヒト」

でちょっと寄り道してみたいと思います。

こんな風に寄り道したくなる要素がこの本はあちこちにあるのですよね。

 

色について中井さんは「あとがき」でこんな風に書いています。

 

私は小学生のある日、形はコミュニケートできるけれども色はコミュニケートできないことに気づいた。つまり、相手が「赤」というものは何であれ私の「赤」と思うよりしかたないのであった。さらに私の左眼と右眼とでは感じる色が少し違い、幼い時から右眼を使ったほうが赤っぽく見えることに気づいているけれども、どちらの色が「ほんとう」ともいえないということもわかった。この驚きは、自己と他者、主観と客観という問題が私の中に侵入した時期のしるしであろうけれども、以来、私には色に特別の因縁がある。これとは別に幼い時から文字に色が"ある”ということに気づいてしまい、「色合わせ」抜きでは文章が書けなくなった。精神科医になってからも病院の色彩管理には人一倍うるさかった。ヒトにとって色とは何かというのは私にとってかなりの謎である。

 

息子も小学5年生の頃、しきりに

 

「僕の見える青が、相手の見える青とは限らないんだ」

 

と言っていたのを思い出して

現在の息子に聞いてみました。すると目の前のマットを指差し

 

「このマットが僕はピンクに見えている。

 でもヒュッと魂が抜けて別の人の体に入ったら、

 それは僕で言うブルーで見えているのかもしれないってこと」

 

と説明してくれました。

私はそんな風に考えたことはありませんが、

ほぼ中井さんの言おうとしていることと同じようです。

それでついでに

 

「あなたは文字に色がついて見えたりする?」

 

(私はそうは見えない)と聞いてみると

 

「文字では見えないけれど、

 習字の太い文字の縁は虹色に見えるよ。

 たぶん病気だ」

 

これは初耳でした。病気ではないと思う。

 

「この本を書いた中井さんはね、

 本の文字、例えばアルファベットのAが赤に見えたりするんだって。

 単語になるとそれがまた一塊りで、

 また別のニュアンスの色がついて見えるらしい。

 詩人ランボーも文字に色がついて見えたと言われてるんだよ」

 (これは共感覚と呼ばれる一部の人に見られる知覚現象らしい)

 

と話すと

 

「それはあれじゃない?

 蝶の羽には実は色がついていないってやつ。

 あれは羽の表面構造で光の反射が変化して青に見えたりする、

 構造色なんだ」

 

と予想外の方向からかえってきました。

文字の形や文字の塊がスリットのような役割を果たして色として感知される?

面白い発想だなと思いました。

 

以前ネット上で、人によって「白と金」「青と黒」に見えるのが分かれる服の写真が話題になったことがありました。(→解説はこちら。夫と息子は青と黒、私は白と金の服に見えました。実際の服は青と黒。)これは無意識に周囲の光の影響を補正して見ようとする視覚の働き、錯覚が原因で、環境に惑わされず本来の色を見ようとする習性らしいのです。

 

色をどう感じているかは人それぞれ違うみたい。

さてこの後の(17)「記憶について」でも色についてこんな風に記述されています。

 

私の場合、ひらがな、カタカナ、漢字、ラテン文字には一字一字に色彩が伴っている。文字が複合して単語になれば、また新しく色が生じる。それぞれ弁別性があるような、非常に微妙な色彩である。この「色」が単語の記憶に参加しているらしい。

 

上記のひらがな、カタカナ、漢字、ラテン文字は筆者が10歳より前に覚えた言語。

一方、18歳で接したロシア語は皆黒ずんで見え、28歳で接した韓国語は無機的に白っぽいと書かれています。色がついているかどうかは、その言語を不自由せずに使えるかどうかとも連動しているようで、覚えた際に五感が開いていたかどうかなのかなと思わせます。

 

これを見ると、息子の構造色説では説明のつかない、脳内補正による錯覚とも違う、その言語に最初に接した時の五感、年齢がそこに関与していそうです。

 

私も子どもの頃、朝の光の中でまだ寝ていて、ひょっと布団の色が右眼、左眼で微妙に違って見えるのに気づいたことがありました。

 

物理的には光の波長によって確実に決まる色。しかしそれの認識となると、不可思議。なんだかグラグラしてきて迷路に入ったような気持ちになります。

 

関連してラマチャンドラン氏の「意識・クオリア・自己」の話も思い出したので

ここに置きます↓(面白いです)

 

 

さてさて、寄り道はこの辺にして道を戻り、

次回は(17)「記憶について」を見たいと思います。