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考える道具を考える

The instrument which I think

映画「ジェネラル・ルージュの凱旋」(中村義洋監督作品)で堺雅人さんは、救急医療チームのリーダーを演じている。人間の喜怒哀楽を笑顔で表現する役者と評される堺さんは、この作品でも、縦横に絡まる複雑な人間関係や自分自身との関係を、笑顔のような微笑で演じている。

ストーリィは、救急医療の現実の厳しさと、病院経営の難しさ、そして派閥争いなど、比較的複雑な展開でサスペンス的要素もあるが、メインテーマは、堺さんが大規模事故の救急体制を指揮している時の自分との戦いにフォーカスされていると見ていいだろう。

緊急事態に対処するリーダーが、顔面蒼白では怪我人が不安になる。震える心を多い隠すように、一条のルージュが塗られるシーンがある。白くなった唇を口紅で赤く染めて、緊急事態に対応する自分の顔を作る。メタ認知。

他人が見る自分の表情は、鏡で見る自分の表情とはまったく異なると茂木先生は書いている。

 ‥自分の顔こそが、自分とっての最大の死角である。(化粧する脳より)

自分の死角を補ってくれるのが、鏡の存在だとも‥。ミラーニューロンの発見と社会に開かれた自己意識。社会や他人との最大のインターフェイスである自分の顔をマネジメントすることは、とても大切なんだと思いますね。


多読ではあっても、速読ではない。

 ‥食べることが出会いであるように、
  読書も出会いです。

読書は大変な行為だと思わずに、色々な食べ物を楽しむように読書する。
ここに、巨人の多読術のヒントがあるようですね。

そして「攻読」と「守読」というキーワードも登場する。
千夜千冊での読書の基本姿勢は、その多様性を肯定し、自らの問題意識にすり合わせていく。

これが読書の極意だと理解しました。

そしてどんな読み方も全て肯定する。読書に正しい読書も間違った読書もないということは、とても嬉しい指摘ですね。体内の読書リズムを維持していくという考え方にも驚愕でした。

文章を書く技術については、世の中にはたくさんありますが、読書の技術についてまとまった書籍がなかったのは、確かに不思議です。


結局、私も本を読むことが好きなのではありますが、紙で創造された書籍そのものに触れていることそのものも好きなのだということに気づき、またその時間を楽しむということも、既に読書のうちなのだという巨人の指摘に深く共感するのでした。



考える道具を考える-正剛多読術
「多読術」(松岡正剛著 2009年4月10日刊 ちくまプリマー新書)を読んだ。

嬉しい本だった。何せ、千夜千冊の松岡正剛さんの、いわば読書のノウハウ公開の一冊だったからですね。土日を休んで毎日一冊の本を取り上げ、原稿用紙10枚から15枚の「感想」を書く。1000冊に向かう途中から私は千夜の世界に入り込みましたが、この「感想」を読むだけでも大変だったのに、読んで書く、書き続ける巨人の本との係わりに驚愕していたのでしたね。


本を読むことは、オーケストラを聴くことと似ていると思っている私は、本著から「本を読む」という行為の本質を見たいと思ったのでしたね。

読み方のスキルは、沢山書かれている。私が感心しているのは、「マーキング読書法」と巨人自らが名づけている方法ですね。「本はノートである」という定義。まるで校正紙のような姿になっていく本の各ページ。これが本を編集しながら読む、リデザインするという発想です。

この方法の根拠は、こんな言葉の中にあります。

 ‥自分の気になることがテキストの“どの部分”に入っているのか、それを予測しながら読む。

この二つの方法論が巨人の術なのだと思いましたね。そして、本は再読する。かつて読んだ本を、今読んでみる。すると、そこには時空の大きな開きがあって、かつて読んだときの記憶との差異に驚くといっています。再読することの楽しみ。それは、自分の歴史との再会とでもいえばいいのでしょうか?

私は、毎年新年を迎えた最初の読書は、カミュの「変身」です。毎年読んでいます。文庫の汚くなった一冊から、その年が始まりますが、毎年毎年、その同じ本は、私にとってまったく違った本として存在していることに気がついています。その差異を楽しんでいます。

本著は「多読術」とタイトルが書かれていますが、そこには様々なジャンルの複合的読書の勧めと同時に、同じ本を多読することも勧めていると気がついて、とても嬉しくなりました。


茂木健一郎先生「化粧する脳」(2009年3月22日刊 集英社新書)を読んだ。

人間の化粧行動とミラーニューロンの関係を解明し、社会的知性を持った人間の本質に迫ります。

もともと心理学の世界では、化粧行動はペルソナの一つの行為として研究されてきた大きなテーマでしたね。その意味では、脳科学の研究によって、ペルソナの研究にさらに拍車がかかるのはとてもよいことではあります。

私‥という存在。私を見る私‥という存在を確認した哲学的営為によって、人間は多くの謎に包まれるようになりましたね。あるいは、あるべき私とあるがままの私。

この心理的乖離が生む矛盾が、様々な葛藤を呼び込み、あるいは人間を成長させる原動力ともなっているという原理。

それにしても化粧という行動が、現代では女性だけの特権のようになっているのも、本当はおかしなことではあります。自分が社会に対してどう見られるかという自己意識は、男女の差異はないのでしょうから、これからは、化粧する少年、青年が普通の世の中になっても不思議ではない。(おじさんはやらない方がいいですね。気持ち悪いだけだから‥)

そういえば、テレビでも放映されていた北野武さんの座頭市では、少年の早乙女太一の化粧姿が美しかったのですが、ガダルカナル・タカも化粧するシーンがあって、これはテレビでは映し出されませんでした。

なにはともあれ、今日から、少なくとも、出掛ける時は、じっくり自分の顔を見てみることにしましょう。



社会的名声を得た偉大な親を持つ子供の心境は、どのようなものなのだろうか?

中村雅俊さんは、私の同世代の俳優であり歌手であり、女優五十嵐淳子さんの夫でもある。青春ドラマで一世を風靡し、アクは強くないが、団塊の世代の次の世代を象徴する男の姿として好感を持つ人は多かった。

しかし今回の息子俊太さんの大麻での逮捕劇は、大きな親を持った息子の悲劇を感じずにはいられなかった。あの偉大な長嶋茂雄さんの長男一茂さんも、今はキャスターとして活躍しているものの、その社会とのつながりの中では大変な苦労を重ねたという告白を聞いたことがあります。心身のバランスを壊してしまうらしい。

子供の頃は、逆にいじめの対象とすらなる偉大なる両親を持った子供。その心の屈折は、予想以上の大きなものなのかもしれませんね。そして大人になった時の自分の最初のライバルが、偉大なる父親であるということ。さらには、その大きさゆえに乗り越えられない壁の存在もあるかもしれません。

戦国武将の二代目は、概して小粒。ビジネスの世界でも偉大なる経営者の二代目は、共通して小粒に見えてしまう。

何かを成し遂げる勢いと、成し遂げたものを守る勢いでは質が違う。

まずは、父親を否定することから、新しい自分の在り方を探していくことが、大切なんだろうと思います。堺正章さんの活躍を見ていると、そんな二世の努力の方向性も見えるように思えますが、その努力の時間も膨大なものだったろうと推測できます。

本当は、乗り越えるべき壁は、大きいほうがいいのだが‥。