返却レバー      木坂 涼

 

記憶が手元に寄せられているとき

それは 時の返却といえるのだろうか

 

終電が終わり

タクシーもまばらとなり

夜は深まる

 

やがて街は

たたずまいそのものとなる

 

人が姿を消してつくる空間 時間

そのとき 空気の手元に

記憶という記憶が寄せられているかのようだ

四つ角には

遠い月日の天蓋が降りてきている

 

夜が

その沈黙で返却レバーに手をかけるのか

 

風化の或る回路が

時の形を返してくる

 

時は 時を招き入れ そして

今に触れる

 

         詩集『陽のテーブルクロス』より

 

 

中井久夫著『アリアドネからの糸』を読んでいます。

 

前々回は、III の前半(15)(16)(17)の流れを追い、

前回は少しまた寄り道をして(15)「赤と青と緑とヒト」を見ました。

 

今回は、ボリュームのある(17)「記憶について」

詳しく見ていきたいと思います。

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             III

 

赤と青と緑とヒト           (15)    →視覚 脳

症状というもの ー幻聴を例として   (16)    →聴覚 脳

記憶について             (17)    →記憶   言語

 

    はじめに                   

    短期記憶                   

    思索における短期記憶ーミラーの法則

    長期記憶 ー 言語と文字の記憶について    

    一般記憶 ー 想起について

    エピソード記憶について

    私とメタ私

    f記憶とp記憶 

    

精神科治療環境論           (18)

喪の作業としてのPTSD                         (19)

阪神・淡路大震災のわが精神医学に対する

衝迫について             (20)

二年目の震災ノート          (21)

「こころにやさしい」社会       (22)

 

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IIIは、上に見るように8つのエッセイで構成され、(17)もまた8つの小エッセイから成り立っています。入れ子のようでもあり、この8という数に、下で触れる

ミラーの法則=”思索に「上場」できる観念のチャンク数=7プラスマイナス2"

が連想されます。(後のヴァレリーの詩の謎ときでは、数に対する著者の深い造詣がうかがえるので、意味付けがあるはずです)

 

また(17)は記憶と言語のつながり、がキーワードだとも言えるでしょう。前半、著者の中年以降の記憶の衰退が述べられますが、これは後半の議論によると、成人文法性の成立以降の記憶についてです。一方後半では、誕生からある時期の、言葉を介さない新生児〜乳幼児期の記憶、すなわち成人文法性成立以前の記憶、フラッシュバック記憶(f記憶)に焦点が当たります。この時期の記憶はヒト以前につながる古型の記憶であることが示唆され、I の起点キーワードの1つであるPTSDはまさにこの古型の記憶であることが述べられていきます。

 

こうしてみると、成人文法性の成立時期というのは、ヒトの発達過程における大きな記憶の転機であり、またその後にくる人生後半の記憶の衰退もまた、ゆっくりとした転機とらえることができるので、ここにも、 I で見た起点キーワード転機とつながる流れがあるのがわかります。

 

冒頭、著者はPTSDにおける浸入生症候群は、「記憶の病理」でありさらに研究を進める必要があると述べています。

 

この「記憶の病理」の起源を辿っていくと、ヒトの記憶の発達、人類史まで遡るわけですが、かつて、アフリカから始まり移動していった人々が危機回避に必要とした記憶装置がPTSDなのだと考えてみると、グリップを逆側からつかむような感覚がありました。(17)は迷宮にふさわしく、閉じておらず、その先がどうなっているかわからない、手に負えそうもないところが随所にありました。これはまた未解決の思索の種があちこちに散りばめられているとも言えて、面白かった。

 

以下は自分用の備忘録ノートでとりとめのない形ですが、いざ、迷宮へ!

 

記憶について (17)

 

①はじめに

■記憶の衰退について

自分の40歳以降の記憶の衰退を内省法によりこれから述べる。

■記憶の異常の研究について

最近、精神医学の外傷への急速な注目に伴い、侵入症候群が脚光をあびるに至ったが

これは記憶の病理の一つで、そういうものとしてさらに研究を進める必要がある。

 

②短期記憶

40代に衰退を始める。62歳の現在それほど不自由していない。

 

③思索における短期記憶

 

 ミラーの法則 = 成人は7プラスマイナス2の観念「チャンク(塊)」を使い

          こなしながら思索することができるという心理法則。

 

40代、7つほどのチャンクを同時に保持し思索を進め文章に収めるのに不自由しなかった。

 

50歳を2、3年過ぎてこのチャンク数の減少を意識する。この頃、訳詩の能力に目覚める。論文からエッセイへの方向転換。ロールシャッハテストの内容が50歳を過ぎると貧困化することとの関連も示唆される。(IV,V,VIの内容へと繋がる布石)

 

④長期記憶 ー 言語と文字の記憶について

<一般的>

文字の記銘力...18歳以降は急速に衰える

 

<著者の場合>

かなとかなりの漢字...学齢期までに頭に入る → 62歳現在不自由しない

ラテン文字    ...6〜8歳で覚えて使った → 現在不自由しない

ドイツの亀甲文字 ...14歳で知る     →現在ラテン文字と同速度で読める

ギリシャ文字   ...15、6歳で覚える  →少し劣るが、ほぼ不自由しない

ロシア語の文字  ...18歳で始める    →すらすら読めない

ハングル     ...28歳で接する    →書けるが、たどたどしくしか読めない

 

<文字と色>

著者は10歳より前に覚えた、ひらがな、カタカナ、漢字、ラテン文字には一字一字に色彩が伴っているという。文字が複合して単語になれば、また新しく色が生じる。それが音と色の連合なのか文字と色の連なのかはわからない。

 

⑤一般記憶 ー 想起について

「ど忘れ」                      ...若い頃からある。2時間ほど努力していると思い出す。

 

「記憶痕跡の完全消失」

(↑覚えていて当然のことを、記憶していたことさえ全く記憶していない)

            ...42歳で初めて経験。

  

   ⇅  似ている

 

「睡眠持続感の消失」

(↑どのくらい眠ったかの感覚の消失)

            ...40歳代に次第に怪しくなり、

              50歳代には時間感覚がわからない眠りになった。

 

⑥エピソード記憶について

 

   エピソード記憶   =  人格を形成し持続する上で不可欠な記憶

 

老人が過去の物語を繰り返しするのは、エピソード記憶の再強化であり、適応的な行動である。若い頃の記憶が保たれやすいのは、それが人格形成に参加した重要性があるため。何かの技能を習う際は、やり始めの頃の記憶が鮮明である。

 

外国語習得、本の内容の獲得過程では、著者はその初期に「全感覚が全開になる」という。エピソード的に記憶する際に、五感が総動員されると言える。これは II (12)で見た「はじめの一冊」の内容とも関連している。

   

⑦私とメタ私  

著者は本の表紙を目にしただけで内容が思い出され邪魔になった経験を持つ。表紙が索引となり、記憶が呼び起こされる。つまり普段はしまわれている記憶があり、またしまうことによって、私たちの精神は護られてもいる。

 

■著者が「メタ私」と呼ぶもの

「意識的私」の内容になりうるものであって

現在はその内容になっていないものの総体。

 

■「メタ私」のイメージ 

そこから何かを必要に応じて引っ張り出せる母胎(マトリックス)

「輪郭のはっきりしない真珠の塊」「ポテンシャルの感覚」

 

⑧f記憶とp記憶

 

■フラッシュバック的記憶(f記憶)  

<特徴>文脈がない。鮮明な静止映像(主に視覚だが、聴覚、触覚、振動感覚も)

    多少の動きがあるとしても単純で短時間。

    感情を伴わず、加工がなく、年をとらない。

    人格形成に参与しない。

 

<時期>生誕〜ある時期

   

    ピエール・ジャネ(ヒステリー患者の解離性言明との関連で)

    「f記憶は「記憶以前」である」

   

■パーソナル記憶(p記憶)

<特徴>文脈があり、前後関係がある。終始動きの中にあり、自己言及的であり、

    言語化されて「語りnarrative」となり、

    それをとおして個人史の中に位置付けられる。

    おそらくp記憶にもとずいて自我と人格との連続性、唯一性、一貫性、

    整合性、独自性の感覚を持つ。人格形成に参与。

 

<時期>ある時期以降〜

 

■p記憶とf記憶の境界となる「ある時期」について、筆者の考察

 

心理言語学 ... 2歳半〜3歳の数ヶ月で「成人文法 adult grammaticality」

       が顕在化する。

 

精神分析学 ...3歳〜5歳をエディプス期と呼び重要視する。

      

      バリント:エディプス期を成功裡に突破して初めて

                                 成人共通言語 common adult language が成立する。

           なぜなら成人型の三者関係がエディプス期通過によって

           初めて成立するからである。

               ⇅

           エディプス期以前→濃密な二者関係の言語

                    これを成人言語に引き上げて理解

                    すると無理が生じる。

       

 

          ↑

   上記2つの分野で注目される時期が「ある時期」

  「f記憶とp記憶の年齢的境界線と一致するのではないだろうか」

         

   *3つの連動  

   成人文法の成立 ⇄  三者関係の理解 ⇄  p記憶の成立

 

   この成立以前のf記憶は、「メタ私」の奥へとしまわれるのではないか

 

言語発達 ... 胎児期 →母語の拍子、音調、間合いを学び取る。

          生後一年→喃語

           発生関連筋肉および粘膜感覚を母語の音素と関連づける

           単語の記憶開始→ f 記憶的

          一歳以降→言語使用の開始。

           しかし、言語と記憶映像との結びつきは成人型ではない。

 

          ↑

   (著者の仮定)f記憶⇄古型の記憶  p記憶⇄新型の記憶

     f記憶が優勢であった系統発生的な時期が存在した。

          

■PTSDについて

   PTSD (心的外傷ストレス症候群)の重要な症状である浸入症候群

   を構成する記憶こそまさに古型の記憶だということができる。

   それは危機回避のための記憶、

   狩猟時代以前の狩られる側の人間に有用だったと推定される。

   また古型の記憶はヒト以前に遡るだろう。

 

■夢の記憶について   

   生理学的には毎晩夢を見る

 

   「夢を見たことがない」→ 夢作業がめでたく完遂           

   「夢を見た」     → 夢作業の不消化物               

 

   夢作業:昼間の論理では解決消化できなかったもの            

       を消化する使命を持つ                     

 

<私の臨床経験によれば、夢は覚醒後1分以内に急速に細部を失い、言語化しえないものは消失し、要するに非常に単純になる。この過程を筆記して行う夢分析は、夢をそれ自体よりもその言語化方式ー何に注目し何を無視するかーによるところが大であり、したがってフロイト派がフロイト派の、ユング派がユング派の夢を見るのも当然である>

↑この夢分析について述べた箇所が私には面白かったです。息子は中3の自由研究で音楽が夢へ与える影響を記録したのを思い出して。

 

■著者が行う夢からの精神健康度評価

 

 <健康な夢の忘れかた>

 目覚める →言葉への置き換えが順調にやれる

 1分以内 →ストーリーが単純化

 2時間以降→ストーリーが生々しさを失う

 正午以降 →夢のテーマが何だったかくらいが残る

 

 <健康な夢の形式>

 シュルツ=ヘンケのいう「ツェールズ Ceasur(休止符)」がある。

 「ジャンプ」「お話かわって」があるほど夢作業が盛んで健康。

 

■外傷性記憶が悪夢となる場合

 

 外傷性悪夢=夢以前  c.f. 外傷性記憶=記憶以前

 <特徴>凍りついた感覚像

 夢につきものの「加工」(ずらし、置き換え、ストーリーの変形、飛躍)がない。

 

   山口直彦氏(PTSDの総説)

 通常の夢は、レム睡眠で起こり、外傷性悪夢はノンレム睡眠で生じる

 という研究があると報告。